ファインダー越しのアンサー
陽が傾き、俺たちの影が黒く長く伸び始める。じりじりと肌を焼いていた日差しが、少しだけ優しさを帯びてきた頃だった。
ゴォォォッ、と、それまでとは質の違う、唸るような突風が吹き抜けた。夏草が大きく波打ち、金網のフェンスが「ガタガタガタッ!」と大きな音を立てて揺れる。
同じ現象に対し、俺たちの認識は、全く異なっていた。
(ただの風だ。気圧の変化による空気の移動。それ以上でも、それ以下でもない)
揺れるフェンスにレンズを向けながら、そう結論付けた。
「……来た。5年前と同じ音だ。この場所の、主の声」
目を閉じたままの響が、恍惚としたように呟いた。
「……夏の終わりの、忘れられたものの慟哭のようですね」
ペンを走らせていた栞先輩が、顔を上げて空を見つめている。
響がゆっくりと立ち上がり、俺の方へ歩いてきた。そして、俺の目の前で、自分の頭からヘッドホンを外し、無言で差し出した。
「……聴いてみるか。あんたのその四角い箱じゃ絶対に撮れない、ここの本当の姿だ」
差し出されたヘッドホンを見て、俺は思わず半歩後ずさっていた。耳を塞ぐ黒いイヤーパッドが、まるで俺の理解できない世界への入り口のように見える。
「……遠慮しておく」
返事を聞いても、響はヘッドホンを差し出したまま動かなかった。その薄い唇の端が、微かに吊り上がる。
「……そうか。あんたの信じる『完璧な世界』が、いかに脆いか教えてやろうと思ったんだがな。怖いのなら、いい」
その挑発が、俺のプライドの逆鱗に触れた。
「……貸せ」
俺は、吐き捨てるように言って、彼の手からヘッドホンをひったくった。
戸惑いながらも、差し出されたヘッドホンを、恐る恐る耳に当てた。
その瞬間、世界が変わった。
視界は、先ほどまでと同じ、静かな廃墟のままだ。錆びた飛び込み台。ひび割れたプールサイド。
だが、耳から、世界のすべてを書き換えるような「音」が流れ込んできた。
ゴォォォォ……という、ただの風の音ではない。地鳴りのように低く、空間全体を震わせる、この場所自身の呼吸のような音。
サワサワ、と耳元で囁く、夏草たちの声。
キィィ……と軋む、飛び込み台の金属の悲鳴。
遠くで鳴り響く、教会の鐘の、澄んだ残響。
それら一つ一つの音が、ありえないほどの解像度で、鼓膜を通り越して脳に直接流れ込んでくる。
目の前の「静的な廃墟」が、まるでゆっくりと「呼吸」を始めたかのように感じられた。
今まで見ていたのは、この風景の、色の情報だけだったのだ。
ヘッドホンを外し、響に返す。言葉が出なかった。今まで見ていたはずの廃墟が、全く違う表情を見せ始める。風が夏草を揺らす音、金属がきしむ微かな悲鳴。それら全てが、この場所の「風景」なのだと、遅まきながら気づかされる。手の中のカメラが、急に重く、そして無力なものに感じられた。
自分の手の中にある、最高の道具であるはずのデジタル一眼レフに視線を落とす。こいつは、目に見えるものを、寸分の狂いもなく「記録」するための、最高の道具だ。
だが、今、鼓膜に残っているのは、目に見えない「音」であり「気配」だった。
(……ダメだ。こいつでは、写らない)
脳裏に、あの温室での出来事がフラッシュバックする。
制御不能の光。「失敗」だと断じ、詩織が「心の風景」と言った、あの写真。
自分自身が、密かに「美しいエラー」だと感じてしまった、あの写真。
あの「バグ」は、ただの偶然ではなかったのか。
俺は苛立ち紛れにデジタル一眼レフをバッグに押し込むと、その底で眠っていた、ずしりと重い鉄の塊を掴み出した。祖父の形見。俺が最も嫌う、非合理と感傷の塊だ。だが、今はこれに頼るしかない。カチャン、と重々しい金属音を立てて、フィルムを巻き上げる。ファインダーを覗くと、そこにはもう、数値化できる情報は何もない。あるのは、光と、影と、形だけだ。
先ほど耳にした「音」の正体を暴くように、苛立ち紛れにシャッターを切った。
ハレーション? レンズフレア? そんなものは制御できない光のバグだ。そのバグの中にこそ、奴らが言う「気配」とやらが記録されるのかもしれない。
あの「美しいエラー」の正体を突き止めるために、半ば八つ当たりのようにシャッターを切り続けた。
数日後、フィルムの現像が終わったとの連絡を受け、俺は放課後の部室へと向かった。
部室の机の上には、現像から上がってきたばかりのフィルム写真が、数枚並べられていた。あのプール跡地で最後に撮った写真だ。
そこに写っているのは、俺の基準で言えば、完全な失敗作のオンパレードだった。
ピントは甘く、粒子は粗い。意図しない光が写り込み、被写体の輪郭すら曖昧だ。
「わ、すごい! この写真、なんだか音が聞こえてきそう!」
最初に声を上げたのは、彩良だった。その言葉の意味が全く理解できなかった。
「……うん。すごく、優しい写真だね。ここにいた人たちの声が、全部抱きしめられてるみたい」
詩織が、一枚の写真をそっと指でなぞりながら、微笑んだ。
(優しい、だと? これはただの露出オーバーによるハレーションだ。技術的な欠陥だ)
以前ならそう一蹴し、否定していたはずだった。だが、何も言えなかった。なぜなら、俺の「正しさ」が、温室で生まれたあの「美しさ」に、既に内側から侵食され始めているからだ。この欠陥の中に、彼女たちの言う「何か」が存在する可能性を、もう否定しきれずにいる。
響と栞先輩に視線を送ると、二人は静かに頷いている。まるで、俺の混乱すら見透かしているかのように。
称賛の言葉を浴びれば浴びるほど、自分の「正しさ」が分からなくなり、ひどい疎外感を覚えていた。
昼間の熱気が嘘のような、静かな夜だった。
俺は、自室のPCに向かっていた。デスクトップのど真ん中には、俺の世界に埋め込まれた最初のバグである『Bug_01』が、静かに鎮座している。
新しくフォルダを作成した。
フォルダ名:
『Case_03_光陵市民プール跡地』
そのフォルダに、今日スキャンしたフィルム写真――俺にとっては「失敗作」のデータを入れる。
響の音声ファイルと、栞先輩の詩のテキストファイルも、そこにドラッグする。
無機質な光を放つモニターと、そこに整然と並ぶファイルを、ただ見つめていた。
温室での一件は、俺のOSに紛れ込んだ未知のコードだった。
これらの写真は、そのコードが本格的に競合を起こし始めた警告に違いない。
プログラムはまだ動いている。だが、論理の外側から忍び込んでくる「美しさ」という不具合が、処理系をじわじわ侵食している。
これは答えなどではない。
俺の完璧だったはずの世界で発生した、致命的なシステム・コンフリクトだ。
認めたくない。だが、もう、無視することもできない。
どうしようもない矛盾を抱えたまま、ただ、無機質に点滅を繰り返すカーソルを呆然と見つめていた。




