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 闇が濃くなり、辺りをすっかり夜が覆い隠す戌の刻となって、重陽節会は始まった。いや、正確を期せば明るいうちから始まっていたのだが、宵姫の出番となる酒宴の席が設けられたのだった。

 昼間に行われた菊の花の鑑賞会や、漢詩の品評会が終わり、長命の効能があると言われる菊酒を嗜みながら、楽人たちの雅楽を聞く。宵姫の演目は、一番最後の琴演奏だった。

 節会に引き続き、酒宴が催されるのは紫宸殿ししんでん――内裏において、元服やこうした節会などの行事ごとが行われる正殿だ。

 殿舎の南に広がる南庭、その中央に舞台、そしてそれを囲むようにぐるりと毛氈が敷かれ、観客が座る場所になっている。東には桜、西には橘の木が植えられていて、夜風にさわさわと枝葉が揺れていた。

ここがかの有名な場所かと、足を踏み入れた時にはさすがに舞い戻ってきた緊張が、降り注ぐ月光の下で再び緩く解されて行く。

 そばにつき従う女房に扇で顔を隠され、着物の裾を持ち上げてもらいながら舞台に上がった宵姫の胸は、高鳴る鼓動で苦しいぐらいだった。

 ――初めて、誰かに聞いてもらうことができる。

 いつも一人きりで爪弾いてきた琴の音を、たとえ帝の気まぐれであったとしても披露することができるのだ。この公の場で、少なくとも今だけは自分の音が――自分の存在が必要とされているのだ、という事実だけで、例えようもない不思議な喜びが湧いていた。

 ――どこかで見ている? 蛍鬼。

 舞台の上に置かれた簡易の御帳台。その中で最初の一音を弾きながら浮かんだ顔が、人間ではないことに我ながら苦笑する。

 けれど、顔も知らない高貴な帝のために、というよりも、やはり慣れ親しんだ鬼にこそ、自分の晴れ姿を見てほしい。そう思ったのだった。まるで自分を勇気付けるためにやってきたような――そんな優しさなど持たないはずなのに、時々こうして温かい気持ちをくれる、彼に届くようにと願う。

 立てられた几帳からわずかに透けて見えるのは、立派な着物をまとった貴族たちの姿。女官たちが彼らの手にする杯に注ぐのは、菊の花を浮かべた酒だろう。既に宴を楽しんできた人々の顔は一様に明るく、琴の音に耳を傾けているのかどうかなど、わかったものではない。だが、それでも指は震え、一音一音弾くたびに抑えてきた思いがあふれ出るようだった。

 ――ああ、今自分はなんと自由なのだろう。

 常に孤独の中に身を置き、話し相手もろくになく、太陽の光を恐れて隠れ生きてきた自分が、観衆の前で琴を弾いている。それだけで背中に羽が生えたような軽い気持ちになっていた。そして、演奏が終盤に差し掛かる頃、ふいに強い風が吹き、几帳をはためかせる。演奏を続けながらも顔を上げた宵姫の瞳に映ったのは、遠い記憶の中の、懐かしい立ち姿――。気まぐれな一陣の風はすぐにおさまり、一枚の薄布をへだてて見えなくなった。

 ――それでも、間違いない。間違えるはずもない。だってあれは……!

「お父、様……!」

 つい、呟きがもれる。絹糸を弾く指が震えた。落ち着いた檜皮の狩衣に身を包んだ、見間違えるはずもない父の顔。最後に会ってから十は年老いたとはいえ、記憶と寸分たがわぬ懐かしい面影。

 ――聞いていてくれる。

 ずっと求めてやまなかった父が、自分に背を向けてきただけの肉親が、遠くからとはいえ琴の音を聞いてくれているのだ。その理知的な面立ちに、親愛の情がなかったとしても、それでも――。

 それだけで十分だ、と思えた。贈ってくれた紅梅の五衣、そして素晴らしい音色の出る琴で、自分は精一杯奏でよう。おそらく生涯でただ一度の、栄誉なのだから。

 宵姫の震える心が絃につたわり、夜空に音の輪がつらなっていく。美しく、それでいて切なく、心を打つ演奏の素晴らしさに、観衆は皆酒杯を傾ける手も止め、聞き入った。幼い頃からの胸の丈を全てぶつけて、更に空の高みへと昇華させて、息をすることさえ忘れさせてしまうほどの熱に転ずる。そう、それは宵姫の熱い心の内そのものだった。

 親の愛を求め、周囲の情を求め、所詮得られないものだと常に抑え付けてきた心。幼い時から変わっていない、泣きたくなるほどの渇望。それが、宵姫の心底にいつも渦巻いていた感情だった。

 最後の音色は、ことさらに切なく響き渡り――演奏を終えた瞬間、拍手と歓声が宵姫を褒め称えた。初めて感じる、人々の喜び。その中にいるたった一人の肉親を思いながら、姫はいつしか瞳を閉じていた。頬に流れる涙の感触は、それでもひどく温かかった。


 節会での演奏には、帝も大層お喜びになられた。楽人たちが嫉妬するほどの妙技であったと、それはそれは賞賛されておられたらしい。だからこうして宴が終わってもまだ、宮中に留め置かれているのだ。それは大変栄誉なことである。

 そんな女房たち――こちらは宮中で、客人扱いとしての宵姫に与えられた世話役である――の会話を聞いても、まだ信じられない思いでいっぱいだった。疎まれ、遠ざけられるだけであった自分の琴が、まさか都の帝に気に入られるなどと。

「夢みたい、という言葉は……こういう時に使うのかしら」

 頬をわずかに紅潮させ、ぽつりともらした呟きは、誰もいなかったはずの室内にわずかな変化をもたらした。格子を上げてもいないのに吹き込んできた夜風。その原因となるものを視界に見とめて、宵姫は手にした扇を口元にかざした。

「蛍鬼――突然現れないでちょうだい。驚いて、人を呼んでしまうところだったわ」

 うっとりしていた顔つきを見られたかと、照れ隠しにそう言った。が、あえなく扇は浅黒い指にそっとずらされて、萌黄の瞳が覗き込んでくる。姿形は人間に見えるようまた工夫を凝らしてはいたが、いつもの通り礼儀などという観念に縛られることのない、語り喰いの顔だった。

「人を呼びたければ呼んでもいいぞ。だがな、いくら寛大なわしとてそろそろ虫の居所も悪くなるというもの。昨夜の演奏は空腹を慰めてはくれたが、満たしてはくれなんだ。わしは語り喰い。語りを喰わねば死んでしまうのだぞ? 言ったであろう、これからはお前の紡ぐ語りだけを喰いに来ると」

 珍しく間隔が空いていると思ったら、空腹に苛立っているらしい。それでも昨夜は遠慮してくれたのは、彼なりの気遣いと言えるのだろうか。結局は勝手を言うくせにと、宵姫は苦笑した。

「私の紡ぐ語り、ね――今はあまり……物語を考えられる気分ではないのだけれど」

 こんな風にぼんやりとした頭で、物語の世界を創造するなどできるわけもない。

急きたてるような眼差しに戸惑いながら、宵姫は答えた。

「ふむ。そうだな――言った通りわしは寛大だ。ならば今宵は昔聞いた語りで辛抱してやるとしよう」

「昔、聞いた……?」

「ああ。初めて会ったあの晩、お前が語ってくれただろう。竹取の翁とやらが出てくる、あれだ」

「それは別に構わないけれど……どうして一度聞いた話を?」

「ただまた喰いたくなっただけだ。いいから、はよう話せ」

 また幼子のように急かす蛍鬼の、意外な要望。自分勝手なのは常ではあるが、そっぽを向く浅黒い肌は、薄く朱に染まっているようにも見える。

 ――照れている? まさか、ね。

 首を傾げつつも、すぐにそんなはずはないと打ち消した。だって、鬼である彼にはあり得ないのだから。

 それでもなぜか笑みの浮かんだ口元を引き締め、宵姫は話し出した。都の大内裏、しかも客人に与えられた豪華な居室であっても、蛍鬼といると、いつもの山中にいるようだった。

 それに、どうせ女房たちも夜はここにはいないのだ。ただ調度や着物が豪華なだけで、待遇自体は大して変わっていないのだと改めて気づく。全てが満たされたような昨晩の思いはやはり幻で、宴の後にも父親からの言葉すらない。それが自身への感情を如実に示しているではないか――。

 浮き上がりかけた気分が沈み行くにつれ、宵姫の頬に寂しげな微笑が浮かぶ。竹取の翁に大切に育てられ、その美貌を称えられ、数多くの男性に求婚されても決して喜びはしなかった、物語の姫君と同じように。

 小さな頃から何度も聞いたかぐや姫のお話。自分の置かれた境遇をはっきりと自覚し始めて更に、とても身近に感じられた。自分もいつかは月に帰る身なのではないか。だから日の光を禁じられた体なのだ――そんな風に思い描く時だけ、寂しさも悲しさも癒される気がした。

 語り終えた宵姫の前で、ぼうっと仄かな光を帯びていた蛍鬼の双眸が瞬いた。いつのまにか元に戻っていた白髪が、風もないのにさわさわと揺れ、そしてまた大人しく銀の衣に垂れた。蛍鬼の食事が終わったことを示す合図である。

「どう? 語りは美味しく頂けて?」

 物語にはせていた自分の意識を引き戻すため、あえて訊ねた。蛍鬼は、なぜか満足げな顔をしてはいなかった。

「空腹はおさまったが――味のほうは先に喰ったお前の語りには劣るな」

「そう。それは申し訳ないわね」

 正直すぎる返答に少々気分を損ねて、皮肉も込めた笑みを浮かべた。が、蛍鬼は笑い返そうとはしない。

「お前、知っているか? わしら語り喰いが喰うのは、語りだけではないことを」

 白髪を背中に流した蛍鬼が、独り言のように訊ねる。純粋な驚きから首を横に振った。知らないのも当然だ。だって、彼が自身の力について話すことなど、初めてなのだから。

 昨夜の彼自身の『語り』といい、今夜といい――一体どうしてしまったのだろうか。

 密かに目を見張る宵姫には気づかず、蛍鬼は続ける。

「もちろん主体は語りそのものだが――誰が話してもいいわけでは決してない。相性の問題もあるし……声や語り口調、音の強弱、要するに気に入らぬ語り手の語りなど、味わうどころか舌が受けつけないのだ。見た目の醜悪はともかくとしても、語り手の人格、心、放つ空気そのもの。それら全てが語りと相まって、美味な馳走となる。だからつまり――だな」

 いつになく歯切れの悪い話し方。らしからぬ仕草は、ぽりぽりと額を掻く指先まで人間めいたもの。そして、常にまっすぐこちらを射抜く眼差しが先ほどから逸らされていることに、一番違和感を覚えた。

「蛍鬼……あなた、どこか体の具合でも悪いの?」

「なっ、何を言っている! わしが人間のように病にかかったりするとでも思うのか?」

「いいえ、そうではないけれど――」

 ならば一体どうしたのだろう。きょとんとして、小首を傾げた宵姫に、蛍鬼は苛立ったように白髪を掻き乱して見せた。

「ええい、柄にもない! なぜこのわしが人間ふぜいにこのようなことまで教えてやらんといかんのだ。とにかくだ、わしが言いたいのは――さっさとこんな堅苦しい屋敷を離れて、お前の住まいに戻れという、そうだ、それだけだ!」

 語り喰いの目には、天下の大内裏も、何の意味もないものらしい。単なる屋敷呼ばわりをする自由な発想に目を丸くしていた宵姫も、そのうちに笑い出してしまった。鈴を転がすような軽やかな笑い声に、蛍鬼が瞳を細める。

「……そうね、あなたの言うとおりかもしれないわ。私の住まいはやはりあの山奥の館。不思議――あれほど出てみたかった外の世界にこうしているというのに、思い出すのはなぜか、あなたと過ごした夜のことばかり。幼い頃から聞き集めた物語を味わい、楽しんで聞いてくれたあなたの瞳……蛍の美しい光を見る時、私も楽しんでいたのだわ……」

「ふん、わかったならそれでいい。で? いつ戻るのだ。できればわしの腹が減る前に頼むぞ」

 勝手気ままな要求にくすくす笑いながら、宵姫は頷く。誰も近寄らない一人の空間。つい先ほどまであれほど空しく思えたこの場所さえ、蛍鬼の手にかかっては、いつもの時間に変わってしまう。そしてわがままな語り喰いとの会話を、自分もこうして楽しんでいるのだ。

「きっと長くは続かないわ。見世物は、物珍しさが消えれば必要もなくなる。だから、またすぐに戻れるはずよ」

 断言してみせた宵姫に満足げな笑みを返し、来た時と同じように唐突な退室をしようとして、蛍鬼はふと立ち止まった。さらりと流れた白髪が、銀糸のようにきらめく。

「できるだけ早く、と約束したぞ? ただでさえ面倒な匂いが充満している。こんな都など、とっとと出るに越したことはない」

 意味ありげな一言を残して、蛍鬼は去った。風のように現れては消えていく鬼。恐れ慄くべき対象が、もう全く怖くなくなっていることに、宵姫は再び苦笑する。彼の言葉に秘められた真実に、まだこの時は気づいていなかったのだ――。


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