第三部 遭遇
イギリスのスコットランド南西部にある緑豊かな自然が広がる原野。辺鄙なその土地に建てられたロッジで、イザベラと彼女の父親ノアは平凡に暮らしていた。
元々、ノアは牧場主だったが牧場を人手に渡し、それで得た資金で娘のイザベラとともに過ごしていた。
以前までは母親も一緒に過ごしていたが、生活を続けていくうちにノアとの間にわだかまりが生じ、最後は二人を残して独り牧場を出て行ってしまった。ノアが牧場を手放すきっかけに至ったのも、母親との別れがあったからと言える。
イザベラは、両親の諍いに頭を抱えた時期もあったが、今ではノアと平和な暮らしをロッジで送っていた。
ある日、ノアが食料の調達のためオーバンという町へと出かけた後、イザベラは暇を潰そうと原野を散歩しに出かけた。父親が牧場を手放してから随分経つが、ロッジ暮らしを始めた当初からイザベラは自然に囲まれた原野を気に入っていた。引っ越して以降、暇があれば散歩に出かけるのが日課でもあった。
鳥のさえずりや風に揺られる木々の音を聞きながらイザベラが当てもなく散歩をしているとき、森の方から聞き慣れない獣のような咆哮を耳にした。時折、森の生物が怪我を負い鳴き声を上げているのをイザベラは知っていたが、今回に限っては普段とは明らかに違う生物が鳴いていた。
鳴き声に導かれるように、イザベラは森へと赴いた。
まぶしいほどの陽光が照り付ける昼間にも関わらず、森の中はかすかな日差しが注ぐだけの薄暗い場所で、どんどん奥へと足を踏み入れるごとに、暗さも増していくような気がした。
お気に入りの原野に広がる森も好きで、ノアと一緒に行ったこともあるが単独で足を踏み入れたのは今回が初めてだった。
滅多に足を踏み入れないイザベラはいささか不安を募らせながらも、鳴き声がする方向へと一歩一歩、慎重に足を進めて行った。
やがて、わずかな木漏れ日のみが注ぐ薄暗い道を進んでいたイザベラは、パッと太陽の光に照らされた場所を視野に捉えた。どうやら、そこだけ樹葉で遮られていないらしい。
例の鳴き声もそこから聞こえると分かったイザベラは、木陰からその場所を覗いた。
そして、絶句した。
草と花が生い茂った広場は円を描くように林立した森の木々によって囲まれ、透明度の高い水に満たされた池と、半分が地面に埋め込まれた大きな岩があるだけの場所だった。いわば、森の中のオアシスと呼ぶに相応しい神々しさを放つ幻想的な場所だった。
そんな神秘的な場所に「それ」はいた。
美しい白い羽が風になびく上半身には鷲の顔と優雅な翼、鋭く伸びた爪、ライオンのように筋肉が引き締まった体から筆のようなフサフサな毛を先端に付けた尻尾が伸びた下半身。
幼少期、ノアがぐずるイザベラをなだめるために聞かせてくれた神話に登場する空想上の生物、グリフォンだった。
イザベラは我が目を疑ったが、目の前で苦悶の鳴き声を上げているのは紛れもなくグリフォンそのものだった。
よく見ると、腿辺りから出血しているのが確認できる。
数分間、イザベラは信じられない光景に釘付けになっていたが、我に返るとどうしようか迷い始めた。
牧場主の父と一緒に過ごしていただけあって、生き物を治療する基本的な医療知識は身に付けていた。しかし、相手はこの世に存在するはずのない架空の生物である。しかも、これは全野生生物にいえることだが、迂闊に近付いて危害を加えられるリスクも充分ある。
イザベラがおろおろしている間も、グリフォンは傷口から血を滴らせながら苦しそうに鳴いていた。猛禽類特有の無感情な顔をしているはずが、その表情は何処か悲しげだ。
やがて、意を決したイザベラは木の陰からゆっくりとオアシスに足を踏み入れた。
グリフォンが、彼女の存在に気付き顔を向けた。
威嚇されるかとイザベラは身構えたが、グリフォンはじっと彼女を見つめるだけだった。しかし、その眼差しは敵か味方か不明瞭で確信が持てない不安に満ちていた。
じっと見つめるグリフォンの強い視線に耐えながら、イザベラはゆっくりと近付いた。
やがて、雄々しい鷲の顔を持つ想像上の生き物の目の前まで来ると、そっと手を伸ばした。
さすがに大胆と思ったのか、グリフォンは聞き慣れない鳴き声を上げながら翼を広げ激しく威嚇をした。ただでさえ大きな翼が左右に広がる姿はまさに圧倒的だった。
しかし、イザベラは怖気づかなかった。彼女の心を支配していたのは恐怖や不安ではなく、慈悲だった。
イザベラの手が黄色い嘴から美しい羽で覆われた頬に続いた。
グリフォンが驚きの眼差しでイザベラを見た。
硬直するグリフォンの頬を、イザベラは優しく撫でた。
途端に、グリフォンは広げていた翼を収めると、もっと撫でられるのを望んでいるかのように自ら頬を寄せ始めた。
イザベラはもう片方の手も差し出し、両手でグリフォンの頬を撫でた。
グリフォンも相手に敵意がないことを悟ったのか、瞳から不安の色がなくなった。
「安心して、私はあなたを助けたいの」
と、イザベラはグリフォンに言った。
グリフォンをなだめた後、イザベラは急いでロッジへと戻り、包帯と消毒液を手に戻ってきた。果たして、グリフォンにこの治療が役立つかどうかは定かではないが、今の自分にできるのはこれが精一杯だった。
傷の具合を確かめ、イザベラは応急処置に専念した。
治療中、グリフォンは時々苦痛のうなり声を漏らしていた。何処となく感情の伴うその声も、普通の野生生物とは違うようにイザベラは感じられた。
無事手当てが終わると、グリフォンは包帯で巻かれた腿を確認してからイザベラの方を向いた。気高いハクトウワシの顔を持つグリフォンに見つめられたイザベラは思わず顔を強張らせたが、すぐに表情を和らげて笑顔を向けた。
すると、イザベラの心の中に声が聞こえた。
〈ありがとう〉
イザベラは驚いた。
「今のはあなたの声…?」
グリフォンが頷いた。
イザベラが恐る恐る両手を伸ばすと、それを受け入れるかのようにグリフォンは頭を下げた。グリフォンは、雄々しい嘴を彼女の頬、額に押し当てまるで甘えるような仕草をした。
そんなグリフォンの頬を、イザベラは嬉しそうに撫でた。