第11話 六年ぶりの涙
二人は自分たちの部屋ではなく、海外へ留守中の両親の寝室にはいっていった。三人ぐらい軽々と眠れそうなダブルベッドがある。パステルグリーンに統一された掛け布団をめくり、博をそっと中央に寝かせた。
浩一が寝室をでていき、救急箱などを手にもどってくる。
風呂場で気づいた箇所を、丁寧に消毒していく。殴られたところには冷やし熱をとる。見た目と触った感じでは骨折はないようだ。吐き気や頭痛をたずねると、かすかに首を横に振った。
「痛み止めの薬もあるよ……飲む?」
薄っすら目を開いている博の耳元に口をよせて問うが、まばたきをすると精魂尽きたかのように眠りに落ちた。
治療を終え、仰向けで横たわりまぶたを閉じた幼馴染をあいだに、浩一も浩二も音楽室でみせた激昂が嘘のように自失し座りこんでいた。
閉じたカーテンから午後のけだるい日差しが寝室に落ちている。
どちらともなくひとしずく頬を伝って落ちた。
ポツン、ポツン、ポツン。
二人は濡れた顔でうつむき、ぼやけた視界で博をみた。
六年たって博よりも大きく美しく力のある体を手に入れた二人。
博はもう小さいころのように学校で一番早く走ることはできなかったが、当り前のように浩一と浩二を見分け、二人を幸せな気分にしてくれた。
再会して、二人のことを忘れるなど有り得ないと断言してくれた。
閉じられたまぶたの、ふぞろいにはねかえっている睫毛、くっきりとしたあごの線。土壇場で気の強い性格をあらわすツンと上を向いた生意気そうな鼻。小麦色の肌は小さいころからのままで、張りがあって健康そのもの。だがいまはそれも影をひそめている。
意外なほどあどけない唇に、二人は交互にそっと口付けた。
(ぼくはなんで泣いてるんだろう)
(悔しいから? 悲しいから?)
お隣りのひろくんのことをおもうとズキリと胸が痛む。
もういちど舞い戻ってあの狼藉者をぶちのめしてやりたい。
時間を巻き戻して、もっとはやく助けにいきたい。
博の家には夜の内に電話をかけ、今夜と明日の体育祭代休と明後日の祝日三日間、こちらで泊まるむねを伝えた。
幼馴染の母はなんの疑いもなく了承してくれた。明後日は祝日だが午前中を運動会の後片付けのため登校することになっているのだが、双子はもちろん無視していた。
二人は食わず飲まず眠らずで博の看病をした。
午前六時から午後六時の時間がもどかしいように初音は衰弱していく美しい双子をハラハラしながら見守ったが、双子はどうしても初音を博がいる寝室に入れなかった。
二日目の朝、それぞれ熱をだした博の汗をぬぐってやるためのタオルや、水差しを持ったまま寝こけていた二人の耳に、初音の笑い声がきこえた。
「――んむ……?」
かたく閉じられたまぶたをそのままにして、手だけで博の存在を探ろうと昨夜までいた位置に手を伸ばす。
パタ、パタパタ……。
シーツは冷たく、温かいとおもったのは片割れの伸ばしていた手の温もりだった。
二人はがばっと身を起こし、あたりをみまわす。
ダブルベッドの上には、同じ姿で同じくらいだらしない格好をした寝起きのぼやけた顔しかなく、中央にいるはずのものが消えていた。
あはははは……
初音といっしょにもれてきたこの笑い声は。
同時にベッドから飛び下り、隙間のあいていたドアをひろげ、廊下を走り、声のしたほうへ。
「もうそれは怖いお顔をして、触れるな近づくな見るなですもんね。あんなに必死で形相をかえたお二人ははじめてみましたよ」
「人を感染者かなんかだとおもったんじゃないのかあの二人。初音さんにうつしちゃいけないって必死だったんだよ」
「まあ博さんたら」
そういって初音はころころ笑って、ミルクティーを足してくれた。そのポットをもっていた手がとまり、目と口を開いて一点をみつめる。
博はつられて、その方向に顔をむけた。
燦燦と朝日のこぼれる台所入口に、双子がたっていた。
よほどあわてたらしく、お手伝いをしている初音でもはじめてみるくらい、だらしない姿だった。
髪はばさばさで寝癖がつき、そろいのイタリア製パジャマはよれよれのしわしわで、浩一のはボタンが一つとれかかっていた。
二人は台所の戸をあけて、立ちつくして博をみつめていた。
信じがたいものがそこにあるような顔をしていた。
ぷっと博が肩をふるわせて吹き出す。
その顔は二人が手当てしたそのままに、バンソウコウが貼ってあり、軟膏がぬってあり、青痣もはなばなしく痛々しい。
しかしその顔で博はくったくなく笑い、
「なんて顔してんだよ二人とも、初音さんもポカーンとしてさ。おまえらもろくに食べてないんだって? ちょうどいいじゃないか、四人で食べようぜ。いま初音さんにミルクティーと卵の……」
双子はよろよろと近づくなり、ひとりは博の首に抱きつき、ひとりは腰に抱きついて、声を殺すようにして泣き出した。
ぶるぶると肩をふるわせ、おえつがもれてくる。
「心配……かけたな」
二人は激しく首を振った。涙が博のバスロープをぬらす。
「……ひ、ひろ……」
「ひろっ……く……」
博は静かでおだやかな目をして腕を伸ばし、ひとりひとりの頭を撫でてやった。
初音は口を開閉させ、ミルクティーと焼きたてのパンの香りに満ちた朝の台所で抱き合う三人をみつめていた。この老女は伊良部家が日本にいるあいだ世話をするお手伝いで、家族がいない間は週に一回出てきて家を掃除していた。
その週に一回、隣の鈴木家の次男はひょっこりと顔をだし、掃除を手伝ってくれるときもあった。自分と同様、博も伊良部家のみんなが帰ってくるのを待っているのだとおもったものだ。
初音の目に涙がにじんだ。
双子がかつてみせたことのないほど己をさらけきって感情をあらわにしている。
帰国してからの立派な双子をしか日々ながめていなかった初音には衝撃だった。
(ああ……そう、昔、昔にもあったわね。この双子ちゃんがこんなふうに苦しそうに泣いたのは……昔、お隣のひろくんと離れたくないと泣いた、六年もまえだった)
あのときもひろくんで、いまもひろくんだった。
喧嘩に巻きこまれたのだと博の怪我を説明し、自分たちのせいだからといって誰の手も借りず、触らせず、二人だけで守るように看病しつづけた双子。
初音は伊良部家の息子たちにとってお隣のひろくんが大事な存在であることを悟らずにはいられなかった。
(それにほら……)
「ほら、もういいだろ……泣きやめよ、おれ腹ぺこぺこなんだ」
博がやさしく声をかけ、ふるえる背中をさすってやると双子はうなずき体を離して、泣き笑いという表情をした。
(あの二人がなんて幸せそう……)
初音は三人のためにあらためて居間に朝食をととのえた。
四人用のテーブルにたっぷりの朝食をはこび、初音は同席を誘う博に笑ってことわった。
「起こしてくれれば、初音さんのまえで大泣きすることもなったのに、ひろくん……」
「そうですよ」
双子は頬を染めて赤い目で博をみる。
「だって二人ともぐっすり気持ちよさそうな顔して寝てたから。それにいい匂いはしてくるし」
博は籠からクロワッサンをつかみあげ匂いをかぎ、うっとりした表情をみせて食いついた。
その際にみえた手首の包帯の白が目に痛い。
博もおもわずそこに目がいき眉を寄せた。
「ひろくん」
呼ばれて包帯から目をあげると、二人の真剣な四つの瞳とぶつかる。
二人が口をひらくまえに博はやめろというように、手をあげ首をふる。
「――いまは何もいうな。ききたくないしいいたくない。それから、これをごちそうになったらおれ家に帰るよ」
「だめです!」
食器が二人の声の振動でカタカタ揺れた。
博はびっくりして食べかけのクロワッサンをぽとっとテーブルに落とす。
「…………あ」
博の顔に二人は目をみかわせ、しかしひるむことなく身を乗り出すようにして話した。
「だめですよ、ひろくん帰っちゃ。そんなひどい顔を家族の人がみたら大騒ぎになりますよ」
「喧嘩だっていえば、あらばかねーですんじゃうよ。それに元が元だからさ」
「なにいうんです、ひろくんはかわいいです!」
「そうです。ひろくんほどかわいい顔の人はいませんよ!」
全力で擁護されて、博は顔を赤らめた。
「う、うれしくねえし」
そういってがつがつ食いだした博に、苦笑してから双子も若い食欲を満たしにかかった。
そのあとも二人となんやかんやと話したり遊んだりしているうちに、博は昼食も夕食もごちそうになり、家に帰りそびれた。
はっきりいって家に帰って顔の痣を容赦なく笑われるより、二人と色んな話をしたり、音楽をきいたり、ゲームをしたり、母より美味い初音の料理を食べているほうが百倍いいにきまっている。ひとりになって音楽室でのことがよみがえってくるのも怖かった。
母親も隣の家に息子がいるとおもえばこそ、夫婦水入らずでかえってせいせいしているに違いない。
広い風呂場からあがって、今度は浩二のほうのバスローブを借りて身につけながら博は鏡の中の自分と目があった。
ローブのサイズがあわない。丈の違いを隠しようがない。
「くっそー」
仕方ないとおもいつつ、ぼやいてしまう。
大きな鏡は、風呂上りの少年を映し出している。
若い体はいきいきと肌の張りを取り戻し、傷や痣を猛烈ないきおいで治していく。
湯は多少、顔や手首の傷にしみたが、飛びあがるほどのことではなかった。
しゃこしゃこと歯磨きをして、博は居間にもどる。
居間では大型テレビが騒音をはっし、双子はパジャマに身を包みしょざいなげにソファーにもたれていた。
「あがったぞー」
博が湯でほてった顔をしてはいってくると、二人はぱっと振り向き、自分たちの間に座るよう手招きする。
脇には救急箱が置いてあり、二日間そうしてきたように二人はやさしく手当てしてくれる。
午後六時をとうに過ぎているので初音は帰っており、広い家には三人だけだった。
「ひろくん、ちゃんと髪ふかないと風邪ひくよ」
雫のたれていた博の髪に気づくと、浩二はバスタオルを持ち出してきて頭をふいてやった。
「いいよ浩二、放っといても」
「だめだよ」
「だったら自分でするよ」
やめさせようと手をあげると、包帯を巻いている浩一にじっとしててといわれ、博は髪をふいてもらってしまった。
「遠慮することないよ。ここ数日、ひろくんの世話はずっと二人でしてたんだから」
消毒スプレーを救急箱にしまいながら浩一がいう。
「そうだよ。ぼくたち全然いやじゃないんだよ」
髪に櫛をとおして浩二がいう。
「――でも、おれは病人じゃないんだから、自分でできることは自分でするぞ」
博はなぜかむっとして、浩二の手を振り払った。
「……怒ったの、ひろくん」
テレビがタレントの意味のない笑い声を送ってくる。
「別に……おれは人形じゃないんだからな」
口をとんがらせて博はいう。なんとなく不快だった。
そんな博をみて、沈黙をやぶったのは浩一だった。
「……人形だなんてそんなつもりはないです。とんでもないです。だってぼくは生きて動いているひろくんが好きだし、人形のようにただ座っているだけなんてそんなひろくんはいやですもん」
「ぼくもです。ただ、ひろくんに構ってしまうのは、ひろくんに触れていたいから……なんです」
博はまばたきした。
「そういや、昔からおまえら二人とも、やたら人に触りたがってたよなあ。十七になってもそれが抜けないわけか、大きな図体しててもまだ子供なんだな、浩一も浩二も」
たわいもないやつらだと、自分の単純さを棚にあげて博は鷹揚にわらった。
双子は目をみあわせた。
小さいころひろくんにべたべたしていたのは――大好きで仲良くしたかったから。
いまひろくんにべたべたしたいのは――やっぱり仲良くは仲良くしたいのだけど……。