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像を結ぶ気配

土曜日は昼まで眠り、カメラを手に街を歩いたが、どうにも調子が狂う。シャッターを切る瞬間に、あの白いカーテンがちらついて集中が途切れる。



 夕方には大地に付き合って母校の中学へ行った。汗だくでボールを追い、仲間と笑い合う親友の姿は、ひどく非効率で、理解不能で、いつも通りだった。だが、今の俺にはその「非効率な熱量」が、自分の抱える不快感を際立たせるノイズのように感じられて、いつも以上に疲弊した。


一人でいい。誰にも邪魔されない、完璧にコントロールされた世界。それが揺らいでいる。このノイズの発生源を、どうにかして断たなければならない。



 週が明けた月曜日の昼休み。その棘は、思わぬ形で新たな輪郭を持ち始めた。

「おい凪、聞いたか? 旧校舎の噂」

購買のパンを片手に、大地がやけに楽しそうな顔で話しかけてくる。


「……幽霊が出るってやつだろ。今更だな」

「ちげーよ。"女神"が出るって話だ」

大地の話は、陳腐な都市伝説の典型だった。週末、文化部の生徒が数人で旧校舎に忍び込んだらしい。そこで、夕陽が差し込む二階の準備室に、光の中に溶けてしまいそうに儚げな、長い髪の少女が一人で佇んでいるのを見た、と。

「くだらない。誰かの見間違いだ」

一蹴しながらも、心臓が嫌な音を立てた。金曜日に自分が観測した、あの気配。荒唐無稽な噂話が、俺の個人的な体験と不気味に符合する。

(あの噂……まさか、金曜のあれと関係があるのか?)



 その日の放課後。

大地の楽しそうな顔。噂話の内容。金曜の光の残像。それらが一緒くたになって、思考の中で不快なノイズをまき散らしている。まっすぐ家に帰るべきだ。面倒事に関わるのは、俺の信条に反する。


分かっているのに、気づけば足は、旧校舎が遠巻きに見える校庭の隅へと向かっていた。

(……何をやっているんだ、俺は)

舌打ちを一つ。くだらない噂だ、関わるだけ時間の無駄だ。そう頭では結論づけているのに、気づけば足は、意思とは裏腹に、旧校舎が遠巻きに見える校庭の隅へと向かっていた。


日はまだ高く、校舎はのっぺりとした表情を見せている。

――なーんだ、やっぱり誰もいないじゃないか。くだらない。

そう結論づけて帰ろうとした、まさにその時だった。

ギィ、と錆びた蝶番が軋む音を立て、旧校舎の裏口が開き、中から一人の生徒が出てきた。

長い髪の少女。


幻覚でも、噂の登場人物でもない。確かに「誰か」が、あの場所にいた。

その、否定しようのない事実だけを頭に刻み、俺は彼女に気づかれる前に、足早にその場を後にした。



 翌日の放課後。

昨日の少女の姿が、思考にこびりついて離れない。ただ見かけただけ。それなのに、なぜこれほど気になる? ……厄介だな。

この正体不明の苛立ちを消し去るには、あの少女が何者で、何をしていたのか、その目的をはっきりさせるしかない。そう結論づけるしかなかった。


苛立ちを紛らわすように、俺は祖父の古いフィルムカメラを手に、街を見下ろせる丘へと足を向けた。ごちゃごちゃになった思考を、ファインダーの中の四角い世界に閉じ込めて、強制的にリセットするためだ。


 夕暮れ時。世界がオレンジ色に染まる。完璧な光と影のコントラスト。その瞬間を切り取るため、シャッターに指をかけた、その時。

「……あなたも、此処からの景色が好きなの?」

不意に、すぐそばから声がして、心臓が喉まで跳ね上がった。


ファインダーから顔を上げると、いつからそこにいたのか、一人の少女が立っていた。俺と同じ、光陵高校の制服。夕陽を浴びて淡い金色に光る、色素の薄い髪。

――昨日、旧校舎にいた、あの少女だ。

彼女は驚く俺を見て、少しだけ困ったように微笑んだ。


「ごめんなさい、集中してたみたい。邪魔しちゃったかな」

「いや……」

「月岡、凪くん、だよね。二組の。」


不意にかけられた声に、シャッターに置いた指がこわばる。振り向いた拍子に、心臓が喉の奥を不格好に打ちつけた。彼女の視線が、まるで精密なレンズのように、俺の輪郭をなぞっていくのを感じた。


「……どうして、それを」

「ごめん。びっくりしたよね。昨日……旧校舎の近くにいるの、見えたから。それで、名簿で」


あっさりと核心を突かれ、言葉に詰まる。

彼女は俺が構えていた古いフィルムカメラに目を移し、納得したように小さく頷いた。

「写真を、撮ってたんだね」

「……ああ」

「君の写真は、時間を止めようとしてるみたい。……だって、そのカメラを構える横顔、すごく必死な感じがしたから。何かを逃すまい、って」


俺が誰にも言ったことのない、写真に対する本質的な欲求。それを、初対面の相手が、いとも簡単に見抜いてみせた。

(なんだ、こいつは)

得体のしれない、不快な感覚が背筋を走った。

「……別に、そんな大したものじゃ」

「ううん。わかるよ」

そう言って、彼女は自分の胸元を指差した。

「私はカメラは持ってないけど、言葉で同じことをしてる。消えてしまいそうな景色や、匂いや、感情に、名前をつけて保存しておくの。そうしないと、全部、霞みたいに薄れて、なかったことになっちゃうから」

「霞沢詩織。私は、そうやって自分を繋ぎとめてる」


彼女は、感傷的な、非論理的な言葉を並べ立てる。

「私たち、そんな活動をしてるんだ。『風景保存協会』って、勝手に名乗ってるだけなんだけどね」

記録と、記憶。俺がやっていることと、似ているようで、その根幹は全く違う。俺のは客観的な記録。彼女のは、主観的な記憶の保存。相容れない。


「ねえ、月岡くん。もしよかったら、一度私たちの部室に遊びに来ない? 君の写真、きっと私たちの活動に力を貸してくれると思う」

「部室って……」

「旧校舎の、二階の美術準備室」

断ろう。

それが唯一の、論理的な正解だ。

理性が赤信号を点滅させる。面倒だ。危険だ。俺が必死に守ってきた完璧な秩序(テリトリー)が、目の前のこの少女によって、内側から侵食されていく。


これ以上関われば、俺の平穏は二度と戻らない。ここで関係を断ち切る。それが最も合理的で、効率的な判断のはずだった。

なのに。


気づけば、俺は小さく、頷いていた。自分の行動が信じられず、半開きの唇から何の音も出てこない。彼女が微笑んだのを見て、俺は踵を返し、まるで何かに追われるように丘を駆け下りていた。アスファルトを叩く自分の足音だけが、やけに遠くに聞こえた。


ファインダー越しに観測していたはずの世界が、俺自身の制御を離れ、勝手に動き出していく。そんな、悪夢の始まりだった。

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