第二十九部 母の痛み
長が元の世界へ戻ってから間もなくして、ルミウスの翼に包まれて眠っていたイザベラが目を覚ました
〈おはよう、イザベラ〉
「おはよう。…あら、翼が?」
〈冷えてはいけないと思ってね〉
「ありがとう、あなた」
〈ルミウスだ〉
「え?」
〈私の名前だよ。教えるのが遅くなってしまったが、私の名はルミウスだ〉
「ルミウス…。『輝き』という意味ね。あなたらしい素敵な名前だわ」
と、イザベラが寝起きとは思えないほど爽やかな笑顔を浮かべて言った。
それを見たルミウスはドキッとして胸の奥が火照るような感覚に囚われた。
イザベラは起き上がると、オアシスに漂う神聖な空気を思い切り吸い込み大きく体を伸ばした。それから、池に近付いて屈むと両手で水をすくい顔を洗った。
そんなイザベラの様子を眺めながら、ルミウスは長と先ほど話した内容をちゃんと伝えなければ、と思っていた。しかし、話を聞いたときのイザベラの反応を想像した途端、ルミウスは辛そうな面持ちで目を逸らした。
(私だけでなく子どもとも別れなければならないと知ったら、彼女はきっと涙を流す)
里で勃発している戦争が終息を迎えたとき、安全な場所としてとどまっていたオアシスを離れ元の世界へ戻らなければならないことは、イザベラも既に知っている。イザベラはいずれその日が訪れると覚悟しているから、ルミウスとの別れが迫っても恐らく潔く「彼」との別れを受け止めるだろう。
だが、産まれてから肌身離さず大切に守り続けてきた卵も一緒に連れて行かなければならないと知ったとき、恐らくイザベラは激しいショックを受けるに違いない。
言うか、言わないか。新たな葛藤がルミウスの心を苛み始めた。
「どうしたの?」
突然、イザベラに声をかけられてルミウスはドキッとした。
〈いや、なんでもないよ。…ところで、昨夜言っていた聞きたいことというのは?〉
と、ルミウスが動揺を悟られまいと慌てて言った。内心で勇気を出せず話題を持ち出せなかった自分に腹立たしさを覚えつつ、ルミウスは苦笑を交えて誤魔化した。
「彼」の狼狽に気付かないまま、イザベラはゆっくりとその場に座った。
「私が卵を産んでから、あなたは突然姿を消してしまったでしょう? その理由が知りたいの」
〈それは昨日も話しただろう。野蛮な狩人たちが森に押し寄せてきたから、このオアシスに身を潜めていたのだと〉
「それは聞いたわ。でも、私は出産後にも何度かここへ来たのよ。一人のときもあれば浦辺さんと一緒のときもあったわ。でも、あなたはここにはいなかった。きっとなにか理由があったからだと思っているから責めるつもりはないの。ただ、とても寂しかった」
〈私はずっと森にいたよ〉
「ウソは吐かないでちょうだい」
〈どうして君はそこまでその理由を知りたがるんだ?〉
「あなたの気持ちを知るためよ。あなたが私と子どもを残したまま姿を消してしまう薄情な心を持っていないと私は信じてる。その確信を得るためにも、あなたがどういう理由で私たちの前から姿を消していたのかを知りたいの。私の勝手な想像だけど、もしかして元の世界に戻っていたんじゃない?」
〈…参ったな。さすが私の妻だ、勘が鋭い〉
と、ルミウスが感服した様子でフッと笑った。
「どうして一言でも私に伝えてくれなかったの?」
と、かすかに憤るイザベラをルミウスはなだめてから説明を始めた。
〈君に会いたい気持ちを抱きつつ、狩人に見付からないためオアシスに隠れていたのは事実だ。そのときに群れの長がここへ来たこともね〉
「そのグリフォンの長から私があなたの子を身籠ったことを知らされたのよね?」
〈そうだ。だが、長はそれだけじゃなく私に里で起きている戦争への加勢を命じたのだ〉
「加勢…。それじゃあ、戦争に出向いていたの?」
〈その通り。これも話したと思うが、里の神は侵攻した人間たちの闘争心をいたずらに刺激し新たな戦争を生み出さないため、一時的に里から撤退せよと我々に命じられた。だが、負傷した私がこのオアシスに逃げ延び安全な場所としてとどまっている間に事情が変わったらしい。里の侵攻令を下した国王が軍備の刷新を図り、新たに魔物の討伐を専門とする魔導士たちによって組織された魔法軍を里に派遣した。我々グリフォンやその他の魔物たちにとっては厄介な存在である魔導士たちが大軍となって押し寄せてくることになり、神は急遽一族の者を招集し徹底的な反撃を試みよと命じられた。もはや泣き寝入りすれば里や魔物全てを滅ぼされ兼ねないため、我々は仲間の魔物たちとともに魔法軍相手に立ち向かった〉
「それにあなたも加わったのね」
ルミウスは頷いた。
〈君にはすまないと思っている。しかし、戦争に出向くと言えば君にまた余計な心配をさせてしまうと思って打ち明けられなかったんだ。許してくれ…〉
「ウソでもよかったから一言ぐらいは言葉をかけてほしかった…」
〈すまない…〉
ルミウスは顔を俯かせた。
そのまま動かずにいた「彼」の顎にイザベラは両手を当てると、ゆっくりと顔を上げさせて自分と向かい合わせた。
「でも、嬉しい。それだけあなたが私のことを想っていてくれて」
イザベラは嬉しそうに微笑むと、白い羽で覆われたルミウスの頬を優しく撫でた。
ルミウスの脳裏で、イザベラと初めて出会ったときの記憶が甦った。
怪我を負い、このオアシスで苦悶の叫びを上げていた自身に手を差し伸べてくれたイザベラ。
本来出会ってはならないこの世界の人間が突然現れ驚いたルミウスは、寄せ付けまいと精一杯の気力を振り絞って威嚇をした。
しかし、イザベラは勇敢にも歩み寄って傷の手当てを施してくれた。
〈ありがとう〉
ルミウスが初めてイザベラに発した言葉だった。
心を通じて突然聞こえた言葉にイザベラは心底驚いていたが、すぐに目の前にいるグリフォンの「彼」が発したと理解すると、彼の頬に両手を添えて愛撫した。丁度、今のように。
父親のノアから子守唄の代わりに聞かされた神話に登場するグリフォンをその目で目の当たりにしたときのイザベラは、まさに子どものような無邪気な瞳を浮かべていた。
今、目の前にいる彼女の目もそのときと同じ輝きを放っている。
(今の君は、あのときと変わらないな…)
ルミウスは心の中で微笑むと、あのときと同じようにイザベラの頬、そして額に嘴を当てて甘えた。
しかし、すぐにその顔を逸らせてしまった。
「どうしたの?」
イザベラが不安そうに覗き込むと、ルミウスは顔色を窺われまいと今度は体を動かし、巣に置かれた卵の前で座った。
しばらくの沈黙があってから、彼は口を開いた。
〈私からも君に大切な話がある。ついさっきのことだが、君がまだ眠っているときに群れの長がここへ来た。そして、私にこう告げた。戦争が終わったと〉
「それじゃあ…」
〈私は里に戻らなければならない。そして掟通り、二度とこの世界へは訪れることはないだろう。長のお心遣いで今日一日は君と過ごせる許可を得られたが、明日の朝にはここを発たなければならない。そのときが、君との別れのときだ〉
「そう…。とうとうこの日が来てしまったのね」
と、イザベラは落胆したが取り乱しはしなかった。
いずれ訪れるであろう別れの日が来るのを覚悟していた彼女は、グッとルミウスの今の言葉を受け止めた。
しかし、彼女にはもう一つ言わなければならないことがある。
それを聞いたとき、彼女は今みたいに冷静でいられるだろうか…?
不安を抱きつつもルミウスは再び口を開いた。
〈それからもう一つ、落ち着いて聞いてほしいんだが…〉
「なに?」
〈…この子も、私たちの里へ連れて帰らなければならない〉
と、ルミウスは巣に置かれた卵を見下ろしながら言った。
「………」
反応は無かった。
振り返ると、人形のように固まったイザベラが愕然とした顔で見つめていた。
無理もないだろう、とルミウスは思った。彼女に限らず、腹を痛めて産み落とした子どもとの別れにショックを受けない母親など存在するはずないと分かっていたからだ。
イザベラが首を左右に振りながらルミウスに迫った。
「そんなの絶対にイヤッ! どうしてその子まで私から引き離すのよっ」
〈君の気持ちはよく分かっているつもりだ。しかし、考えてほしい。その子は君と私の子、つまり人間とグリフォンとの間に産まれた子だ。人とグリフォンが交配し子を成したのは私たちが初めてだが、間違いなく卵の中の子は私と同じグリフォンの幼体の姿で産まれてくる。その場合、我々が存在しないこの世界で孵化させるわけにはいかないんだ〉
「ここで孵化させるなら構わないでしょう? このオアシスはグリフォンを信じる人間しか立ち入れられないとあなたは言ったわ。ここなら誰にも見付かる心配はない」
と、イザベラは必死に訴えた。
しかし、ルミウスは首を横に振って、
〈そうもいかないんだ。さっきも話したが、我々の里は今大変な状況に陥っている。仲間のグリフォンたちが団結して魔法軍相手に立ち向かい、私もそれに加勢した。そんなときに、私がこの世界へ戻って来たのを君は不思議に思わなかったかい?〉
「どういうこと?」
〈実は、戦闘中だった私の心の中で突然、ある光景が浮かび上がった。ウラベという勇者が単身で男たちを相手に闘っている光景だ。いきなり起きた不思議な現象に私は驚いたが、得体の知れない危機感を覚えた私は長に断りを入れてから、そのときまだ見ず知らずの男だったウラベを助けるため急いで駆け付けた。確証はないが、あの光景はこの子が私の心を通じて見せたものではないかと今は思っている〉
ルミウスが卵を見下ろすと、イザベラも近付いて一緒に見下ろした。
「つまり、この子があなたに浦辺さんの危険を知らせてくれたということ?」
〈あくまで私の憶測だけどね。しかし、理由を説明すると長はとても興味を示された。その力の源がどのようにして育まれ、どのような力を宿しているのかと。それを確かめながら見守るためにも、この子をグリフォンの里へ連れて行かなければならないんだ〉
「なんだかよく分からないわ…。とにかく、私はこの子まで一緒に連れて行かれるのは耐えられないわ」
〈イザベラ…〉
「イヤよ、私は絶対に離さないわ」
と、イザベラは卵を抱き上げた。
〈イザベラ、頼むから分かってくれ〉
「この子は私の子なのよ」
〈私の子でもある〉
「………」
イザベラの目から涙が零れた。
予期はしていたが、ルミウスの心にチクッと針で刺されたような痛みが走った。
イザベラは背中を向けるとゆっくりとその場に座り込み、今まで以上に強く卵を抱き締めた。
小刻みに体を震わせる妻を心配したルミウスが近付いた。
〈イザベラ?〉
「そっとさせて…」
背中を丸めたまま、イザベラは小さく言った。
ルミウスにとって今のイザベラは、我が子との別れを必死に拒む母親であると同時に、不貞腐れて体を丸めている可愛らしい子どものようにも見えた。
(やっぱり君はあのときと変わらないね…)
と、ルミウスは思った。




