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8話 僕は賢くなりたい


時期は定期テスト。


高校に入学して初めてのテストということで、教室は喧騒に包まれていた。

 

そして、その渦の中にいたのは紛れもない。


「雪城透花、英語満点だ。頑張ったな」

 

淡々と答案用紙を受け取り、ピクリとも動かない無表情。 

 

背中に浴びせられる称賛にも、まるで風に揺れる木の枝ほどの反応も見せない。


それほどまでに、彼女はさも当然だと言うように佇んでいた。


「他の教科は、数学も満点。現代文も物理も満点。おいおい、社会なんて120点だぞ。どういうからくりだ?」


担任の声は驚きを通り越して呆れに近くなっている。


「やっぱり雪城さんはすごいね。勉強もできるなんて」

 

これでスポーツもできるんだから。人類の究極生命体は彼女なんじゃないかって、本気で思っちゃうぐらいにすごい。

 

なんか神々しいな。背中に天使の羽根が!? 特殊なオーラまで見えるぞ。


「対してお前は……ほんと、なんて言うか」

 

田辺が脳天気な僕を見て、眉間に深い皺を寄せる。


「全教科赤点だって自覚をもっともてよ」


「あはは、やっちまった、てへぺろ」


「かわいくねぇんだよ」

 

しかし、こうも楽観的に見てる場合ではないのが現実だ。


彼女と同じ空間で比較されるだけで、人間としてのレベル差を突きつけられる。


「勉強もスポーツもできねぇって、あの女と正反対だな」


「N極とS極みたいな? だったら僕と雪城さんは引かれ合う運命にあるってこと!?」


「都合の良い脳内変換はやめろ」

 

はぁ、と田辺の溜め息には、もはや親のような諦めが混ざっていた。

 

「はっきり言おう。バカはお前の長所だが、このままだとあの女に釣り合う男とは言えねぇぞ」


「そ、そうだけど。勉強嫌いだし、文字を見ただけで頭がへろへろになるんだもん」


「それは克服すればいいだろ?」


「だけど……」


「雪城は顔もいい。頭も切れるし運動神経も抜群だ。大してお前は?」


「バカで変態で意気地なしで、全ての能力が平均以下――て何言わせるのさ!」


「自覚はあるんだな」


「そりゃもちろん」


「胸張れる内容じゃねぇっての」

 

しかし、田辺の言うことは百里ある。雪城さんに見合う男になるためにはこれらの弱点を克服しないといけない。

 

横に歩いて恥ずかしくない男にはなりたいと思う。


「クラスの赤点者は……天野か。お前ちょっとこっちこい」

 

ひい。いつも気怠げな担任がちょっと怒ってる!?

 

近寄ればコーヒーとタバコのブレンド臭がいつもより濃く感じた。


「お前もちょっとは雪城を見習え。このままじゃ夏休みに補習を受ける羽目になるぞ」

 

補習か、それだけは避けたいな。

 

夏休みはかき氷の味が全部同じなのか確かめて、森にカブトムシを捕まえに行って、スイカの種をどこまで飛ばせるか測ろうと思ってるのに。


「誰か勉強を教えてくれるやつはいないのか?」

 

田辺……あいつはダメだ。教え方がとにかく酷い。


感覚タイプだから擬音だらけで何を言ってるのかさっぱりだ。それに部活もあるから都合も合いにくいだろうし。

 

だからって──こうなるのは運命の悪戯だと思うんだよね。


「えっと、あの……ほんとに良かったの?」

 

放課後、誰もいなくなった教室。

 

僕は机いっぱいに積み重なった大量の参考書から、覗くように雪城さんへ言った。

 

思いもしなかったのは担任からのお願いを彼女が二つ返事で了承したことだ。予想外すぎる。


てっきりこんなやつに使う時間なんてないと言われるかと思ってたのに。


「別に、丁度暇だったから。相手してあげるだけ」

 

と言われても、どういう風の吹き回しだ?


「もしかして、僕と一緒にいたかったからとか?」

 

ぎろ、般若の顔つき。だよね、そうだよね、自惚れましたすみません。


「私は私の勉強をするから、あなたも減らず口叩いてないで、さっさとやって」


「了解であります!」

 

せっかく雪城さんが付き合ってくれてるんだ。四の五の言わずに勉強をしよう。

 

ただ、一緒に勉強するってなんかドキドキしちゃうな。

 

不意に視線が彼女に向いてしまうあたり、やっぱり僕は好きなんだなと自覚する。

 

いやいや、気をしっかりもて健! まずは英語からだ!


「えっと、バカでも解ける小学生英語……てバカ!? 小学生!?」


「なに? 文句でもあるの」


「いや、ないと言えばないしあると言えばあるんだけど、さすがにレベルが低いような気が」


「はぁ、そのままそっくり返してあげる」


「え?」

 

雪城さんは僕の答案用紙を黒板へと貼り付ける。恥ずかしいな、右上に大々的に3の数字が書かれているのは。


「あなたは基礎がなってないの。文法も滅茶苦茶、スペルミスも多い」


「なるほど確かに」


「引っ掛け問題にも簡単に引っかかってるし。バカ正直に突っ走る性格がそのまま出てるような、ほんとなんでこんな問題も解けないのかしら」


「バカ正直な性格だなんて、照れるな」


「褒めてないのよ」

 

いつにもなく、雪城さんはよく喋る。


まるでバカすぎる僕を見て母性を擽られたのか、ほっとけないといった感じだ。

 

それでもやっぱり淡白なのは変わらない。


言葉は気品があるも棘があるし、声も少し荒々しい。厄介だなと思われていても不思議じゃないくらいには。

 

だから僕には。


「ありがとう雪城さん。僕、頑張るよ。頑張って雪城さんみたいに賢くなる」


「……そう。天変地異がひっくり返るぐらいありえない話ね」

 

僕は見逃してしまった。ほんの一瞬ぴくりと動いた眉毛。少しの期待を抱いてくれたことを。

 

今日はグラウンドから部活生の声がよく聞こえてくる。空気の流れでさえ、感じる事もできる。

 

西に傾いた太陽の光が、参考書をデスクライトのように照らしていた。

 

こんなに集中できるのは、やっぱり雪城さんが側に居てくれるからなのかな。


「雪城さん! 終わった……あ」

 

僕は声を失う。

 

窓の外から流れる風。カーテンと同じように、彼女の髪が頬に流れていく。

 

ただペンを持ちノートにすらすらと文字を書く姿のはずなのに、無性に美しく見えた。まるで、ハープを弾くミューズのように。

 

雪城さんて、あんな風に勉強するんだ。

 

柔らかく綻んだ表情は、勉強を楽しんでいる人のそれだった。


「意外と早く終わったのね」

 

彼女にだけあった異空間は、僕の声によって現実に戻されていく。

 

そして、僕の動揺なんて気にもとめず、雪城さんは僕の直ぐ側にまで来て腰を下ろした。


「え、なに急に!?」


「丸付けしに来ただけ。いちいち大げさに驚かないで」

 

じゃあなんでそんな肩と肩が触れ合う距離なの!?

 

無意識なのか、無自覚なのか、彼女の垂れる髪が僕の右腕に落ちている。

 

わざわざ身を寄せなくたって、参考書を自分の方に持っていけばいいのに。


「ねぇ、聞いてる?」


「うわっ! え、なになに」


「ここ、間違ってる。檸檬のスペルはRじゃなくてL」


「あ、ほんとだ」


「こんなの間違えないでよ」

 

うんうん、全く頭に入ってこないぞ。だってこの状況だ。

 

心臓の音がうるさく聞こえる。血流も早い。幸せホルモンもドバドバだ。

 

僕は彼女のことを天使と言っていたが、とんでもない小悪魔なのかもしれない。


「雪城さんはさ、勉強するのが好きなの?」

 

ふと、思い立った質問。待っているだけだと体が爆散しちゃいそうなので、気を紛らわすためにも聞いてみた。


「なに? 急に。好きだったら悪い?」

 

顔は合わせてくれない。僕の回答と解説を交互に見ながら、丸とバツが半々ぐらいで付けられていく。


「いやだってさ、全教科満点だよ? 雪城さんて、すごいなって思ってさ」


「あなたの突出したバカさ加減も、すごいと思うけど」


「褒めて……はいないんだよね」

 

僕はつくづく自分の能力の足りなさに辟易とする。

 

運動もダメ、勉強もダメ。恋に関してもうまくいかない。唯一の取り柄は本当にバカなところなのかもしれない。

 

雪城さんは正反対だ。僕にないもの全てを持っている。


人って無いものねだりだよね。誰かが持っているものをつい自分の物にしちゃいたくなる。

 

それが憧れなんだ。そしてこれが恋のきっかけにもなるんだ。


「でもね、天野くん」

 

ふと、名前を呼ばれる。雪城さんが、僕の方を見る。

 

その顔はなぜか嬉しそうに見えた。


「バカって言うけど、あなたは私にないものを持ってる」


「え――」


「あなたは変に、気負わない方がきっといいのよ」

 

その時の雪城さんは、とても洗練された表情をしていた。

 

僕のことを見ている。僕のことを知っている。その言葉が、表現されなくても伝えられているような気がした。


「かと言って」

 

ばん! と答案用紙を叩く音。耳鳴りのようにじんじんと響く。


「小学生英語で半分しか取れないのはなぜ? ふざけてるの?」


「しょ、精進します!」

 

じっと睨む鋭い目つきは教室の中の、みんなの噂の中の雪城さんそのものだった。

冷酷でツンとしたあの感じ。

 

ただ、あの一瞬だけは、初めて僕にだけ見せた、彼女の本質の一面のように思えた。

 

英語、がんばろう。檸檬のスペルはRじゃなくてL。もう絶対に間違えないぞ。


堂々と胸を張って、雪城さんの隣を歩くために。

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