炎の工房 〜紅蓮のドラゴンが焼く、記憶のパン〜
赤銅色の鱗が朝日に輝き、フレイムは大きく伸びをした。洞窟の天井に尾が触れ、小さな石ころがパラパラと落ちる。
「また天井が高くなってしまったな」
独り言を呟き、彼は慎重に体を起こした。ドラゴンとして生まれ落ちて三百年。かつて自分は「紅蓮の災厄」と恐れられ、村々を焼き尽くす災いそのものだった。
フレイムは鼻先で炎を一瞬灯し、石窯に火を入れる。炎は彼の意のままに踊り、窯内を均一に温めていく。まるで生きているかのように炎が蠢く様を見つめながら、彼は過去を思い返していた。
「破壊と恐怖を振りまいていた俺がなぜパン屋に…」
懐かしい記憶が胸に浮かぶ。雨の日、偶然立ち寄った人間の集落。誰もいない家の窓から漂ってきた、あの香り。フレイムはその時初めて「パン」という存在を知った。
「あの香りは…まるで魔法のようだった」
憎しみと孤独に支配されていた心に、温かな灯りが灯った瞬間だった。
捕まえた獲物をそっと置き、窓からのぞき込むと、テーブルの上に置かれた丸い塊。あの時感じた好奇心と惹きつけられる感覚は今でも鮮明に覚えている。
「この手で何かを生み出したい…壊すんじゃなく…」
その考えは、彼の中で徐々に強くなっていった。
「お前は何を考えとる?」と彼を見つめる老人の顔。牙をむき出してもなお、その人間は逃げなかった。
「パンが焼きたい」と唐突に告げた自分に、老人は笑った。
「ならばその炎を使いこなせ、災厄よ」
そして始まった修行。巨大な爪で粉を扱う難しさ。発酵具合を確かめるために鼻先で生地を突つく不格好さ。何度も何度も失敗しては、老人に笑われた日々。
窓の外を見やれば、朝霧がゆっくりと晴れていく。初めての客が来る時間だ。フレイムはエプロンを身に着け、爪先で慎重に結び目を作る。
「紅蓮の災厄」から「炎の工房の主人」へ。彼の新しい物語は、まだ始まったばかりだった。
朝もやの中、村から一本道を登ってくる少年の姿がぼんやりと見えた。フレイムは窓辺から身を引き、深呼吸する。爪先に付いた小麦粉を払いながら、今日も緊張を隠せない。
「おはようございます、フレイムさん!」
小柄な体に不釣り合いな大きな籠を抱えた少年が、扉を軽くノックした。トビアスという名の、村のパン配達人だ。村人たちはまだフレイムに直接会うことを恐れており、この少年だけが仲介役を買って出ていた。
「おはよう、トビアス。今日も来てくれたのか」
「はい!おじいちゃんが言ってました。『あのドラゴンのパンは魔法がかかっているようだ』って」
少年の無邪気な言葉に、フレイムは胸が熱くなるのを感じた。かつて恐怖の対象だった炎が、今は人々に喜びを与えている。なんという皮肉だろうか。
「今日は何を焼いたんですか?」
トビアスが首を伸ばして石窯の中を覗き込む。フレイムは慎重に大きな体を動かし、完成したパンを取り出した。
「見てごらん」
表面には精巧な紅葉の模様が浮かび上がっている。フレイムは息を吹きかけ、炎の温度を微妙に調整しながら焦げ目で描いた秋の風景だ。
「わぁ!まるで本物の葉っぱみたい!どうやって作るんですか?」
「長い年月をかけて練習した炎の操り方さ」
一枚の葉が風に乗って舞い降り、トビアスの肩に落ちる。少年はそれをパンの模様と見比べ、目を丸くした。
「同じだ!自然そのものを見てるんですね」
フレイムはうなずいた。かつて自分が焼き払った森の記憶。それを贖うように、彼は自然の美しさをパンに閉じ込めていた。
「今日は特別なお客さんが来るんですよ」
トビアスの言葉に、フレイムの鱗がピクリと動いた。
「お客?」
「はい!村長さんがついに会ってみたいって。あなたのパンに心を動かされたんだって」
フレイムは窯の前で凍りついた。村長は、かつて自分が家族を奪った人間だ。記憶の底から苦い思い出が蘇る。
「大丈夫ですか、フレイムさん?」
トビアスの心配そうな声に我に返り、フレイムは静かに息を吐いた。
「ああ…大丈夫だ。特別なパンを焼こう」
過去と向き合う時が来たのかもしれない。フレイムは静かに新しい生地に手をかけた。
時が経つのを、フレイムはただ石窯の火を見つめながら待っていた。心臓は、三百年生きてきた割には早鐘を打っている。過去の記憶が断片的に蘇る。
燃え上がる家屋。逃げ惑う村人たち。そして一人の男の、憎しみに満ちた眼差し。
「約束の時間だ」トビアスが小声で告げる。「村長さん、もうすぐ着きますよ」
フレイムは大きく息を吸い込んだ。吐き出した息が、窓ガラスに白い霜を描く。緊張で体温が下がっている証拠だ。
「準備はいいか?」
自問自答するように呟き、特別に焼いたパンを前に置いた。表面には炎で描かれた一本の大きな樫の木。村の守り神だった古木の姿。かつてフレイムが怒りに任せて焼き尽くしてしまった、あの樫の木だ。
扉がノックされた音が、雷鳴のように響いた。
「入れ」
フレイムの声は、意図せず低く唸るような音になった。扉が開き、白髪の老人が一人、杖をつきながら入ってきた。村長のガレスだ。
「やはり本当だったのか…紅蓮の災厄が、パン職人になるとはな」
かつての敵を前に、フレイムは身構えた。しかし老人の目には、予想していた憎しみではなく、静かな諦観のような感情が浮かんでいた。
「座れ」フレイムは最も人間サイズに近い椅子を指し示した。「パンを焼いた」
「食べ物で私を毒殺するつもりか?」ガレスの口調は厳しいが、目は既にテーブルの上のパンに釘付けになっていた。
「毒など使わん。それでは芸術とは言えん」
二人の間に重い沈黙が落ちる。三十年前の因縁。互いに奪い合ったもの。それらが目に見えない壁となって立ちはだかっていた。
「あの日、何故村を襲った?」
ガレスの問いに、フレイムは静かに答えた。
「お前たちが、私の卵を破壊したからだ」
老人の顔から血の気が引いた。「卵?私たちは単なる石だと思って…」
「だが私にとっては、まだ見ぬ家族だった」
パンの香りが二人の間に漂う。フレイムは爪の先で器用にパンを割った。中からは、まるで命が宿ったかのように立ち上る湯気。
「食べろ。過去は変えられん。だが、これからは違う」
ガレスは震える手でパンを取り、一口かじった。その瞬間、老人の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「これは…樫の木の…記憶の味がする…」
フレイムはただうなずいた。炎は破壊するだけでなく、記憶を呼び覚ます力もあるのだ。
村長ガレスの訪問から季節が一巡り、「炎の工房」は村の象徴的な存在となっていた。今では老若男女問わず、多くの村人が直接フレイムのパン屋を訪れるようになっていた。
「フレイムさん!今日も特別なパンを焼いてくれるんですか?」
幼い少女エマが駆け込んでくる。彼女はかつて「紅蓮の災厄」を恐れていた村人の孫。今ではフレイムの最も熱心な弟子だ。
「ああ。今日は特別な日だからな」
フレイムは慎重に粉を計りながら答えた。大きな爪を器用に使いこなす姿は、もはや村人たちにとって日常の光景となっていた。
「あの修行を思い出すよ」
老パン職人との日々。あの老人は、フレイム自身が村を襲う前に亡くなっていた。村人たちにとって伝説的な存在だったその老職人こそ、実はガレスの父親だったのだ。因縁は深く絡み合っていた。
「村長さんのおじいちゃんだったんですよね」エマが生地をこねながら言った。「おじいちゃんもフレイムさんのこと、最後は許してくれたんですか?」
フレイムは窓の外を見やった。かつて焼き尽くした丘の上に、新しい樫の木が力強く育っている。あの日、パンを食べたガレスが持ってきた種から育った木だ。
「さあな。だが彼は私に大切なことを教えてくれた。破壊の炎も、向け方次第では創造になると」
「それで今日は何を焼くんですか?」
フレイムは特別な粉袋を指し示した。その中には、樫の実から丁寧に挽いた粉が入っている。「新しい命の循環を表すパンだ」
店の奥からは、フレイムが長い時間をかけて育てた自家製酵母の香りが漂う。かつては孤高の存在だった彼も、今では無数の微生物と共存し、パンを生み出していた。
扉が開き、トビアスが入ってきた。今では頼もしく成長した青年だ。「準備はいいですか?村の祭りが始まりますよ」
「ああ、もうすぐだ」
石窯からは、フレイムの傑作が次々と取り出されていく。表面には樫の木の物語が刻まれ、一つ一つに違う風景が焦げ目で描かれている。災いの記憶を、美しい芸術に変えた証だった。
外では村人たちが集まり、「炎の祭り」の準備が整っていた。かつての恐怖の象徴が、今では祝福の名前となっている皮肉。
「行くぞ」フレイムは大きな体を慎重に動かし、特製のパンを載せたワゴンを引いた。
外に出ると、村人たちからどよめきが上がった。フレイムの背から、小さな翼が生えていたのだ。昨年ガレスが謝罪の印として返してくれた、割れなかった卵から孵った幼いドラゴン。フレイムの最後の家族だった。
「名前は決まったの?」エマが小さなドラゴンに手を伸ばす。
「スパークだ。小さな炎の意味だ」
ガレスが杖をつきながら近づいてきた。「まさか自分の生きているうちに、新しいドラゴンの誕生を祝う日が来るとはな」
フレイムは静かにうなずいた。「スパークにも、いずれパン作りを教えるつもりだ」
村の広場に設けられた長テーブルには、フレイムのパンが並べられていく。香ばしい香りが村全体を包み込み、人々の笑顔を引き出していた。
「では、祝杯を」ガレスがグラスを上げる。「炎の工房と、新しい命に」
フレイムは大きな翼を広げ、夕陽に照らされて輝いた。破壊の象徴だった炎は今、創造と希望の象徴となっていた。スパークは嬉しそうに鳴き、小さな火花を吐き出す。
「これからも、俺たちの火は、人々の心を温め続けるだろう」
夕焼けを背に、ドラゴンと人間たちの新しい物語が、ここから始まろうとしていた。
<終わり>
~あとがき~
ドラゴン好きの皆様、「炎の工房」をお読みいただきありがとうございます!
この物語は、ある日ふと「炎を吐くドラゴンがパン職人になったら?」という奇妙な発想から生まれました。破壊の象徴である炎が、創造の道具になるという逆転の発想が私自身をワクワクさせたんです。フレイムの姿を思い描きながら、大きな爪で丁寧に粉をふるい、鼻先の炎で絶妙な温度調整をする様子を想像すると、つい笑みがこぼれてしまいました。
執筆中、最も時間をかけたのはパンの描写です。実は物語を書きながら、自分でもパン作りに挑戦してみたんです。結果は...まあ、フレイムほどの腕前にはほど遠く、我が家の火災報知器が何度か悲鳴を上げました。でも、パン生地が発酵していく神秘的な過程や、焼きたてのパンの香りが部屋中に広がる瞬間の幸福感は、フレイムの職人としての誇りを表現するのに大いに役立ちました。
また、この物語には「許し」というテーマを込めています。フレイムとガレスの因縁、そして和解の過程は、実は私自身の経験からインスピレーションを受けています。長く続いた誤解が、一つのパン(私の場合はケーキでしたが。)をきっかけに溶けていくという経験が、物語の核心部分になっています。
苦労した点は、ドラゴンの存在を現実的に感じさせることでした。フレイムが人間サイズのエプロンをどうやって身につけるのか?お客さんとどうやってコミュニケーションを取るのか?細部にこだわりすぎて、一時は原稿用紙の山に埋もれそうになりました。でも、そんな細かな設定考案も含めて、ファンタジー世界を創り上げる喜びなのだと思います。
物語の最後に登場するスパーク、あの小さなドラゴンについては実は続編を構想中です。フレイムからパン作りを学び、新たな冒険に旅立つ物語になる予定なので、楽しみにしていてください!
皆さんの中にも、自分の「炎」の使い方を模索している方がいるかもしれません。どんな能力も、使い方次第で世界に温かさをもたらすことができるのだと、フレイムの姿が伝えてくれるといいなと思っています。
最後になりましたが、この物語を通じて皆さんの心に小さな火花が灯ったなら、作者として、これ以上の喜びはありません。これからも、ドラゴンと人間が織りなす温かな物語をお届けしていきたいと思います。
次回作もどうぞお楽しみに!
焦げないように、でも熱く。
著者より