ローズマリー・アスター
すごく狭くて痛いという感覚があったのを、覚えている。
私は、声を出すことができない窮屈さと苦しさから早く解放されたくて、出口があるだろうと思う方向へと、一生懸命に進んだ。
周りが見えないので、進んでいるのかがわからないながらもしばらく進み続けると、窮屈さから解放されたと同時に、瞼に光を感じたのを覚えている。
私はそこで、ようやく声を出すことができた。
「オギャー、オギャー」と、大きな声を。
その瞬間は、恐怖心と嬉しさが入り混じっていたと思う。
痛くて狭くて怖かったという気持ちと、やっと解放されたという気持ちが声を出せる状態となって、一気に放たれたのだと思う。
この出来事が強烈だったのか、ここはハッキリと覚えているのだが、そこからの記憶は朧げだ。
だが、私はこの瞬間に生まれたのだと今ならわかる。
これは、私、ローズマリー・アスターが誕生した瞬間だった。
私は、自分の置かれた状況をすぐには理解することができなかった。
菜乃華の記憶が強く残る中で、毎日、毎秒聞き慣れない言葉が飛び交っている環境だと頭が混乱し、常に泣くことしかできなかった。
なので、自分の置かれている状況を俯瞰視する余裕がなかったのだ。
何日間も泣き続けたある日、私自身の声に違和感を覚えた。
菜乃華の妹は生まれて一年も経っていなかったので、聞き馴染みのある声だったのだ。
その時、私は赤ちゃんになってしまったのだと気がついて、また泣いた。
自分自身の声なのに、自分から発せられたものとは思えない声がして怖くても、泣くことしかできなかった。
本能というものは強いのか、思考があっても乳児期の間の私は本能に従っていた部分が多いと思う。
当時のことをハッキリと覚えていたらよかったのだが、あまり覚えていないのがもどかしい。
だんだんと目が見えるようになって、目に映るものが今までに見たことのないようなものばかりだと気がついた。
煌びやかなものが多く、テレビで流れる昔の外国の建物のような、絵本やアニメで見るお城のような空間で、乳児の私は星が掴めないと分かりながらも手を伸ばすように、天井に手を伸ばしていた。
言葉はすぐに理解することができなかったが、私を覗く人たちが「ローズマリー」、「ローズィー」と言うので、これが私の名前なのだろうと理解することはできた。
「ローズマリー」という言葉は、菜乃華の時にも聞いたことがあった言葉だったので、聞き取りやすかったのかもしれない。
私は誰かに、私は菜乃華だということを訴えたかったが、私の元に訪れる人たちがどこの言葉を使っているのかすらわからなかったので、「あう、あう」しか言えなかったのが苦しかった。
そんな私を見て、みんなが笑顔になることが私は不服だったのを覚えている。
だが、だんだんと言葉を覚えられ理解できるようになる頃には、今の生活も悪くないなと思うようになっていた。
私はその頃、家族に「私がローズマリーになる前は糸杉菜乃華という子で、かけっこが好きだったのよ」と言っていた。
家族は、そんなふうに言う私を茶化したり否定することはなく、私の言葉を信じて受け入れてくれたことが嬉しかった。
両親は笑顔に溢れ仲が良く、二人の兄は私をかわいがってくれた。
伯爵家の娘として礼儀作法や教育はきちんと教えられたが、私はアスター家の末っ子として、皆に愛されてすくすくと育った。
菜乃華の記憶がジャングルジムで転落して途絶えたことから、ローズマリーの私も活発ではあったが、もう高いところに登ったり、無理な遊び方をすることはしなくなった。
死んでから辞めるなんて遅いが、高いところに登ることが死に繋がるだなんて菜乃華のときには考えていなかったので、仕方がないのかもしれない。
お父様とお母様が、家族の出来事を本にしてくれていて、私はそれを読んでもらうのが大好きだった。
その本は、お父様とお母様が生まれたところから始まっており、二人がどう出会って結婚し、家族になったのかがはじめの方に書かれている。
お父様とお母様の話を読むことも好きだったが、私は、私について書かれているところを読むのが大好きだった。
そこを読むと家族だけでなくいろんな人からの愛情を感じ、嫌なことがあった日でも本を読めば笑顔になれたので、本は私のお守りだった。
私はお父様とお母様のおかげで本を読むことが好きになり、いろいろな本を読むようになった。
菜乃華のときは読んでも絵本だったので、これはお父様とお母様のおかげと言えるだろう。
自国の本だけでは飽き足らず、隣国の本を読むようになりしばらく経った頃、私はとある本と出会った。
その本との出会いは衝撃で、薄くなっていた菜乃華の記憶がバンっと頭の中で駆け巡った。
その本には、日本語が書かれていたのだ。
私は日本語を読んでいると自然と涙が込み上げてきた。
その出来事をすぐに家族に伝えると、お父様とお母様が、日本語の本をたくさん集めてくれた。
私はすごく嬉しかった。日本語の本をたくさん集めてくれたお父様とお母様からの愛情を感じただけでなく、日本語の本があることで、菜乃華だった頃の人生がちゃんとあったと自信を持って言うことができたからだ。
ローズマリーとして生きている年月が長くなればなるほど、菜乃華としての記憶はどうしても薄れていってしまい、日本語を脳内で反芻したりたまに書いたりしていてもどうしても忘れてしまうことが多かった。
4歳だと平仮名が読めて書けるという段階だったので、その頃の記憶だけで日本語をキチンと覚えておくというのは難しかった。
私は、お父様とお母様が集めてくれた日本語の本の中から辞書を見つけ、日本語の勉強を頑張った。
ただ不思議なことに、これだけたくさんの日本語の本が集まっても、日本という国がどこにあるのか、どの国で日本語が使用されているのかが全く分からなかった。
そんな中でも日本語の書かれた本をたくさん集めてくれたお父様とお母様は、相当頑張って集めてくれたのだと思う。
私が勉強して覚えた日本語を、家族は聞きたいと言ってくれ、食事の時間にその日覚えた日本語を披露するということが日課となっていた。
そしてお父様とお母様は、いつか日本語を話す人たちを見つけ出し、日本という国を探し、家族みんなで旅行へ行こうと言ってくれた。
私はそんな日が訪れることを願いながら、毎日、日本語の勉強を頑張った。
だが、その願いが、私の思っていたカタチとは違う方法で叶ってしまうとは、この時の私は思いもしなかった。
*
私は日本語だけでなく、様々な勉学を怠ることはしなかった。
音楽やダンスにも真剣に取り組み、礼儀作法をしっかりと身に着けた。
もちろん、体を動かすことは幼少期───前世から大好きだったため、私はお兄様たちから乗馬を教わった。
私は馬とのコミュニケーションを大事にし、お世話を毎日欠かさずにおこなっており、馬をとても愛していた。
誰よりもいい成績をおさめ、乗馬を心から楽しんでいた。
野原を馬と駆け回っているときは、馬と自然と一体になれた感覚がし、私のリフレッシュとなっていたので、驕りすぎていたのかもしれない。
それは、よく晴れた日のことだった。
遠くの方の空には分厚い雲があったが、天気がすぐに荒れることはないだろうと思ってしまっていた私は、数日勉強漬けだったこともあり、リフレッシュをしたいと馬と野原を駆け回ることにした。
机に向かっている時間が長かったためか、頭が凝り固まっている感覚があったのだが、野原を駆け回り自然の空気を吸うことによって、頭の中がだんだんと解きほぐされていっているような気がして気持ちが良かったのを覚えている。
しばらく野原を駆け回っていると、ポツポツと雨が降ってきた。
私は急いで帰ろうとしたが、雨は突然に勢いを増して私たちに降りかかってきた。
すると、馬が暴れだしてしまった。
私の乗っている馬は雨が苦手だったが、小雨のときにはいつも冷静さを保ってくれていたので、暴れだしてしまうとは思ってもいなかった。
突然、勢いよく雨が降ってきたことによほど驚いたのだと思う。
それか、いつもすごく我慢をしてくれていたのか。どちらかは馬に聞かないとわからないことではあるが、私は馬をなだめようと頑張った。
だが、私の言葉が全く耳に入らないみたいだ。
馬は前足を何度も上に上げ、私は振り落とされそうになってしまう。
それでもなんとか振り落とされないようにと、私は手綱をしっかりと握り続けていた。
それが何回か繰り返された後、馬はバランスを崩してしまい、背後から倒れてしまう。
私は、運悪く大きな石に体を打ち付けられ、馬の下敷きとなってしまったのだった。
その瞬間、全身に痛みが走り、そして私の記憶は途絶えてしまった。