感傷のロジック
日常は、その正確な軌道上を回り続けている。だが、内部の歯車は、明らかに噛み合っていなかった。あの二枚の写真は、俺がまだ知らない、世界の別の法則性を示唆しているのではないかという、悍ましい疑念に変わっていた。
(感覚を、正常に戻す。それだけだ)
この苛立ちを紛らわすために、デジタルカメラを掴み、街を見下す高台の水道施設跡地へと向かった。感情の入り込む隙のない、「記録」としての完璧な一枚を撮る。そうすれば、思考に巣食う不合理な感傷も、綺麗に除去できるはずだ。
手慣れた様子で三脚を立て、カメラをセットする。ファインダーを覗き、構図を調整する。
その、刹那だった。強い太陽光が、塔の縁にかかった瞬間、レンズの中で光が乱反射した。ファインダーの隅に、七色の光の筋――レンズフレアが走る。
(……ノイズだ)
いつもなら、消して終わるはずだった。なのに。俺の目は、消すべきノイズであるはずの光に、なぜか惹きつけられていた。そして、無意識に、より盛大にフレアが入る角度にカメラを向けていた。
「―――っ!」
火傷でもしたかのようにファインダーから目を離す。何をしている。失敗を、無意識に追い求めてどうする。
(汚染されている。完全に)
俺の脳だけじゃない。目そのものまでが。
衝動的に、完璧な構図で撮った写真を削除した。撮る。消す。また撮る。また消す。腹の底から、自分自身への怒りがこみ上げてくる。リハビリは、俺の思考が取り返しのつかないバグに侵されていると再確認させただけだった。
このバグを修正するには、あの現象を、霞沢詩織という存在を、理解するか、あるいは完全否定して論破するしかない。答えの在処は、分かっている。あの、旧校舎の二階にある、非合理と感傷の巣窟だ。
週末を目前にした金曜日の放課後。苛立ちと焦燥感に駆られ、図書館にいた。あの理解不能な現象を論理で解体しようと足掻いていた。「認知心理学」「写真芸術論」。小難しい本をめくるが、腑に落ちる答えはない。
その時、ふと視線を感じた。少し離れた席で、大型の美術画集を気だるそうに眺めていた、ジャージ姿の女。長い髪を無作法に束ねた、どこか猫のような人間。目が合ったのは一瞬。女はすぐに興味を失ったように、画集に視線を戻した。
週が明けた月曜の放課後。全ての試みが失敗に終わり、気づけば美術準備室のドアの前にいた。中から聞こえる楽しげな笑い声が、プライドを完全にロックする。
(……馬鹿げている。帰るか)
踵を返そうとした、その時だった。
「ずいぶん、そのドアと難しい話をしてるみたいじゃない。図書館じゃ、答えは見つからなかったクチかな」
背後からかけられた、気だるげな声。振り返ると、金曜に図書館にいた、あのジャージの女が立っていた。
「……あんた、教師だったのか」
「一応ね。美術の九条。よろしく。で、あんたはそれをどうしたいの? その『非効率』な連中を、論理で正してあげたいとか?」
「そういうわけでは……!」
「だと思った。あんた、別にアイツらのことなんてどうでもいいんだろ。問題は、あんた自身だ」
九条の言葉は、俺の心の防壁を一枚ずつ的確に剥がしていく。
「あんたは被写体を客観的に記録する『ドキュメンテーション』に価値を置いてる。でも、あいつらは写真を見て個人の記憶や感情が喚起される『レスポンス』を求めてる。評価軸が、そもそも違うんだよ」
―――会話が、成立しない。
同じ土俵でルールが否定されたのだと思っていた。だが、そもそも立っている場所が、話している言語が、全く違ったというのか。
「だからあんたは気持ち悪いんだろ。自分の採点基準じゃ、〇か×かすら付けられない。そんな曖昧なものが、あんなに楽しそうにまかり通ってるのが」
図星だった。俺の沈黙を、彼女は肯定と受け取ったらしい。
「あんたが本気でスッキリしたいなら、やることは一つだよ」
彼女は、美術準備室のドアを、親指でくい、と示した。
「中に入れ。奴らの言葉を覚えろ。どういう理屈で、あいつらがそれを『美しい』と感じるのか、感傷のロジックを分析し、数式化しろ。それがお前の『納得』への最短ルートだ」
―――納得。
探していると気づきもしなかった鍵が、錠前にぴたりと嵌まるような、そんな感覚だった。
(……やられた)
背筋に悪寒が走る。この女は、俺の性格、プライド、精神状態を読み解き、絶対に「ノー」と言えない、俺のためだけに誂えたような言い訳を、その場で構築してみせたのだ。これは提案などではない。完璧な誘導だ。
だが、だとしても関係ない。
これは、感傷に負けたんじゃない。仲間になりたいわけでもない。
……ただ、知りたいだけだ。
霞沢詩織が「美しい」と言った、あの光の正体を。知らないルールで動いている、あの世界の構造を。それを、この手で、この目で、解き明かす。そして、俺が「納得」する。ただ、それだけだ。
九条はもう興味を失ったのか、あくびを一つして、俺の横をすり抜けながら耳元で囁いた。
「ま、せいぜい楽しんで。あそこは、あんたみたいな人間を狂わせるには、ちょうどいい場所だから」
残されたのは、俺と、目の前の扉だけだった。
もう、迷いはなかった。
美術準備室の引き戸に、迷いなく手をかけた。