第四部 危険な訪問者
森での出来事を、イザベラはノアに打ち明けなかった。父親がその存在を認めるはずがないと思えたし、留守の間に勝手に森へ出向いたことを知られては、こっぴどく叱られてしまうと判断したからだ。
イザベラは、ノアが用事でロッジを留守にする際、彼に黙ってこっそりと森のオアシスへと向かった。グリフォンに会いに行くのが楽しみになったからだった。
それは、グリフォンの「彼」も同じだった。
オアシスを根城にしている「彼」は、彼女が現れると再会を喜ぶように頬ずりした。
気品に溢れるグリフォンの可愛らしい一面を見るたびに、イザベラは「彼」に魅力を感じていた。
一ヶ月が過ぎた頃にイザベラが包帯を解くと、傷跡は残っているが腿の怪我はすっかり完治し出血も治まっていた。
元気を取り戻した「彼」にイザベラは「森を案内するわ」と言った。
「彼」は最初、何故か躊躇うような仕草をしていたが、すぐに彼女の誘いを受け入れた。
それ以降、イザベラは暇さえあれば「彼」と一緒に森の中を散歩したり、父親やこれまでの生活について話したり、木漏れ日が降り注ぐ深い森で眠りについたりした。ときには「彼」の美しい翼と羽の手入れもしてあげた。
「彼」が自らイザベラを背中に乗せ、原野の空を飛んで楽しませてくれたこともあるなど、お互いに幸せな時間を満喫した。
それが長続きした頃になると、イザベラにとって「彼」はもはや離れられない存在になっていた。
彼女にとってグリフォンとは、子どもに神話を聞かせるときだけに出てくる空想上の生物ではなかった。
次第にイザベラは、「彼」に特別な感情を抱くようになった。
しかし、それから三ヶ月が経ったある晩、イザベラとノアが食事を摂っているとき、森の方から銃声が轟いた。
イザベラはハッとし、窓から森の方を見た。
この日は月夜で森の木々も月光に照らされてかすかに確認できたが、無論奥の状況までは分からない。
「こんな暗い時間にハンティングとは、危険知らずな連中もいるものだな」
と、ノアが呆れた口調で言った。
「ハンターがこんなところまで来るなんて…」
「気にすることないぞ、イザベラ。連中が仲間を獲物と間違えて撃ってしまったとしても自業自得だ。こんな時間に狩猟に出かけようと考えるのが間違いなんだからな」
ノアは相変わらず吐き捨てたが、イザベラが心配しているのはもちろんそのことではなかった。
「彼」の身が心配だった。
「彼」は以前、イザベラを背に乗せ空の旅を楽しませてあげたことがあった。その様子を、何処か遠くから狩人が見ていたのではないのか、という不安がイザベラの頭に過ったのだ。
興味本位で空を飛ぶ物体の存在を確かめたハンターが、それが実在するはずもないグリフォンと知った途端、大抵冷静な判断力が保てなくなるのではとも思った。
同時に、確実に討伐してみるという決意を胸に「彼」を狙うのではないだろうか、とも。
イザベラはいても立ってもいられなくなり、ロッジを飛び出した。
驚いたノアが背後から追いかけてくるのに気付きつつも、イザベラは構わず森へ向かった
夜の森へ入るのは初めてだった。「彼」と逢瀬を重ねるのは基本的に明るい昼頃であり、ノアが帰宅する頃や夕暮れが迫った頃には必ず森を離れていたからだ。
見慣れない不気味な森の中を目の当たりにしたイザベラは最初こそ怯えたが、ハンターに追われる「彼」の姿を想像し恐怖心を吹き飛ばした。
とにかく、「彼」の安否だけが気がかりだった。
暗い森をひたすら走り続けるイザベラは、ようやく「彼」と運命的な遭遇をしたあのオアシスに到着した。
しかし、静寂だけが支配するオアシスに、「彼」の姿はなかった。
イザベラが動揺していると、再び銃声が轟いた。それも、一度ではなかった。
続けざまに起きた銃声に、イザベラは胸騒ぎを覚えた。
反射的に足が動き、イザベラは別の場所を確かめに向かった。
イザベラは「彼」と散歩で訪れた場所を目指して、何度も転びそうになりながらも走り続けた。
しかし、その何処にも「彼」の姿は見当たらなかった。
次第に憔悴したイザベラは、一旦深呼吸を繰り返して辺りを見回した。そして、樹葉の隙間から降り注ぐ月光に照らされた足跡を見付けた。
見覚えのあるその足跡は一直線に向かって続いており、呼吸を整えたイザベラは足跡に沿って歩を進めたが、やがてそれは途中から途切れていることに気付いた。まるで、助走をつけた後に飛び立ったかのように。
(飛んで逃げたんだわ)
ハンターに追われていた「彼」は、無情な銃弾の雨から逃げ延び、空高く飛び去ったのだ。
そう確信したイザベラはホッと胸を撫で下ろし、その場に膝を突いた。
背後からガサゴソと音がしイザベラはドキッとしたが、荒い息遣いを立てたノアだった。
ロッジを飛び出したイザベラを必死に追ってきたため、足取りが覚束無かった。
「まったく、お前ときたら…」
「ごめんなさい、パパ」
「夜の森は危険だと前から言っていただろう? これからは、こんな無鉄砲な行動は慎むんだぞ」
と、ノアは息継ぎを繰り返しながら言った。
疲労困憊したノアは地面の足跡には気付かず、今にも倒れそうな体をイザベラに支えられながらロッジへ連れられた。
ロッジに到着し、中途半端だった夕食を終えてから二人は床に就く準備をした。その際、イザベラは窓から暗い森を一瞬見つめ、もう一度「彼」の無事を祈った。
二人がそれぞれの寝床へ移ろうとしたときだった。
突然、誰かが激しくドアをノックした。木製のドアが今にも蝶番を壊して倒れてきそうなほど乱暴で激しいノックだった。
こんな夜遅くに誰だろう、とノアとイザベラは互いに不安で満ちた顔を見合わせた。その間にも、木製のドアを叩くノックの音は激しくなるばかりだった。
ノアが恐る恐るドラを開けると、四人組の見慣れない男たちがいた。
「なんなんだ、君たちは?」
ノアが努めて冷静に尋ねると、いきなり先頭の男が持っていた猟銃を向けた。
イザベラが思わずノアの寝間着を掴んだ。
「なにをするんだ、危ないだろう!」
「喚くんじゃねぇ。おとなしく質問に答えてくれれば、危害は加えない」
と、猟銃を構えた男が、人情の欠片も感じられない冷徹な語調を込めて言った。
「…さてはお前たちだな。こんな時間に森で銃をぶっ放していた非常識なヤツらは?」
と、ノアが非難した直後、男がいきなり持っていた猟銃の銃身で、ノアの腹部を殴打した。
イザベラが悲鳴を上げ、くずおれたノアを助け起こした。
「質問を受け付けると言った覚えはねぇ。俺たちが質問をするんだ」
「なにをするのよ、いきなりっ」
イザベラが毅然とした態度で男に迫った。こみ上げる恐怖と父親に対する暴力を目の当たりにした怒りで、体は小刻みに震えていた。
そんなイザベラを、男はまるで値踏みするような目付きで見つめ、彼女の体を上下に見やった。
「こんな辺鄙な土地には似つかわしくないべっぴんだな」
男がなぞるように長いブロンドに触れたが、イザベラはそれを手で振り払った。
「…なんの用で来たのか言ってちょうだい」
押し殺した声でイザベラが言った。
男はフンッと鼻を鳴らしてから、
「ここ最近、あの森の上空を得体の知れない生き物が飛び回っているのを目撃してね。正体を探ろうとこの辺を周っているんだが、なんの手がかりも得られない。それで、ここに住んでるあんたらならなにか知ってるんじゃないかと思って来た次第さ」
と、言った。
表には出さなかったが、イザベラは心の中で動揺した。
以前、イザベラは「彼」の背中に乗って、原野の空を飛んだことがあった。恐らく、この男たちは偶然それを見たに違いない、と瞬時に悟ったからだ。
「…なにも知らないわ」
と、イザベラは心の動揺を悟られまいとハッキリ言った。
「本当か?」
男がグッと顔を近付けてきた。野生動物と接するうちに嗅ぎなれた獣に近い臭いがしたが、こちらは不快感を催す臭いだった。
「本当だ、わしらはなにも知らんっ」
ノアが腹の痛みに耐えながら言った。
男は疑惑に満ちた瞳で、イザベラとノアを交互に見た。
数秒の沈黙が流れた後、背後の男たちが口を開いた。
「白状するまで締め上げたらどうッスか?」
と、肥満体の無精髭が言ってから、
「痛め付けてでも吐かしてみせますぜ」
と、テンガロンハットを被った鋭い目付きの男が言った。
「ちょ、ちょっと待ちなよ。ローガンさん、二人とも本当に知らないのかも…」
と、四人組の中では小柄な男が、男たちをなだめるように輪に入った。が、先頭のリーダーらしき男にキッと睨まれると、小男はビクッと身震いし押し黙った。
ローガンと呼ばれた男はフーッと息を吐き、
「とりあえず今日は引き揚げる。…が、俺たちは正体を掴むまでは諦めないからな。また来るぜ」
と、ローガンは言い残すと、背後の三人を連れて引き揚げて行った。