風景保存協会
丘の上での霞沢詩織との約束が、脳裏に焼きついたまま一日が過ぎた。
放課後、俺は旧校舎の前に立ち、自分が昨日、いかに非論理的な決断を下してしまったかを分析していた。「風景保存協会」。得体のしれない活動。面倒事の匂いしかしない。
(……一度「気になる」というバグを認識してしまった以上、それを放置することの方が、よほど俺の平穏を乱す。原因を特定し、分析し、納得して、関係を断ち切る。それが最も合理的だ)
そんな言い訳を頭の中で組み立て、俺は渡された古い鍵で重い鉄の扉を開けた。
ギシ、と軋む床を踏みしめ、二階の準備室の前に立つ。
扉の向こうにあったのは、俺の知らない種類の静謐だった。
壁際の古書棚。窓際の作業机。床のマイクスタンド。そして、三人の人間が、それぞれのテリトリーで風景の一部になっていた。
ヘッドホンで外界を拒絶する、色素の薄い髪の少年。
分厚い本に顔を埋める、黒縁眼鏡の先輩らしき少女。
ピンセットを手に箱庭と格闘する、栗色のショートボブの少女。
論理もなければ、統一性もない。バラバラの人間が、ただ同じ場所にいるだけ。無意味で、非効率で、理解不能な……そのはずだった。
「あ゛ー!もうっ!」
甲高い声が静寂を破る。ジオラマを作っていた少女――木村彩良が、こちらに気づき、花が咲くように笑った。
「あ!本当に来た!詩織ちゃんが面白い人見つけたって言うから、楽しみにしてたんだよ!私、木村彩良!よろしくね!」
「……いらっしゃい、月岡くん。来てくれるような、気がしてた」
その奥から、霞沢詩織が湯気の立つマグカップを二つ持って現れた。不思議と、彼女が中心に立つと、この無秩序な空間の重心が定まるように見える。
「彼が、月岡くん。…そして、こちらが雨宮響くんと、星野栞先輩。それから、今騒がしかったのが彩良ちゃん」
詩織の紹介に、栞先輩は静かに一礼し、響はヘッドホンをずらしてこちらをチラリと見ただけだった。
「で、で!凪くんは写真撮るんだよね?なんでニコンなの?こだわり?」
彩良の質問に、俺は事実だけを答える。
「スペックと価格のバランスが、一番合理的だったからだ」
「ご、合理的……」
彩良が引きつった笑みを浮かべた時、今まで黙っていた響がボソリと呟いた。
「……あんたのシャッター音、迷いがない音だね。この前、外で聞こえた。気持ち悪いくらい正確な音だ」
最高の褒め言葉だな。そう内心で呟いていると、今度は栞先輩が、本から顔を上げずに言った。
「そのレンズで切り取られた世界は、どんな物語を紡ぐのでしょう。……それとも、物語になることすら拒絶するのでしょうか」
なんだ、ここは。分析不能な言葉が四方から飛んでくる。全員が、俺の理解できない物差しで、世界を見ている。
――なのに、なぜだろう。俺が今までいた、あの「普通」の教室よりも、ずっと息がしやすいと感じてしまうのは。
俺の考えを読んだかのように、詩織が微笑み、マグカップの一つを差し出してきた。
「ようこそ、『風景保存協会』へ」
その言葉が、最後の引き金だった。訳の分からない居心地の悪さに、俺は背を向けた。
「あ、もう行っちゃうの?」
彩良の声が聞こえたが、振り返らずにドアノブに手をかける。その腕を、不意に柔らかな感触が掴んだ。詩織だった。
「待って、月岡くん。一つだけ、お願いがあるの」
彼女は、一枚の簡易的な地図を俺に差し出した。駅前の、古い商店街のものだった。
「この商店街、もうすぐ取り壊されるんだ。私たちも記録を集めてるんだけど……月岡くんの『記録』する力も貸してほしい。君の目で見た、ありのままの風景を、写真に撮ってきてくれないかな」
「……なぜ俺が」
「君の撮る写真には、嘘がないから。私たちの記憶だけじゃ、どうしても薄れてしまうものを、君なら正確に残してくれる」
真っ直ぐな瞳だった。断れば、この面倒な関係は終わる。だが、俺の口から出たのは、自分でも信じられない言葉だった。
「……分かった。ただし、これは仕事だ。対価として、今後一切、俺に干渉しないでもらいたい」
詩織は一瞬だけ悲しそうに目を伏せたが、すぐに頷いた。「うん。約束する」。
俺は地図をひったくるように受け取ると、今度こそ逃げるようにその場を後にした。