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 都への旅は、宵姫のためらいなどお構いなしに始まった。

 立派な輿に揺られ、進むのは夜。普通の旅人が休むべき時に距離をかせぐのだから、すれ違う者など誰もいない。元々会話も試みたことのない女房に付き従われているのだから、宿での休息の際も静寂が支配するばかり。息が詰まりそうな沈黙に耐えかねて、幾度か訊ねたものの、結局父の本心はわからずじまいだった。

 長い道程で一番に感じたことといえば、自分の体力がいかに衰えているのか、ということだろう。揺れる輿の中、姿勢を保つため手摺にずっとしがみついているだけでも大変な自分とは違い、時に徒歩で進む女房や、重い輿をかつぐ力者たちのほうが遥かに生気あふれる顔をしていたからだった。

 それでも狭く窮屈な輿に揺られ続ける苦痛を耐えるだけの価値は、十二分にある旅だった。いや、旅というもの自体が新鮮で、嬉しくてたまらなかった。ずっと抑えつけられてきた思いが、あの館から出るのと同時に解放されていくようだったのだ。月光を浴びながら遊んだ庭ではなく、小さな輿の中から見る世界がより広いだなんて――皮肉には違いない。

 けれど、通り過ぎる幾多の村里を、粗末な家々の煮炊きの煙を、そして道々の虫たちの声を見聞きするだけでも、宵姫の心は弾んだ。一番心配されていたのは雨だったのだが、不思議と旅の間中一度も降りはしなかった。月と星の明かりに導かれるように、宵姫の一行は進み続けた。

 つごもりに出発して、ちょうど八日月を見る頃に、都へとたどり着いた。輿を牛車に乗り換え、整然とした朱雀大路をゆったり進み、ついに大内裏に入った時、宵姫の胸に渦巻いていたのは不安と恐ればかりだった。

 山中の館でのみ時を過ごし、宮中の姫君たちに比べれば教養などほぼ無に等しい自分。しかも日の光にあたることのできない身となれば、周囲の反応など知れたもの――大勢の人々の前で琴を弾くなど、できるはずがないのだ。

 与えられた居室で昼間に休息を取り、夕日が山に落ちようという時刻になって目覚めた宵姫の心は、逃げ帰りたい気分でいっぱいになっていた。辺りに火が灯され、慣れ親しんだ闇が訪れた頃合になってようやく、多少の覚悟が決まる。

 ――何も特別なことをしろと仰せなわけではない。琴を、いつも通りに弾けばいいだけなのだから。

 道中何度も聞かされた女房の言葉をもう一度思い起こして、震える両手を握り締める。例年の宴に飽いておられる帝のため、少しでも変わった催しを、というだけの理由で自分は呼ばれたのだ。都の姫君たちや楽人にはない、自由な爪弾き方を聞いてみたいだけなのだ、と。月光しか浴びることの許されない、山中の姫。それだけできっと、大した見世物であるのだろう。実際、どんな演奏をするかなどきっと誰も気にはしないはず。

 そう思うことでやっと落ち着きを取り戻しはじめた宵姫の耳に、ことりとかすかな音が届いた。振り向くと、一陣の風。そして、すぐ後に御簾を上げて入ってきたのは、一人の若者だった。叫び声を上げそうになって、寸でのところで止めた。黒髪、黒い瞳に白い肌。都にもあふれている普通の色彩の中に、いつもの微笑を見たのだ。

「蛍、鬼……? こんなところへ、一体どうやって……?」

 聞いてすぐに愚問だとわかる。何せ、彼は神出鬼没。人間の決まりなど通用するはずもない。だからこそ、警備も厳重な大内裏の中、客人扱いの自分の居室にまでやってこられるのだろう。

「お前の匂いを追ってきたのだ。珍しいな、このような人の多い場所にいるとは」

 おかげで久方ぶりにこの姿を取るはめになったわ、とどこか不服そうな顔で言うと、いつものように堂々と向かい側に腰を下ろす。文句を言うわりには楽しそうにも見えるのは、おそらくそのまま彼の天邪鬼ぶりを示している。

「狩衣に立烏帽子まで――どこからそんなものを調達してきたの?」

 渋めの虫襖。季節に合った色目まで知っているかのような洒落た狩衣に身を包んだ蛍鬼は、宵姫の問いに唇の端を上げて笑う。

「これか? 先ほどこの辺りで見かけたものを真似ただけのこと。それを調達というのなら、簡単なことだ」

 言いながら腕を上げ、膝を立て、物珍しげに自分のいでたちを確認している鬼の姿に、つい苦笑してしまう。人間めいた仕草を日に日に身につけていく蛍鬼がおかしくて仕方がなかったのだ。笑ったことを咎められるかと思いきや、意外なことに蛍鬼まで嬉しそうに微笑んでみせた。

「ようやく笑ったな。ここまでの旅路では、一切そんな顔も見せなかった。さてはあの窮屈な入れ物が、よほど乗り心地が悪かったのだろう」

「窮屈な……って、まさか、ずっと見ていたの?」

 山を下り、都までやってくる道程の間、一度も蛍鬼の存在を感じることはなかった。だから、きっといつもの気まぐれで、自分の語りを『喰い』に来るつもりがないのだろうとばかり思っていた。それなのに――。

「気づいていなかったのか? まあそれもそうだろう。気配を隠しておいたからな。お前はともかくとして、お付きのやつらや集落の人間に姿を見られてはいちいち面倒なのだ」

 口ぶりのわりには余裕の笑みで、蛍鬼は答える。面倒だ、というのは言葉だけで、実際見られたとしても彼ならば何とでも対処できるのだろう、と思わされる表情だった。

「それにしても都とやらは美醜さておき、様々な語りに満ち溢れた場所だな。味さえ構わなければ空腹に困ることは一生なさそうだ」

「一生……」

 無意識に繰り返しながら、語り喰いの一生とはどれほどの長さなのだろうと考える。きっと人間のものとは全く違う時の流れに、彼らは生きているのだろう。

 自身の白すぎる手を見つめていた宵姫は、物思いを断ち切って、蛍鬼に微笑んでみせる。

「よかったわ。少なくともこうして人間がたくさんいる限り、あなたは困ることがない。私でなくても、語りを呈するに適した人間もきっといる――」

「何を言っている。わしは美醜さておき、と言ったはずだぞ? この舌は醜い語りを求めてはおらぬ。この都に、お前の語りに優る美味などないのだ。だからこそこうして何年も足しげくお前の元に通っているのではないか」

「まあ、足しげく通う、だなんて……まるで恋人同士ね」

 思わず言ってから、くすりと笑い声をもらす。宵姫の珍しく年相応な表情になど気づくわけもない蛍鬼は、憮然として唇を引き結んだ。

「恋人だと? わしは恋など必要とせん。あのようなくだらぬ感情に振り回されるなど、時間の無駄。生とは、自分のためだけにあるものだ。わざわざ身を焦がして自分以外の者を想うことほど愚かな行為はない。そうは思わぬか、宵姫」

 苦虫を噛み潰したような顔。それこそ人間そのものの豊かな感情表現を真似てはいても、やはり鬼は鬼。彼の世界の一番は、自分自身なのだろう。

「ええ、そうかもしれないわね」

 おかしそうに笑いつつ、同意を示す。それでも一瞬見せる悲しげな目つきに表れるのは、紛れもない孤独だった。

「……お前は、恋をしたいと言うのか? 月に魅入られた姫よ」

 夜毎、誰もいない庭へ出て思いきり外の空気を吸い込み、いつまでも空に浮かんだ月を見ている。そんな宵姫の姿を知る唯一の相手は、低い声で問いかける。

 いつしか、黒髪や肌の色はそのままに、瞳だけ蛍の色を浮かべていた。

「月に魅入られた――そうね、私にとっての月は……とても近しいもの。けれど、そんな月に込めて恋しい相手への想いを歌った歌は、数限りなくあるわ」

「歌、だと?」

「ええ。例えば、そうね……やすらはで、寝なましものを、さ夜ふけて――かたぶくまでの月を見しかな」

 突然読み上げられた和歌に、蛍鬼は怪訝そうな顔つきだけを返す。

「簡単に言ってしまえば、恋しい相手を待ち続け、眠ることもできずにこうして月を見つめている、という恋の恨みごとね。他にもあるわ。嘆けとて、月やは物を思はする。かこち顔なるわが涙かな――自分に物思いをさせるのは月ではない。それでも月のせいにして、こうして涙を流すのだ……そんな切ない恋を歌ったものよ。月になぞらえて恋しい人に恨みを吐き出した歌なら、もっとある」

「宵姫――」

 戸惑いを蛍の瞳に滲ませて、名を呼ばれてもまだ、宵姫は語り続けた。無邪気な笑みを浮かべているのに、その眼差しには深い悲哀が宿っている。

「今来むと、いひしばかりに長月の、ありあけの月を待ち出でつるかな――これもそう。殿方からの便りを信じ、いまやいまやと心おどらせながら待っているのに、あなたはまだ来ない。ね? どれもこれも、古今東西、月に恋の恨みつらみをぶつける歌がどれほど多いことか。苦しみ、嘆き、恋焦がれ、身を捨てんばかりの激情――そのどれもが、私が味わったことなどないものばかり。それはきっと、これからも……」

 今度は何も言わずに、蛍鬼はじっと視線を注いだ。今にも涙がこぼれそうな潤んだ黒い宝石を、愛でるようにも、悼むようにも見える萌黄の眼で――。

「――だから、かえってうらやましいようにさえ思ってしまうのかもしれないわね。どれほど苦しくても、切なくても、全力で愛せる。そんな恋ができたら……どれだけ素敵かしら、なんて」

 所詮は、呪われたこの身には不可能なことだ。そう知っているからこそ――手に入らないからこそ、切望するものもある。自分のこの両手には、手に入らないものばかりだけれど――。

 振り返り、微笑んだ宵姫は、かすかな驚きを瞬きに転じさせる。

闇夜に浮かぶ月に、映える純白の長髪。それはこの鬼が持つありのままの色彩で。

「どう、したの? 蛍鬼……人に見られては厄介だって、あなた――」

「ああ、構わん。誰か来ればすぐに姿を消せばいいだけのことだ。それよりも……一つ、語りを聞く気はないか?」

「語りを……聞かせる、のではなくて?」

 なんと珍しいこともあるものだ。いつも宵姫に強いてきた役割を、突然交代するかのような言葉に、そう問いかけた。

「そうだ。天下の語り喰いが語り聞かせてやろうと言うのだ。これほどに名誉なことはないぞ?」

「それは……そうでしょうね。ええ、いいわ。喜んで聞かせていただきましょうとも」

 冗談めかして答えると、なぜかほっとしたような顔で蛍鬼も笑む。

 それでは、といきなり背に手をやられ、大柄な体に引き寄せられて、悲鳴をあげそうになった。けれど、じっとしているように、と人差し指で示されて、渋々黙り込む。

 そして――言われるままに瞳を閉じた宵姫は、世にも不思議な感覚に言葉をも失った。

 語りを聞かせるのだと言っても、蛍鬼の唇はぴくりとも動いていない。それなのに、目の前に広がるのは、現実のような別の風景。

 自分は確かに今、都の屋敷にいるはず。が、夢でも見ているかのように、絵巻物が動いているかのように――幾つもの情景が見えてくるのだった。

 それは、山深い人里のように見えた。けれどもそうではないことがわかったのは、家々の様式や生活道具、服装などが少しずつ異なるからではなく、彼らの頭に生えた角のせいだった。中央に一本であったり、二本であったり――はたまた、三本ある者もいる。肌の色も、白があれば黄色がかったものもあり、朱を帯びたもの、そして浅黒いものもあった。そう、それは目の前にいる、彼と同じ色合いの――。

「蛍、鬼……?」

 思わずもらした呟きまでも包み込むような抱擁は、ただ沈黙を守っている。それでも宵姫にはわかった。この不思議な光景の中で笑い、怒り、また静かに生きているのは蛍鬼自身なのだと。幼い頃から、青年の姿になるまで――恐らくは長い長い時間が、まるで一瞬のように目の前で移り変わっていく。話に聞くだけの異国の物であるらしい衣服――唐の国や大陸風の装い、そして今身につけているような着物にいたるまで。ありとあらゆる時代の、様々な国の装いをした蛍鬼は、段々とその表情を今と似た飄々としたものに変え、人間たちの語りを追い求め、時には嘲笑い、反発しながらも『喰って』きたのだということ。

 見せ付けられた光景は全て、彼が異形の存在だと示しているのに、なぜだか彼の心が大きく傷ついているらしいのはわかった。

 それは幼い頃に同じ語り喰い同士であるのに子供たちにからかわれ、揉め事を起こし、その内に一匹狼のようになった背景からというよりも、その大きな一因である記憶。

 見えずとも、蛍鬼の心が伝えてくる孤独の匂いで感じ取ることができた。彼もまた、深い闇を抱えてきたのだということが――。

「これが……あなたの語り……?」

 ふっと突然掻き消えた情景。舞い戻ってきた薄闇が、語りの終わりを告げていた。

「どうして、私に見せてくれたの?」

 その問いには答えず、腕の中からそっと宵姫の体を解放すると、蛍鬼は立ち上がった。

「……そろそろ、宴が始まる頃合ではないのか。行って、好きなだけ琴とやらを弾いてくるのだな。今宵は――山の狸よりはましな観客もいるのだろう」

 一瞬で白髪を黒に変え、宮中に詰める貴族のような出で立ちをした彼は、そのまま堂々と御簾をくぐった。

 あいかわらず唐突な退室と、都の身分の高い人々を狸と比べてみせる彼ならではの物言いに、思わず宵姫は笑い声をもらす。

 三年も通い続けて、決して自身の話はしなかった蛍鬼が、なぜ今夜に限ってこんなことをしたのか――もちろんわかるはずもないし、おそらくはそれも、語り喰いが語り喰いである所以の、自分本位な理由なのかもしれない。それでも宵姫には、まるで彼が慰めてくれたかのような気がしていた。

 いつしか常の穏やかさで心が満たされ、緊張で硬くなっていた体も落ち着いていることに、宵姫はそっと微笑んだ。

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