序章
京の都――平安人にとって夜とは、ただ眠りを貪るためのものではない。もちろん、日々の仕事が忙しい村人や商人たちにとっては、あるいはそうなのだろう。
しかし、豪奢な着物を身にまとい、大きな屋敷に住む身分の高い人々にとっては、夜の持つ意味はまた異なる。
闇に隠れて、恋の逢瀬を楽しんだり、秘めたる恋を熱く語り合うための一時――それが夜。例え都大路をあやかしが闊歩しようとも、抑えられぬのが人の情であるのだから。
けれどもそんな恋の囁きにも、平穏の眠りとも無縁な存在もまた、京の闇には生きている。一方は人の情を持たぬ者。またもう一方は――人の情を知らぬ者。
そんな双方が出会ったのは、皮肉にもまた夜であった。美しくも冷たい、月の見守る闇の中――。
*
大きな、丸い月が浮かんでいる。
青白く、冴え冴えとした光で、屋敷の中庭全体を照らしている。
暦は既に春を告げているというのに、夜の空気はいまだ冷たいままだった。
しかし、そんな寒気などものともせず、寝殿の御簾を上げ、現れたのは振り分け髪の少女が一人。
肩を過ぎた辺りで揺れる黒髪を、今まさに起きたばかりのような仕草で整え、垂れてくる前髪を、両耳の横に紙で束ねている。
「ふわあ」とあくびを一つ。それからやっと思いついたかのように、袖の上に表衣をはおった。
細い体は、背中に羽でも生えたかのような軽い足取りで渡殿を歩く。かすかな衣擦れの音と、交互にもれる彼女の息は少し弾んでいる。それは決して疲労のためではなく、純粋な興奮と歓喜から来るものだった。
ついには小走りになって、池のある中庭を臨める釣殿に辿りつく。それでも、屋敷の中から無作法を戒める女房も、そんな彼女を守る兵も、誰一人いない。
たった一人きりで、彼女は釣殿から月を見上げた。
「……こんばんは、お月様」
澄んだ声で嬉しそうにそう語りかけるのは、毎夜の挨拶。もちろん、答えなど返ってこない。それでも、月は優しく見守ってくれているように思えるのだ。
まだ幼い卵型の顔が、笑みの花を咲かせる。
病的なほどに色白の肌と華奢な体つきから与える弱々しい印象が、その一瞬で明るく和らいだ。
そっと膝を折り、座った足元には、一面の琴。ひと月ほど前に、女房から渡されたそれは、どこかの屋敷から頂いてきたものだと聞いている。都の姫君ならば有難がることもないほどに、古く、地味なものだ。
そんな琴を宝物のように大切に眺めて、そっと触れると、再び笑顔になる。
「今夜は何を弾きましょうか? と言っても、まだきちんとした曲は弾けないのですけれど」
それでもよろしければ、ご披露いたしますわ――そんな大人びた口調で言ってみせる。
無言の月に聞かせるべく、少女は琴を爪弾き始めた。その調べは、曲の形にはなっていないものの、奏でる音は不思議と美しく、闇に響いた。爪弾きながら、切なげに、儚げに空気を震わせるのは――彼女自身の想いがそこに溶け出ているから、かもしれなかった。
こうして月光の下でしか世界を見ることのできない、呪われた身ゆえの叫びが――。
一心に指を動かし、思いのたけを琴の音に込めていた、その時だった。
月明かりが翳り、琴の手元が見えなくなったのだ。戸惑う暇も与えず、声は頭上から降ってきた。
「腹が減った。何か食わせろ」
何の脈絡もない発言そのものは、全く耳に入らなかった。
誰もいるはずのない屋敷で、突然話しかけられたのだ。驚きに声も出せず、その方角を探すだけで精一杯だった。
池の中島に大柄な男が立っていた。ちょうど月を背にしていて、顔などはよく見えない。が、真っ直ぐに釣殿の――少女がいる方角を見ている。
――いつのまに。一体どこから。
声にならない悲鳴を上げ、あわてて御簾をくぐろうとするが、あまりの驚愕に体が動かず、顔を隠すこともできなかった。
「おい、聞いてるのか。そこのお前、腹が減ったと言っている」
重ねて突きつけられた要求。その内容がようやく耳に入っても、すっかり怯えきった体は強張り、唇も震えて答えることができない。
反応がないことに苛立ったのか、男は無遠慮に歩み寄ってくる。そこで初めて、その体躯を包む見たこともない衣装に気づいた。
直衣でもなく、狩衣でもない、強いて言えば小袖に似た不思議ないでたち。銀と見紛うきらきらした薄布が重なるさまは、繊細で風靡。にもかかわらず、長身の男がまとっても違和感を覚えさせないものだった。
「月……の使い……?」
思わずそう呟いていた。先ほどまで感じていた驚きも、心臓が凍りつくような恐ろしさも、なぜかすうっと遠のいていた。それほどに男は月光を浴びて美しく、気高くさえ見えたのだ。
まっすぐに伸びた、長い長い頭髪。男性に見慣れぬその髪型によりも、色に目を奪われた。
男が歩き出したことで、遮られていた月光が再び明るく周囲を照らし、あらわになった色彩は白。老いのせいではないことは、こちらを向いた顔が青年の若さを宿していることですぐにわかる。髪とは対照的に、彼の肌が浅黒い色をしていることも――。
ますます異様な風体に言葉の続きを失い、ただ口をかすかに開けて男を見つめることしかできない。このように殿方――少なくとも、そう見受けられる相手――の前で呆然と顔をさらしているという初めての事態。それが年頃の娘には許されぬ醜態であることも、気にする余裕はなかった。
「お前、確かに口をきいたな。さっき、何と言った」
そんな自分の動揺になどまるきり気づいた様子もなく、男は問いかけてくる。そのままひらりと手すりを乗り越え、すぐそばに腰を下ろしてしまったのだ。
「つ、月の使い……がやってきたのかと、思って……」
何をされるのかと震え上がって、小さな声をなんとか絞り出した。
「月の? 何だそれは」
眉根をわずかに寄せ、再び男が訊ねる。一度始まってしまった会話を断つ術は、持ち合わせていなかった。そもそも、会話、というものに不慣れなのだ。
「た、竹取物語、です。かぐや姫が月に帰っていく場面で、月から使いがやってくるのを思い出して――」
ついに自分を迎えに来てくれたのか、などと一瞬でも考えてしまったことはさすがに口にはしなかったのだが。くだらぬことを、と一笑に付されるのかと体を縮めた瞬間、男は嬉しそうに笑ったのだ。
「――何だ。ちゃんと食えるものがあるじゃないか」と独り言のように呟いて、男が手を差し伸べる。不可思議な行動に小首を傾げる、が、そのまま勝手に右手を握られてしまった。
力強く、大きな手の平に収められた自分の手。浅黒い色と対を成す青白さ。まるで、今宵の月と闇のようだ。不吉な予感は瞬時に過ぎ行き、つないだ手からじわりと温かい熱だけが伝わってきた。
「何、を……?」
不安を正直にもらした声は、ふと吹いてきた夜風に紛れ、行き場を失う。
ざわり、と空気が騒ぐ。男の白髪が舞い上がる。気まぐれな風は、たった今まで髪に隠されていたものまで月光の下に導き出した。それは、一本の黒い角――。
「お前、名は」
低く深い響きで男は問う。高圧的でもなく、どちらかといえば淡々とした口調であるのに、声は命じるのに慣れた者のそれだった。
「宵、姫……」
思わず答えてしまった自分の呼び名を口の中で確かめるように呟いて、男は微笑んだ。浅黒い肌に浮かんだ、とても満足気な笑みだった。
「よし、宵姫。お前に栄誉を授ける。月光の語り喰いであるわしに、今宵の『語り』を呈する栄誉をな――」
青白い月が照らした彼の瞳は、どこか温かな萌黄色をしていた。宵姫――齢十三の、春の夜の出逢いだった。