05
ある日こんなことが起きたのです。
それもわが身に。
遅刻確実な通学路を、辰臣は歩いていた。
家に自転車はあるのだが、使わなくて久しく、鍵をどこにやったか忘れていた。
だがこんな日は歩いてちょうどいい。頭を動かすにはなにより歩くことが最適だ。カントもそういってたとおもう。
(目覚めのキスで起きるおれ……)
とりあえずそう考える。
午前のひと気のない商店街を抜け、交通の多い交差点を越え、住宅街をあとにして、舗装された道をゆく。
お人よしな男前の幼馴染に、今朝、起こされている最中にキスをされた。
しかもけっこうぶちゅっと。ちょっと長いくらい。あのとき母親の弟への怒声が響かなかったら、たぶん舌が入ってきていた気がする。
辰臣の両足はおもわず止まり、やがて力なくアスファルトを踏み出した。
(芳久、おまえ唐突すぎる……)
どうしてあそこで、驚いただろバーカくらいいえなかったのか。場を読め、空気を察しろ。
日頃そんなことをもっとも嫌悪して、まるで読まず察しない辰臣は、自分を棚に上げてそうおもった。
(もう、何なんだよ)
いつだってわけわからない言動をとるのはこちらの役割だったはずだ。
そしてそれをフォローするのが小野原芳久の天職だったではないか。
なぜ、今朝になって逸脱する。
(おれ、何かしたか……?)
電信柱の薄い影をみつめて回想してみた。
梅雨のあいだの曇り空は、じめっとした空気で大阪府民を今年も苦しめている。
雪こそ少ないが、夏は南アジア諸国に負けないくらい気温が高く、湿度が高い。それが大阪。冬は冬で雪が一センチ積もれば、交通機関は麻痺。この脆弱さも大阪。
そんな横道に思考がそれているあいだに、おもいだした。
先日の漫画雑誌の代金を幼馴染に払わせたままで返していない。
……そういえば、そのまえのコーラ代もそうだ。
借りた物理のノートは返したっけ? 芳久経由でかれの姉から借りたファッション雑誌はどうだったろう。もしかして部屋に積み上げている本のあいだにあるかもしれない。
過去に何度もドタキャンをしている。
共通の友人ができても、辰臣とそいつが険悪になり、芳久は幼馴染のもとに残ってきた。
(……なるほど、キスでもぶちかまして驚かせてみたくなるわな……)
その気持ちわからんでもない。
どうせならその驚かせる役どころは自分がしたかったけれど、いろいろ借りのある身としては贅沢はいえない。
首筋を流れていった汗に眉をひそめ、ふっと息を吐くと、辰臣は顔をあげ、さきほどよりさっさと歩きだした。
なんとなく見当がついて、心が軽くなった。
学校で顔をあわせたら何といってやろう。
*
遅刻しながらもどうどうと教室に入り、中央列最後の席に鞄をおろし、辰臣は席についた。
徒歩で湿度の高いなか登校してきたので、動きをとめると忌まわしいほど汗が吹き出てくる。
ポケットのなかのくしゃくしゃのハンドタオルでぬぐい、教科書で自分を扇ぐ。
席の近い女子が顔をそむけた。
(臭くてすみませんね……おれも人間なんや)
口でいってやりたかったが、倍で返されるに決まっている。
眉間の縦皺を深くしながら、辰臣はむきになって自分を扇ぎつづけた。
自分の容姿のことはそれほど関心がない。そこそこいいのではないかと客観的におもっている。しかし小中高校のあいだ、一度も告白などされたことがないし、好意をもっていると遠まわしに表現されたこともない。気づいていないだけかもしれない。
もてたい気持ちはあるが、正直、面倒だ。
だから悪臭を放っていようと、顰蹙をかっていようと、どうだっていい。
異性にたいしてさえ、自己を曲げようとしなかった辰臣だったが、十五分休憩のときに購買部へむかう途中で目があった幼馴染に、視線を外されて背中をむけられたときには、胸がぎゅうっと詰まり、呼吸が苦しくなり、目の前が真っ暗になりそうだった。