表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

 朝がこうしてやってくるたび、自分を包んでいた優しい闇は消え去り、ただ暗鬱とした黒が周囲を取り囲む。完全に日光を遮るように工夫がされた寝殿内に、こうして閉じこもることから宵姫の一日は始まる。いや、終わると言ったほうがいいのだろうか。

 唯一何も気にせず月光を浴びることのできる夜、それこそが宵姫にとって自由な時間で、まさに一日の始まりと言ってもいいほど、心地の良い日常だった。

 自然、その自由をわざわざ眠りに費やすことが勿体無く思えて、起きていることが増える。必然的に不足した睡眠を昼間に補う。すっかり染み付いた長年の習慣は、宵姫にとっての昼夜を逆転させてしまっていた。

 しかしだからといって、誰に責められることがあろうか。どうせ、昼間日光のあるうちには、外に出ることも叶わないのだ。そんな病に冒された自分を疎み、恐れ、近づく者さえいない日々は、果て無き孤独でありながら、どこか気楽なものでもあった。もちろん、そう思えるようになったのはごく最近だけれど――。

「宵姫様、宵姫様。お休みでいらっしゃいますか」

 女房の声が几帳と壁代の向こう側から聞こえたのは、ちょうどまどろみ始めた頃合だった。たわいもない夢に引き込まれかけていた意識を、何度か瞬きを繰り返すことで覚醒させる。まだ眠って間もないと思ったけれど、もう夕刻であっただろうか。朝餉は眠る前に取ったから、夕餉の時間になったのか。

 暗闇に包まれた中では、今が朝か昼かさえもさだかではない。ただ長く眠ったのがこんなに短く感じられるなら、自分はよほど疲れてでもいたのだろう――そう結論付けて、重い体を起こした。

「夕餉ならそこへ置いておいて。後で頂きます」

 眠い目をこすり、広廂で控えているのであろう女房に返事をする。が、予想していたいつも通りの反応ではなく、女房はやや苛立った声で続けた。

「いいえ、まだ未の刻ですのに夕餉だなどと。そうではありませんわ」

 彼らが働いているその時間、ただ眠りを貪るだけの自分を疎ましく感じていることはすぐにわかる。そんな刺々しい声音にも、宵姫は慣れ切っていた。さして気分を害することもなく、では何だろうと小首を傾げる。

 ならば髪を梳ってくれるとでもいうのだろうか。まだ病が明らかになっていなかった頃ならともかく、今は食事や掃除など、最低限の世話を除き、大抵のことは自分でしていたから、どこかしっくり来ない気持ちで寝乱れた着物の裾を整えた。

「では何でしょう。もしかして……お父様から文でもありましたか」

 残る可能性はこれぐらいしか思い当たらない。そう思って訊ねたものの、心の片隅で期待してしまう自分がいることを苦く感じる。

 ――あの方が、忌み嫌われた娘を何より遠ざけたがっていることなど、とうに知っているというのに。

 見かけだけは立派なこの屋敷に自分を置いて、都へと戻って行った父親。文など、正月や行事ごとの折ぐらいにしか来はしない。それも、簡単な時候の挨拶程度のものだった。

「いいえ、お館様からの文はございません」

 これもあっさりと否定した女房の言葉に、知らず宵姫は嘆息する。未だあきらめきれていない自分に苦笑し、そっと燈台に火を付けた。

 公の名を口にすることは暗黙のうちに禁忌とされ、女房たちも皆、ただ『お館様』とだけ呼ぶ。生まれてすぐに母を流行り病で亡くした宵姫にとって、唯一の肉親である父親――しかし、都とこの山深い里との距離ぐらいに、二人の間には長年の溝があった。

「文はございませんが――お召し物が届いてございます」

 思いがけず続いた女房の声を聞いて、宵姫は俯きかけた顔を上げた。

「着物……?」

「はい。それは美しい今様色のお色目の。揃いの桧扇と、それから大層立派なお琴も、でございますよ」

 今、そちらにお持ちいたします――言うなりそそくさと御簾を捲り、できるだけ光の入らぬように几帳の裏側から入ってきた女房が、表面的な笑顔を貼り付け、お辞儀してみせる。戸惑いを隠せない宵姫の前に差し出されたものは、艶やかな濃紅梅と、紅梅の色目をした五衣。風流な紅葉の描かれた桧扇の両端には、丁寧に編み綴られた絹の撚糸が垂れている。姫として最低限の身だしなみを、というだけの普段の装いからは格段上の――まさに、宮中でも通用する上質の品々。

 中でも一番宵姫の目を引いたのは、琴だった。今もそばに置いているいつもの琴とは違い、磯の部分まで繊細な蒔絵が施され、柏葉にも鼈甲で装飾がされ、木目の素晴らしい紅木で作られた、一目でわかる高級品。

 ほのかな明かりの揺れる室内で、特別な存在感を放つそれに触れようと、つい指先が動く。が、すぐに戻ってきた理性が、宵姫の動作を止めた。

「なぜ、私にこのようなものを……?」

 手の平をきゅっと握り締めて、訊ねた。幼い頃からずっと感じてきた父親へのわだかまり。他の誰に冷たくされるより、彼にそっぽを向かれるのが一番辛かった。あの苦しい日々を思うと、つい声が低くなる。しかし女房の笑顔は絶えることはなかった。

「ええ、使いの者が申すには、今度の重陽節会ちょうようのせちえでぜひ宵姫様にお召しになっていただきたいと」

「私が、重陽節会に、ですって――?」

 今度こそ、驚愕に両の瞳を見開いて、宵姫は聞き返した。自らの耳を疑ってしまうのも無理はない。重陽節会といえば、宮中で催される菊見の宴。長寿を願い、菊の花を浮かべて酒を飲み交わすという風流な行事であると聞く。いや、その宴がどれほど優美なものであるか、などは問題ではない。それよりもまず、自身が都へ――しかも宮中に呼ばれたということ自体が信じられないのだった。

「左様でございます。こちらの琴で、ぜひ宵姫様の美しい演奏を披露するようにと、お館様は望んでいらっしゃるそうですわ」

「琴を……本当に、お父様が? いえ、でも――だめだわ。私は、日の光が……」

「もちろん、それは私共も承知しております。ですから夜に旅をして、昼間は厳重に日光を遮ることのできる宿を手配して、必ず姫様をお守りするように、と申し付かっておりますから、ご心配はいりません」

「そう……そう、なの。まあ……それは」

 後に続く言葉も思い浮かばない。まさか自分がこの館を出る日が来ようとは、夢にも考えていなかったのだ。確かに女房の言うようにすれば、旅が不可能というわけではないだろう。だが、そこまでして自分が外へ出る意味が、今までなかった。いや、正直に言ってしまえば――むしろ禁じられていたのだから。

 ――物忌みの宵姫。病持ちの月見姫。

 小さな頃に、付近の集落に住まう子供たちから囃し立てられた記憶が蘇る。

 日の下に出られないなら、せめて夜だけでも、と村祭りに出かけた時のことだ。自分を守り、慕ってくれるはずの女房たちでさえ、彼らを表立って止めようとはしなかった。どうしても、とねだった自分を連れてきてくれたのは、好意からではなく、仕方がなかっただけ。そう、本当はわかっていてそうしたのかもしれない。山中にひっそりと打ち捨てられた館。その中で暮らすことだけが、呪われた姫にはふさわしいのだと、はっきりと自覚させるために。

 深く傷ついた幼い日の自分が、問いかけてくる。

 ――本当に? と。

 この館を、山中を出て……本当に都へ行ってもいいのか、と泣きはらした瞳で見上げている。全てをあきらめて生きてきたはずの今の自分は、答えるすべさえ持たない。

「出発は今夜でございます。月の出る頃、またお迎えに参りますゆえ――どうぞそれまで、ごゆるりとお休み下さいませ」

 女房がそう言い残して立ち去ってしまっても、まだ宵姫は琴から目を離すことができないでいた。時が経つにつれ、胸の鼓動が速くなり、落ち着かない心は騒ぐばかり。困惑と動揺と驚愕にだけ満ちていると思っていた自身の胸の内に、いつしか小さな喜びが芽生え、徐々に花開いていく。

 ――期待してはいけない。

 そう、こんなことで心乱されてはいけない。ずっと待っていた迎えが――この館から自分を救い出してくれる使者が、まさか現実の世界にやってくるとは思わなかった、だなんて。

 竹取物語になぞらえて待ち続けてきたのは、この世のものではないはずだったのに。なぜかふと脳裏に浮かんだ萌黄の瞳に、宵姫は複雑な微笑を浮かべていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ