記録の敗北
週末の土曜日。俺は『仕事』を片付けるため、寂れた商店街にいた。
この混沌とした空間を、俺の論理で完璧に切り取ってやる。三脚を立て、水平を出し、絞りをF8まで絞り込む。プレビュー画面に映るのは、全ての情報が冷徹に解剖された、無機質な情報の断片群。まるでタイポロジー(類型学)のように、感情を排した客観性こそが真実だ。これをあの感傷的な連中に叩きつければ、文句のつけようもあるまい。
撮影を続けるうち、レンズ越しに霞沢詩織の姿を捉えた。一人で、パン屋だった店の前に、ただ佇んでいる。その気配から逃れるように、とっさに柱の陰に隠れた。
非効率の極みだ。目的のない行動、無意味な時間。そう結論づけているのに、撮るべき「建物」ではなく、「建物を見つめる詩織」にカメラを向けていた。静的な空間に投入された、予測不能な動的要素。データとして検証する価値はある。これは観測だ。
自分に言い聞かせ、ファインダーを覗く。息を詰めた、その瞬間。彼女の背後のガラス窓に、太陽の光が強烈に反射した。制御不能の光がレンズに雪崩れ込み、ファインダーが真っ白に染まる。俺はパニックのようにシャッターを切っていた。
プレビュー画面に映ったのは、あらゆる情報が融解した、ただの白いノイズ。記録としての価値、ゼロ。
「……最悪だ」
舌打ちした時、シャッター音に気づいた詩織と目があった。
「撮影は、もう終わったのか?」
「ううん、まだ。……月岡くんは、順調?」
「まあな。依頼された『記録』は、全て完了した」
黙り込んでいると、詩織は少し寂しげに微笑んで、「じゃあ、また」と去っていった。一人残された俺は、やり場のない苛立ちを感じながら液晶画面に目を落とす。数十枚の完璧な『記録』と、たった一枚の、光に溶けた少女の姿が写った、理解不能なデータ。俺は、その消去ボタンを、どうしても押すことができなかった。
週が明けた放課後。USBメモリを手に、風景保存協会の巣窟へ向かった。
(これで終わりだ。頼まれたブツを渡し、対価である平穏を受け取る。単純な取引だ)
ドアを開けると、いつものメンバーがいた。無言でノートパソコンにUSBを差し込み、撮影した348枚の完璧なデータ群をスライドショーで表示させる。
「すごい数!」「まるで、誰もいない街の地図みたいですね」
彼女たちの反応は、賞賛ではあるが、どこか他人事の感嘆だ。心が動いているようには、到底思えなかった。
「……うん。すごく、正確だ」
詩織の声には、僅かな戸惑いが滲んでいた。正確。俺が最も求める評価のはずが、突き放されたような冷たさで響く。
(何かが、違う)
「なら、これでこっちの仕事は終わりだな」
USBを引っこ抜き、立ち去ろうとした。だが、指は逡巡していた。脳裏に、あの光が焼き付いている。俺のプライドが、完璧な仕事にケチがつくことを許さない。なのに、どうしてだろう。あの光に滲んだ曖昧な記憶こそが、彼女たちの求めるものではないのか。そんな非論理的な思考が、頭をもたげる。
「……いや。もう一枚、ある」
気づけば、口を開いていた。再びUSBを突き刺し、フォルダの隅に隔離していた「失敗作」のファイルを開いた。
その瞬間、準備室の空気が変わった。
モニターに、オレンジ色の光が溢れ出す。モニターに、オレンジ色の光が溢れ出す。ハレーションでディテールは白く飛び、主題は曖昧模糊としている。記録性という観点では完全な落第点だ。
「……この音、知ってる」最初に口を開いたのは雨宮響だった。「夕方の、最後のパンが焼ける音」
「……言葉は、いりませんね」星野栞がため息をつく。「これは、物語そのものですから」
そして、ずっと黙っていた霞沢詩織が、ゆっくりとモニターに近づいた。彼女の瞳が、きらりと潤んだのを、俺は見逃さなかった。
やがて彼女は、振り返って、俺をまっすぐに見た。その表情は、泣きそうだった。でも、それ以上に、どうしようもなく嬉しそうに、微笑んでいた。
「ありがとう、月岡くん」
凛、と。鈴が鳴るような、澄んだ声だった。
「これが、私の覚えていたかった光だよ」
――ドクン。
頭を、鈍器で殴られたような衝撃。俺の「正しさ」が、彼女の「真実」の前で、木っ端微塵に砕け散った。
「……もう、用はないだろ」
椅子を蹴立てるように立ち上がり、それだけを吐き捨てるのが精一杯だった。メンバーたちの戸惑う視線を感じながら、逃げるように美術準備室のドアを開けた。
自室に戻っても、混乱は収まらなかった。積み上げてきた技術、知識、論理。その全てが、あの場所では全く意味をなさなかった。
平穏を取り戻すには、頭を冷やす必要がある。家の中でもっとも静かで、秩序だった場所――祖父の書斎へと足を向けた。
机の引き出しを開けると、古いインクの匂いとともに、数枚の色褪せた写真が出てきた。その中の一枚に、思わず手を止めた。
若い頃の祖父と、祖母だった。少し傾いた構図で、二人が満面の笑みで写っている。
(……ピントが甘いな)
背景の空は露出オーバーで真っ白に飛び、二人の輪郭すら光に溶けている。典型的な、素人の失敗写真だ。
そう、頭では分析しているのに。俺の目は、その写真から離れることができなかった。白飛びした光が、まるで後光のように二人を包んでいる。そこには、技術的な欠陥を黙殺するほどの、腹立たしいくらいに幸福な時間が焼き付いていた。俺が撮ったどの写真にも写っていない、忌々しいほど美しい「何か」が。
そして、気づいてしまった。この、全てを白く飛ばした強い光は―――ハレーションだ。
あの時、モニターに映し出された光と、同じだ。
「失敗」だと断じた光。霞沢が「これだ」と言った光。その光が、俺とは正反対の、感情の塊のような祖父が残した一枚の中で、最も大切なものを祝福するように、輝いていた。
皮肉なものだ。「失敗」を恐れるあまり、デジタルの世界に逃げ込んだ。それなのに、今になって突きつけられているのは、『失敗の中にこそ価値がある』という、たちの悪い冗談のような結論だった。