亀裂
亀裂
四月という季節は、どうしてこうも人を落ち着かなくさせるのだろうか。
真新しい制服の気恥ずかしさも、ぎこちない自己紹介の連続も、桜が散る頃にはすっかり過去のものになる。ゴールデンウィークという名の強制的な冷却期間が過ぎれば、教室の空気は緩やかに固まり始める。グループが形成され、クラス内での役割分担――つまりはスクールカーストという名の、見えない座席表が完成に近づいていく。誰もが必死に自分の「居場所」という名のタグを探し、身につけようと躍起になっている。
そんな喧騒を、俺――月岡凪は窓際の席からぼんやりと眺めていた。過剰な期待も、劇的な出会いもいらない。求めるのは、平均点で構成された、限りなく普通で平穏な日々。目立たず、騒がず、誰の記憶にも残らないモブキャラA。それが、この光陵高校での三年間で目指すべき、理想のポジションだった。
「で、凪。お前、結局部活どうすんだよ」
昼休みの喧騒の合間を縫って、唐揚げを口いっぱいに頬張った親友――夏川大地が話しかけてきた。サッカー部のジャージがやけに似合う、快活で裏表のない男。中学からの付き合いだが、その性格は俺とは正反対と言っていい。
「どうもしない。帰宅部一択だ」
「またまた。せっかく一眼レフなんて持ってんのに、写真部入んねーの? もったいねえだろ」
「別にプロになりたいわけじゃない。あれは趣味だ。誰かに評価されたいとも、共有したいとも思わない」
そっけなく答えると、大地は「お前はほんっと、そういうとこ面倒くせえよな」と呆れたように笑う。こいつには何を言っても無駄だと、もうお互いに分かっている。
写真を撮るのは、大地の言うような「青春」を残したいからじゃない。むしろ逆だ。形もなく、移ろいやすい感情の渦みたいな世界を、自分の理解できる範囲に固定したいからだ。構図、F値、シャッタースピード。全てが数字と法則で制御できる、それが俺にとっての写真。
だから、誰かと感動を分かち合うための部活なんて、まっぴらごめんだった。
放課後のチャイムが鳴ると、誰よりも早く教室を飛び出した。大地の「おーい、また明日なー!」という声を背中で受け止めながら、足早に校門を出る。イヤホンを着ければ、周囲の雑音は優しいノイズに変わる。世界との間に一枚、薄いフィルターをかける。これが日常だ。
帰り道、いつもは使わない橋を渡ってみる。西日が差し込み、川面がキラキラと乱反射していた。土手をユニフォーム姿の野球部が走っていく。橋の上では、カップルがスマホで自撮りをしている。ありふれた、どこにでもある放課後の風景。無意識にポケットのスマホを取り出し、カメラを向けた。構図も何もない、ただの記録。そう、ただの記録に過ぎなかった。
その時、ファインダー越しに、敷地の奥に立つ古い校舎の窓が、やけに強く光を放っているように見えた。
金曜の放課後に見たあの光の残像が、週末の間、ずっと頭の片隅にちらついていた。週末、金曜の放課後に見た光の残像は、思考の隅に棘のように突き刺さっていた。スマホで撮った一枚の画像。ピンボケで、何が写っているのか判然としないそれを、なぜか何度も見返してしまう。ただの光の反射。そう結論づけて削除すればいいのに、その写真から目が離せなかった。
週が明けた月曜日、俺はまるで何かに吸い寄せられるように、その旧校舎の裏手にいた。取り壊しが決まっているそこは、生徒たちの間では心霊スポットだとか、昔の生徒の幽霊が出るだとか、くだらない噂話の舞台になっている場所だ。近道になる、ただそれだけの理由で足を踏み入れた。
古びたコンクリートの壁。蔦の絡まった窓枠。静寂が支配するその場所で、二階の一番端にある準備室の扉を見上げた。先日、光ったように見えた窓だ。
――関わるな。理性が警告を発する。面倒ごとの匂いしかしない。求めていた平穏な日常が、あの扉の向こう側で音を立てて崩れていく。そんな予感がした。
踵を返し、このまま立ち去ろうとした。そうだ、見るからに面倒ごとの塊じゃないか。好奇心は身を滅ぼす。平穏が一番だ。
しかし、足を一歩踏み出したところで、ふと気づいてしまった。
固く閉ざされているべき、二階の窓。それが、ほんの数センチだけ開いている。そして、本来なら埃っぽいはずのその隙間から、白いレースのカーテンの端が、春の風にはためいているのが見えた。ついさっきまで誰かがそこにいて、窓を開けていたかのように。
いや、ただの気のせいだ。きっと、たまたま鍵が壊れていて、風で開いただけだろう。カーテンだって、元からそこにあったものに違いない。そう頭の中で結論づけようとした、その時。
風に乗って、ふわりと鼻先を甘い香りがかすめた。石鹸のような、清潔な香り。あるいはどこか懐かしい花の匂い。
――誰かいるのか?
思考がそこに行き着く前に、先日見た光の残像が、網膜の上で鮮やかによみがえった。
窓の向こう側。あの仄暗い部屋の中から、自分が今まで信じてきた「理屈」が、全く通用しない何かがいる。そんな気配がした。
白か黒か。記録できるか、できないか。数字と法則で制御できる唯一の世界が、写真だった。そんな俺自身を嘲笑うかのような、曖昧で、不確かで、それでいて抗いがたいほどの引力。
ダメだ。
あの光に触れたら、飲み込まれる。
必死に守ってきた、脆くてちっぽけなテリトリーが、土足で踏み荒らされる。そんな予感がした。
本能が叫んでいた。これ以上はいけない。
気づけば、踵を返し、逃げるようにその場を後にしていた。
だが、もう遅い。
鼻の奥に残る甘い香りが、網膜に焼き付いたあの光が、俺が必死に築いてきた完璧なはずの日常という名の画用紙に、インクを一滴垂らしたように、じわりと滲んで広がっていく。その不快な感覚から、もう目をそらすことはできそうになかった。