07
梶家では変化がおきた。
辰臣は朝のお迎えがこなくなって二日後、自宅にあった自転車を整備して、遅刻しながらも毎日登校するようになった。
放課後になったらすぐに下校して、コンビニや本屋に寄り道して帰宅し、ずっとぶすっとした顔をして過ごした。
口数は減り、眉間の縦皺は深くなり、家族が幼馴染の名前をだすといっそう不機嫌になった。
小野原家でも変化がおきた。
芳久から笑顔が消えた。
口数も減り、態度もそっけなくなり、姉妹たちから非難されても一切を無視し、家を出る時間が遅くなった。
日ごろ愛想がよかっただけに、芳久の変化のほうがよけい目立った。
成績も落ちた。
色使いも荒々しくなり、絵画からみずみずしさが消えた。
目のしたにくまができ、注意が散漫で、たびたび小さな怪我をつくった。
辰臣と芳久とでは、まわりの人間が違ったので、かれを心配する面々がついに芳久を捕まえて中央に据えてしまった。
場所は南棟一階の美術室。つみあがった画板と絵の具くさい下水。大きな窓にむきだしの椅子。
女性ふたりの先輩と、同年輩の部員に芳久は囲まれ、白状させられようとしていた。
「おれのことは、ほうっておいてください……」
「そうはいかないわ。もうどうだって限界よ」
そういったのは都先輩。
遠慮のないものいいがこのときばかりは癪に触る。
芳久はいままでにしたことのない反抗的な目で先輩をみた。
都が心なしか身をひいたとき、隣の席の山本が口を開いた。
「限界っていうのはぁ、うちらのことじゃなくて、小野原くんのこと。なにが原因かしらないけど、もうそろそろ仲直りしたら?」
黒い目が芳久をみつめ、ぱちりとまばたきした。
「梶くんと喧嘩したんでしょう? もう夏休みになっちゃうよ。休みまえに仲直りするべきやわ。どっちが原因にしても、あの梶くんのほうが折れるとはおもえへんし、ここは小野原くんが折れてあげへんと」
折れることができたらどれほどいいか……。芳久はうなだれた。
気を張っていたものが、つっかえ棒をはずされたように打ちひしがれた表情を受かべる。
とたん、まわりが心配の声をあげる。
「ちょおちょおマジかよ。しっかりしろ小野原」
「そうやおまえらしくない。元気だせ」
「そんな気になっとるんやったらなんでもっとはよう仲直りせえへんねん」
仲間の自分を気遣う声や表情に、芳久は涙ぐみ、唇を震わせた。
「おれ、おれが悪いねん……たっくんの信頼を裏切ってもうて……おれが傍におったら、たっくんのためにならへんし、仲直りなんてしたらあかんねん」
「そんなわけないって。あいつおまえがおらんかったらただのダメ男や」
と、いつも辰臣にパシリ扱いされている小田がいう。
「ちゃう、そんなんちゃうねん。辰臣はすごいやつやで。おれ……おれ……」
あいつのことがむっちゃ好きやねん。
そのことばは胸中にだけこぼした。
*
結局、真相を話すことはできなかったが、身内でもないのに自分のことを心配してくれている仲間たちの励ましを受け、数ヶ月ぶりに芳久は前向きな気持ちとなった。
前カゴにいれたカバンをがちゃがちゃいわせながら自転車で帰宅すると、二階建ての我が家のまえにだれかが立っている姿がみえた。
十八時を過ぎても外は明るい。
すらっとした身長ながら、やや猫背で、顔を右に傾けて白いワイシャツに黒い学生ズボン姿で立っていた。
ブレーキをしてタイヤを鳴らし、芳久はあわててサドルから降りた。
「たっくん!」
久しぶりに幼馴染を愛称で呼んだ。
今日の放課後、部活で口にしたばかりだったからだろう。口が飢えてたみたいに、また声に出していった。
「たっくん来てくれたんか。上がるか?」
無表情の辰臣はちらっと芳久と目をあわせたあと視線をはずしたがうなずいた。
父は仕事、姉は大学生で帰りはいつも遅い、小学生の妹は習い事をして今日は母が車で送っているはずだ。その母も、夏ばてしているという祖母の顔をみて帰ってくるので、しばらく家にはだれもいない。
鍵を回して玄関をあけた。
芳久につづいて辰臣が入ってきて扉がドシンと音を立てて閉まった。
「たっくん、そこ座っとき、いま何か飲み物用意するし……」
「芳久」
ああ、この幼馴染はなんていい声をしているのだろうと、芳久は心の底からそうおもって振り返った。
リビングに通してソファをしめされた辰臣は、キッチンに向かおうとした芳久の腕をつかんでひきとめて、そしてその場で両膝をついた。
それからちょっとためらいがちに手をのばして、芳久の黒の学生ズボンの太ももあたりをつかんだ。
「たっくん……?」
芳久は辰臣のつむじをみおろした。
「……よし、芳久、お、おれ……おれのこと……捨てんといて」
それは小さな、搾り出された声。
とっさにことばが出なかった。
体がこわばったことが伝わったのか、辰臣も身を硬くしながら、うつむいた頭を芳久のズボンにこすりつけてきた。
「よし……お願いやから……」
もう立っていることができなくなって、芳久はしゃがみこみ、辰臣の首筋の裏に手をやって顔をのぞきこんだ。
幼馴染は冷淡といわれる男前の顔を歪めて、泣きそうになっていた。
「……た」
辰臣と呼ぶまえに、目のまえの顔から涙が落ちていくのがみえた。
「もぉ、いやや、お、おまえ、おれを無視、すんなや……。なんで急に、お、おれのこと嫌いに、なるんよ」
「辰、嫌いになってへんで」
「なってる。なってるよ。そんで、おれのこと、もういらんて、別々がええってそういうこと、やろ……っ」
ひゅっと辰臣は息を吸い込んだ。
「たっくん、おれ、たっくんの傍にいるとキスしたくなんねん。だから……」
捨てるとか、嫌いになるとか、そういうのとは全然ちがうのだと芳久はいいたかった。
辰臣に泣いてすがられて、芳久の心は大きく揺れていた。
抱きしめて、リビングに押し倒していますぐキスしたくてどうしようもなかった。
だから辰臣がつかんでいた手を、腕から払いのけようとした。
「キスくらいしたらいいやんけ!」
そう怒鳴られて、芳久は辰臣に抱きつかれリビングの床に転がった。