表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/12

ファインダー越しのアンサー

 陽が傾き、俺たちの影が黒く長く伸び始める。じりじりと肌を焼いていた日差しが、少しだけ優しさを帯びてきた頃だった。

ゴォォォッ、と、それまでとは質の違う、唸るような突風が吹き抜けた。夏草が大きく波打ち、金網のフェンスが「ガタガタガタッ!」と大きな音を立てて揺れる。


同じ現象に対し、俺たちの認識は、全く異なっていた。

(ただの風だ。気圧の変化による空気の移動。それ以上でも、それ以下でもない)

揺れるフェンスにレンズを向けながら、そう結論付けた。


「……来た。5年前と同じ音だ。この場所の、(ぬし)の声」

目を閉じたままの響が、恍惚としたように呟いた。

「……夏の終わりの、忘れられたものの慟哭のようですね」

ペンを走らせていた栞先輩が、顔を上げて空を見つめている。


響がゆっくりと立ち上がり、俺の方へ歩いてきた。そして、俺の目の前で、自分の頭からヘッドホンを外し、無言で差し出した。

「……聴いてみるか。あんたのその四角い箱じゃ絶対に撮れない、ここの本当の姿だ」

差し出されたヘッドホンを見て、俺は思わず半歩後ずさっていた。耳を塞ぐ黒いイヤーパッドが、まるで俺の理解できない世界への入り口のように見える。


「……遠慮しておく」

返事を聞いても、響はヘッドホンを差し出したまま動かなかった。その薄い唇の端が、微かに吊り上がる。

「……そうか。あんたの信じる『完璧な世界』が、いかに脆いか教えてやろうと思ったんだがな。怖いのなら、いい」


その挑発が、俺のプライドの逆鱗に触れた。

「……貸せ」

俺は、吐き捨てるように言って、彼の手からヘッドホンをひったくった。

戸惑いながらも、差し出されたヘッドホンを、恐る恐る耳に当てた。

その瞬間、世界が変わった。


視界は、先ほどまでと同じ、静かな廃墟のままだ。錆びた飛び込み台。ひび割れたプールサイド。


だが、耳から、世界のすべてを書き換えるような「音」が流れ込んできた。

ゴォォォォ……という、ただの風の音ではない。地鳴りのように低く、空間全体を震わせる、この場所自身の呼吸のような音。

サワサワ、と耳元で囁く、夏草たちの声。

キィィ……と軋む、飛び込み台の金属の悲鳴。

遠くで鳴り響く、教会の鐘の、澄んだ残響。

それら一つ一つの音が、ありえないほどの解像度で、鼓膜を通り越して脳に直接流れ込んでくる。


目の前の「静的な廃墟」が、まるでゆっくりと「呼吸」を始めたかのように感じられた。

今まで見ていたのは、この風景の、色の情報だけだったのだ。


ヘッドホンを外し、響に返す。言葉が出なかった。今まで見ていたはずの廃墟が、全く違う表情を見せ始める。風が夏草を揺らす音、金属がきしむ微かな悲鳴。それら全てが、この場所の「風景」なのだと、遅まきながら気づかされる。手の中のカメラが、急に重く、そして無力なものに感じられた。


自分の手の中にある、最高の道具であるはずのデジタル一眼レフに視線を落とす。こいつは、目に見えるものを、寸分の狂いもなく「記録」するための、最高の道具だ。

だが、今、鼓膜に残っているのは、目に見えない「音」であり「気配」だった。


(……ダメだ。こいつでは、写らない)

脳裏に、あの温室での出来事がフラッシュバックする。

制御不能の光。「失敗」だと断じ、詩織が「心の風景」と言った、あの写真。

自分自身が、密かに「美しいエラー」だと感じてしまった、あの写真。

あの「バグ」は、ただの偶然ではなかったのか。


俺は苛立ち紛れにデジタル一眼レフをバッグに押し込むと、その底で眠っていた、ずしりと重い鉄の塊を掴み出した。祖父の形見。俺が最も嫌う、非合理と感傷の塊だ。だが、今はこれに頼るしかない。カチャン、と重々しい金属音を立てて、フィルムを巻き上げる。ファインダーを覗くと、そこにはもう、数値化できる情報は何もない。あるのは、光と、影と、形だけだ。


先ほど耳にした「音」の正体を暴くように、苛立ち紛れにシャッターを切った。

ハレーション? レンズフレア? そんなものは制御できない光のバグだ。そのバグの中にこそ、奴らが言う「気配」とやらが記録されるのかもしれない。

あの「美しいエラー」の正体を突き止めるために、半ば八つ当たりのようにシャッターを切り続けた。



 数日後、フィルムの現像が終わったとの連絡を受け、俺は放課後の部室へと向かった。

部室の机の上には、現像から上がってきたばかりのフィルム写真が、数枚並べられていた。あのプール跡地で最後に撮った写真だ。

そこに写っているのは、俺の基準で言えば、完全な失敗作のオンパレードだった。


ピントは甘く、粒子は粗い。意図しない光が写り込み、被写体の輪郭すら曖昧だ。

「わ、すごい! この写真、なんだか音が聞こえてきそう!」

最初に声を上げたのは、彩良だった。その言葉の意味が全く理解できなかった。

「……うん。すごく、優しい写真だね。ここにいた人たちの声が、全部抱きしめられてるみたい」

詩織が、一枚の写真をそっと指でなぞりながら、微笑んだ。


(優しい、だと? これはただの露出オーバーによるハレーションだ。技術的な欠陥だ)

以前ならそう一蹴し、否定していたはずだった。だが、何も言えなかった。なぜなら、俺の「正しさ」が、温室で生まれたあの「美しさ」に、既に内側から侵食され始めているからだ。この欠陥の中に、彼女たちの言う「何か」が存在する可能性を、もう否定しきれずにいる。

響と栞先輩に視線を送ると、二人は静かに頷いている。まるで、俺の混乱すら見透かしているかのように。

称賛の言葉を浴びれば浴びるほど、自分の「正しさ」が分からなくなり、ひどい疎外感を覚えていた。

 


 昼間の熱気が嘘のような、静かな夜だった。

俺は、自室のPCに向かっていた。デスクトップのど真ん中には、俺の世界に埋め込まれた最初のバグである『Bug_01』が、静かに鎮座している。


新しくフォルダを作成した。

フォルダ名:

『Case_03_光陵市民プール跡地』

そのフォルダに、今日スキャンしたフィルム写真――俺にとっては「失敗作」のデータを入れる。


響の音声ファイルと、栞先輩の詩のテキストファイルも、そこにドラッグする。

無機質な光を放つモニターと、そこに整然と並ぶファイルを、ただ見つめていた。

温室での一件は、俺のOSに紛れ込んだ未知のコードだった。

これらの写真は、そのコードが本格的に競合(コンフリクト)を起こし始めた警告に違いない。


プログラムはまだ動いている。だが、論理の外側から忍び込んでくる「美しさ」という不具合が、処理系をじわじわ侵食している。

これは答え(アンサー)などではない。

俺の完璧だったはずの世界で発生した、致命的なシステム・コンフリクトだ。

認めたくない。だが、もう、無視することもできない。

どうしようもない矛盾を抱えたまま、ただ、無機質に点滅を繰り返すカーソルを呆然と見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ