第三十四部 森へ
浦辺が帰国してから半年後、イザベラたちの生活は大きく変化した。
今回の出来事で自身の体力が衰えていると嘆いたノアは、高齢を自覚しつつもなにか仕事に就こうと思い立ったが、そうそう簡単には見付からなかった。
そんなとき、セバスチャンが知り合いの伝手を頼りに肉体労働の職を提供してくれた。それには、あの一見以降ノアたちに遠慮がちな態度を示すようになってしまったセバスチャンの、せめてもの罪滅ぼしの意味も含まれていた。
オーバンに勤務地を構える経営者は、当初ノアが老齢ということで躊躇したが、ノアが牧場主だった頃に培った自慢の腕力と人並み以上の体力を見せつけた途端、相手は心地好く採用してくれた。
持ち前の腕っ節を発揮したノアの労働力は業務の効率化を生み、瞬く間に彼は職場の若い衆に慕われる存在となった。
ノアの娘、イザベラも同じくオーバンで店を構える酒場の看板娘として働き始めた。
きっかけは、ノアとオーバンで食料の買い出しに出かけた際に、長髪のブロンドをなびかせるイザベラの美しさに惹かれた店主にスカウトされたことだった。
ノアは、酒場はゴロツキが集まりやすい場所だと断固として反対したが、イザベラは父親の反対を押し切って働きたいと主張した。彼女なりの大人への一歩を踏み出すのに相応しい仕事という認識があったからだった。
イザベラもまた、瞬く間に酒場の人気者となった。スカウトした店主が見極めた通り、酒場の客は彼女の容貌に見惚れて次々と来店し、常連客たちは普段以上に店へ足を運ぶようになった。
初めての接客業で緊張感を抱いていたイザベラも、次第に仕事にも慣れ従業員や常連客たちとも打ち解け始めていた。
だが、ノアが危惧していた事態も起きた。
酒に酔ったガラの悪い男たちがイザベラを口説いたり、体に手を触れたりといかがわしい行為を働いたのだ。仕事に差し支えるため、イザベラはブロンドの長髪を後ろに束ねているのだが、それを無理やり解かれたこともあった。
接客業ということもあるが、元々が引っ込み思案なイザベラは強気に出られずされるがままに対応していた。
そんなときは大抵気の強い仲間の従業員や、親しくなった常連客の男たちが止めてくれていた。
ロッジに帰ってから大きなため息を吐くたびに、イザベラは労働の大変さを実感させられた。幸いにも、酔った勢いで不貞を働くガラの悪い男たちの他に、仕事でうんざりさせられることはなかった。スカウトした店主も一緒に働く従業員たちとの仲も良好だったため、イザベラは辞めたいと思ったことはなかった。
ある日、働いているイザベラに告白する男が現れた。
その男は仕事の都合でオーバンに訪れた青年で、たまたま店の前を通りがかった際に中で働いているイザベラの姿を目撃し一目惚れしたのだ。
イザベラよりも少し年上の青年は、紳士の国イギリスを象徴する物腰の柔らかさと実直な姿勢、そしてキリッとした出で立ちで、イザベラも無意識にだが魅力を感じていた。
青年はイザベラが仕事を終えた時間を見計らい、いきなり彼女にプロポーズした。
しかし、イザベラは「ごめんなさい」と、丁重に断った。
それでも青年は執拗に迫ったが、そんな彼にイザベラはハッキリと言った。
「好きな人がいるんです」
その言葉を聞いた青年はショックを受け、二度と彼女の前に姿を現さなくなった。
純粋な相手の心を傷付けてしまったこととウソを吐いたことで、イザベラは感傷的になってしまった。彼女が愛して止まない者は「人」ではなかったからだ。
もう会えない「彼」のことを思い浮かべたイザベラの心に、
(また会いたい…)
という気持ちが甦った。
イザベラが青年を振ったと知るや否や、数人の男たちが揃いも揃って彼女を口説きに現れたが、いずれもイザベラは同じ台詞で断った。
「店の子でこんなに口説かれた子は君が初めてだ」
と、酒場の店主は感心したが、イザベラは複雑な想いだった。断るたびに、相手の気持ちを踏みにじってしまったという自己嫌悪に陥っていたからだ。
既に習慣となっていた浦辺宛てに送っている手紙にもこの体験を綴ったが、彼は文字を通して真摯に彼女の相談相手になってくれた。それが、イザベラにとって心の支えだった。
イザベラが酒場で働き始め、看板娘として人気者となったこと、人柄のよい店主と優しい従業員たちに支えられながら仕事に励んでいることを記すと、浦辺はまるで自分のことのように喜びの感情を込めた文章で返事をくれた。タチの悪い男たちの相手で意気消沈したときも、浦辺は兄のように助言を添えた励ましの文章を綴ってくれた。
仕事以外だと基本的に日常の内容を記したものが大体だが、イザベラにとって手紙を書くのも楽しい時間の過ごし方だった。他愛ない内容であればあるほど、遠い異国にいる浦辺とすぐそばで会話を弾ませているような気持ちに浸れたからだ。
浦辺も同じ気持ちなのか、最近ではフランクな文章でイザベラに返事を書いてくれた。
手紙を通じてより親密感を抱いたイザベラは、その日も思った。
もう一度会いたい…と。
…そう、「彼」と同じぐらいに。
手紙を書き終えたイザベラは浦辺との再会を願いながら目を閉じた。
そのとき、一緒にリビングにいたノアがイザベラに声をかけた。
「酒場での仕事はどんな調子だ?」
イザベラは目を開けると微笑を浮かべた。
「まあまあ慣れてきたわ。ちょっと面倒臭いお客もたまに来るけど、従業員の友だちや常連の人が助けてくれるから安心して頑張れる。パパはどう?」
「わしもようやく馴染んできたよ。職場の若い衆ときたら、わしよりも断然年下のくせにヘッピリ腰の集いでな。肉体労働で必要不可欠な精神力と忍耐力を鍛える見本として、上がわしに模範となってくれと頼んできた」
「パパの指導付きだなんて、その人たちも可哀想ね」
「冗談はよしなさい」
と、ノアは笑ったが、すぐにその笑いを引っ込めて真剣な目でイザベラを見た。
「それはともかく、お前に一つ尋ねたいことがあるんだが」
「なあに?」
「『彼』とはどうなったんだ?」
「え?」
「『彼』だよ、お前の夫の。浦辺さんが帰国してからまったく森へ行っていないし、話題にもしなくなったじゃないか。まさか痴話喧嘩でもしたのか?」
「それは…」
イザベラは言葉に詰まった。
イザベラはルミウスと永遠の別れを果たしたことをノアには打ち明けていなかった。娘の自分を誰よりも想う父親がその事実を知った瞬間、相手にどんな事情があれきっと怒りを露わにして「彼」を罵倒するような気がしたからだ。
それだけは耐えられなかった。だから、イザベラは今でも「彼」が森を住処にして卵の世話をしていると誤魔化していたのだ。
彼女の言葉を鵜呑みにしたノアは、何故か娘がまったく森へ行かなければ話題にすら出さなくなったのを不審に思い尋ねたのだろう。
イザベラが言葉を詰まらせていると、ノアは深いため息を吐いた。
「いつかお前が、わしに婿を紹介してくれるのを待っているんだがな」
その言葉にイザベラの胸が疼いた。
ノアはルミウスを婿として迎えるのを望んでいた。例え、それが人間ではなくグリフォンであろうと、娘の幸せを誰よりも切に願うノアは「彼」に自分を紹介される日が来るのをずっと待ち焦がれていたのだ。
イザベラは益々戸惑った。
森でグリフォンと出会い子どもを授かったことを、イザベラはノアにしっかりと伝えた。
ノアは娘だからと言ってそれを信じた。
しかし、「彼」と夫婦になると誓うことについては恐らく許してはくれないだろう、とイザベラは思っていた。だが、ノアから発せられた言葉はまったくその逆を示していた。
父親の予想外な気持ちを知ったイザベラは困惑顔のまま目を泳がせた。
「まさか、わしと母さんみたいにーー」
「ち、違うわ。今、卵の世話で大変だから邪魔しないようにしているだけよ」
と、イザベラは慌てて遮った。
母親の話題を持ち出した途端、ノアがなにを言おうとしたのかをイザベラは察知した。喧嘩別れではないが、お互い離れ離れになっていることには違いないからだ。
なんとか誤魔化したイザベラだったが、すぐにまた苦悩してしまった。
「彼」を婿として迎え入れたいというニュアンスを語調から感じ取った彼女は、このまま事実を伏せて騙し続けていいのだろうか、という念に囚われたからだ。
信じたかどうかは定かではないが、ノアは納得したように頷くと娘の頭を撫で、寝床へと移動した。
結局、事実を打ち明けられないままイザベラも床に就いた。
翌朝、イザベラは目を覚まし体を大きく伸ばしたが、すぐにまた昨日の悩みが甦った。
このまま父親にウソを吐き続けて、叶いもしない願いをずっと抱かせたままでいられるのは耐えられない。しかし、事実を打ち明けたらそれこそ父はガッカリするかもしれない。
イザベラは身を起こすと、窓から広大な原野を眺めた。
ぼんやりと考えにふけっているときだった。
森の方からけたたましい咆哮が轟いた。
(朝から活発な動物がいるものね…)
と、イザベラは苦笑を浮かべた。
だが、少しして彼女の表情に変化が現れた。
イザベラは慌てて耳を澄ませた。
咆哮は二度、三度と続いた。さらに、原野を吹いていたそよ風が閉まった窓をガタガタと鳴らすほどの強い風に変化した。
四度目の咆哮が聞こえた。
今度は大地が震えたような気がした。
彼女にとって忘れようにも忘れられない雄叫びだった。
(まさか。…いえ、きっと違うわ)
イザベラは首を振って冷静になった。そう、きっと思い過ごしだ、と。
だが、そんな彼女を否定するかのように五度目の咆哮が轟いた。
…誰かを呼んでいる。
心から会いたくて仕方がない相手に向けているかのような力強さを備えて…。
イザベラはガバッと毛布を退かすと急いで着替え、ロッジを飛び出した。
わずかな希望を胸に秘め、森のオアシスへと向かった。




