第八部 スコットランド
JR岐阜駅から電車を何度か乗り継ぎ、羽田空港に到着したのは出発から三時間後の午前九時過ぎだった。夏休み前の七月上旬だからか人の数もそれほど多くなく、航空券が早く確保できたのもそれゆえなのだろう。
浦辺は腕時計を確認した。
ヒースロー空港行の便が出発するのは午前九時二十五分。
浦辺とイザベラは空港内の喫茶で時間を潰すことにした。
「浦辺さんって強いんですね」
「え?」
「今朝はびっくりしました」
咄嗟になんのことか分からなかった浦辺は、少しの間があってから持っていたコーヒーカップを置いて苦笑を浮かべた。
「本当はあんなことしたくなかったんですが、あの連中が話し合いで解決するような相手ではないと悟って、つい手が出てしまいました。どうも昔から、ああいう輩は好かないものでしてね。乱暴なところをお見せして申し訳ありませんでした」
「いえ、むしろ助けて頂いて感謝しています。あれはその…日本発祥の護身術かなにかですか?」
「空手と言います」
「カラテ?」
「古来の沖縄から伝わる歴史的な武術です。護身用だけじゃなくスポーツとしても有名で、海外でも幅広く知られている武道です」
「浦辺さんが独学で習得されたんですか?」
「いえ、高校の頃に無理やり連れていかれた道場で鍛えられました」
「無理やり、ですか」
「ええ、まぁ…」
と、浦辺はまた苦笑した。身の上話になると照れ臭くなって無意識に苦笑いしてしまうのが浦辺の癖だった。
極力、自身の生い立ちについては語ろうとしないのだが、なりゆきでその話題に触れられた場合、吹っ切れて自ら口を開いてしまうのも同じく癖だった。
「周囲からは意外に思われるんですが、高校時代は問題児で両親や恩師にも度々迷惑をかけていました。それで、見兼ねた父が精神を鍛え直させてやる、と知り合いが経営する道場に無理やり僕を入門させたんです。面倒臭がりだった僕は断固拒否したんですがね、気付いたときには空手道にすっかりハマってしまいました」
「そうだったんですか。私はてっきり、浦辺さんが独学で得たか、少なくとも自主的にその道を選んだのかと思いましたわ」
「さっきも言った通り、その点でも周りから意外に思われるんですよ。どちらかというと僕は面倒臭がりな男でしてね」
「どうして、探偵になろうと思われたんですか?」
「まあ、色々ありましてね」
と、浦辺は誤魔化すような笑みを浮かべ再びカップを持った。
聞いてはならなかったような気がし、イザベラはそれ以上聞かなかった。
その後、二人は定刻通り九時二十五分に羽田を発ったANAの国際便に乗ってイギリスのヒースロー空港目指して飛んだ。
所要時間十五時間十分のフライトで、日本とイギリスの時差は約九時間なので到着したときの現地時刻は昼の十五時十分ということになる。
飛行中、浦辺は目を閉じぼんやりと今回の件について考えてみた。
地元の人間や遠い土地から訪れる依頼人も時折いたが、今回は初の外国人がわざわざ訪れて来た。
これだけでも充分特別だが、さらにその内容がこの世に存在するはずのない空想上の生物、グリフォンを見付けてほしいというものだからこれまた驚きである。
未経験の事案に、浦辺はかすかな高揚感を抱いていた。
ただ、彼女には具体的に明言していないものの、浦辺はまだグリフォンの存在に懐疑的だった。
彼女がウソを言っているとは思っていないが、現時点でその存在を認めるわけにはいかなかった。
今回、探偵業初の海外出張を引き受けたのも、あくまで依頼主の依頼を尊重するためのジェスチャーに過ぎなかった。
浦辺は横で窓の外を眺めているイザベラを見た。
(もし、僕がまだグリフォンの存在をハッキリ認めたわけではないと知ったら、彼女はショックを受けるだろうか)
次に浦辺は、彼女が出発してから片時も手を離さないグリフォンの卵に視線を落とした。
そういえば、飛行機に搭乗する前の手荷物検査で、不審物として係員に止められるのでは、と浦辺は危惧した。近頃は巧みな方法で食品に麻薬を詰め込み密輸する組織も蔓延っており、より検査も厳重になっていたからだ。
しかし、不思議なことに検査はスムーズに進み、二人は係員に呼び止められることなく通された。
(偶然、事務所に辿り着いたという彼女の話も含め、さっきのもグリフォンの卵による力かなにかなのだろうか?)
浦辺は混乱してきた。
グリフォン云々の時点から既に信じられないことなのだが、何故か全てがウソだと断定することも出来ない。
複雑な事案になりそうだ、と浦辺は思いながら目をつむった。
イギリスのヒースロー空港には、定刻より少し早めの十五時二十五分に着いた。
久しぶりの空の旅を満喫した浦辺だったが、時差ボケの影響かかすかに頭がぼんやりする。
空港から外に出ると、浦辺は思い切り深呼吸した。異国の地に降り立つのは、旅行でアムステルダムの地を踏んで以来だったが、やはり日本とは異なる空気の味がする。
ヒースロー空港到着後、二人は乗り継ぎ便を使ってエジンバラ空港へ飛ぶ予定になっている。ここへ来るのに利用した便と乗り継ぎで向かう目的地まで飛ぶ便を運行する航空会社は同じなため、ヒースロー空港のチェックインカウンターで二人は簡単に搭乗券を得ることが出来た。
一時間二十分後、浦辺とイザベラは十六時四十五分発の乗り継ぎ便に搭乗。約一時間半のフライトで、最終目的地のエジンバラ空港に到着した。
イギリスはイングランド、ウェールズ、北アイルランド、スコットランドという四つの国で構成された連合国であり、浦辺はエジンバラ空港に到着した時点で、厳密にはスコットランドという一つの独立国に入国したことになる。
長い飛行機での旅ですっかり体が鈍ってしまった浦辺は軽く体をほぐしてから時計を見た。
現地時刻で十八時十分。ほぼ定刻通りの運行だった。
突然、イザベラが人混みに向かって手を振った。
雪崩のような人混みに紛れて、白髪交じりだががっちりとした貫禄のよい体格をした老人が、同じく手を振りながら駆け寄った。
「ただいま、パパ」
「おかえり、イザベラ。日本では大丈夫だったか」
「ちょっとトラブルがあったけど、この人が助けてくれたの」
と、イザベラが浦辺を見て言った。
簡単な英語しか理解していない浦辺はじっと二人の会話を眺めていたが、唐突に自分が示されて思わず身構えた。
「…これがお前の言っていた男か?」
「そう。探偵の浦辺さん」
イザベラとノアがまた英語で話し始め、浦辺は取り残されたがすぐにノアが神妙な顔で握手を求めてきた。
それに応じ浦辺も手を差し出した。
「娘の無茶な頼みにも関わらず、来てくれて感謝する」
イザベラほどではなかったが、しっかりと聞き取れる日本語でノアが言ったので、浦辺は少し驚いた。
「言い忘れていましたが、父も日本語が話せるんです」
「それほど上手くはないがね。随分昔に習ったんだが、まさか今になってそれが役立つ日が来るとは思わなかったよ」
「助かります。自分は英語がてんでダメなもので…。不甲斐ないです」
と言い、浦辺は髪をかいた。
ノアは、二人を空港の外に停められていた車まで案内した。いかにもガタイのよいノアが乗りこなしていそうな黒いジープだった。
後部座席に二人が乗り込むのを確認し、ノアは発進させた。
空港から離れて間もなくしたとき、ノアが口を開いた。
「ここからはわしのジープで約三時間は走ることになるから、眠りたかったら好きに眠ってもらっても構わないぞ」
「三時間…結構あるんですね」
浦辺は驚いたが、ノアは事務的な口調を変えず、
「なにせ、スコットランドの南西部目指してひたすら走り続けるわけだからな。長い飛行機の旅でぐったりしているかもしれんが、我慢してくれ」
「オーバンにも空港があって、そこに着ければもっと早くロッジには到着するんですけどね」
と、イザベラが言うとノアが苦笑し、
「生憎、オーバンはヒースロー空港からの国内線で就航都市として含まれていないがね。仮に含まれていたとしても、オーバンでは降りられない」
「何故ですか?」
「わしらにとって、今のオーバンは危険なんだ」
と、ノアが言った。
オーバンはノアとイザベラが食料の買い出しに訪れる街だったが、何処でそれを知り得たのか例の暴力的なローガン率いる狩猟団が、以前買い出しの最中だった二人の前に現れたのだ。
そして、ロッジで尋ねた質問と同じことをしつこく問い質してきたという。
「あのときはなんとか難を逃れることが出来たが、それ以降も連中は原野に現れてはしつこくわしらに獲物のことを問い質したり、無闇に猟銃をぶっ放して威嚇したりしている。そのたびにイザベラが怯えるもんだから、わしはそろそろ我慢の限界を越えそうなんだ」
と、ノアが苦虫を噛み潰したような顔で言った。
狩人に偏見を抱くわけではないが、珍しい生き物に対する執着心が人一倍の連中は、森の上空を飛び回る得体の知れない正体を探ろうと、必死に秘密を知っていると思われるノアとイザベラに詰め寄っているのだろう。でなければ、ここまで執拗に迫るはずがない。
なるほど、抜かりのない情報網を掴む連中のことだ。イザベラが不思議な卵を持ってイギリスを発ったという情報も事前に入手しているかもしれない。
となると、帰国を見計らってオーバン空港に待機している可能性も充分あり得るだろう、と浦辺は納得した。
「イザベラ。くれぐれも用心するんだぞ。あいつらはわしらの所へまた必ずやってくる」
「分かってるわ、パパ」
「あの…」
浦辺が小声でイザベラに囁いた。
「グリフォンのこと、ノアさんはご存じなんですか?」
「はい、卵のことがあってから素直に打ち明けましたわ。森で『彼』を治療したことや何度かロッジを抜け出して森まで会いに行ったことも」
(それを父親は信じたのだろうか?)
浦辺はそれを聞きたかったが、無論彼女の前で尋ねられるわけがなかった。