第二十部 イザベラの勇気
森のオアシスを目指しながら、イザベラは祈り続けた。孤立無援でケインたちと対峙している浦辺の無事と、怪我を負い苦しんでいる父親が無事でありますように、とである。
そのイザベラ自身も、決して安全な立場ではないことは承知していた。彼女の背後には、猟銃ではなくピストルを握ったローガンがピッタリと張り付いていた。
森に入る直後、ローガンは懐に隠し持っていたピストルをいきなり取り出すと、イザベラの首筋に押し当てた。
「妙な真似はするなよ? もしも騙したら、お前たち三人とも残らず始末してやるからな」
と、ローガンは脅してきた。
その際、ローガンにブロンドの長い髪をなぞるように触れられ、イザベラは恐怖心も相まって吐き気に襲われた。
なんとかグッとこらえたものの、嫌悪感を抱く男に触れられたときの異常な不快感が中々忘れられず、イザベラはずっと唇を噛み締めていた。
ローガンという男とは今回の件で初めて顔を合わせたが、これまでの暴力的な所業を振り返れば、騙されたと知って逆上した場合、彼が本気でピストルの引き金を引いても不思議ではないとイザベラは確信していた。それほど、外見からでも危険な香りを漂わせている男なのだ。
(もし失敗したら、私だけじゃなくパパと浦辺さんまで…)
悪い方向に物事を考え、イザベラは両手を震わせた。
もし浦辺と立てた計画通りに動けなかったら、癇癪を起こしたローガンが出し抜かれたと気付いたと同時に、自分を撃ち殺すかもしれない。
さらに、そのまま勢いに任せて父親と浦辺も殺されてしまうリスクは充分考えられた。
イザベラは自身を奮い立たせるように、胸の前で細くてか弱い手をギュッと握り締めた。
悪い想像ばかりしていてはいけない。なんとか勇気を振り絞って、うまく行動を起こさなければ…。
「お前らが雇った用心棒もつくづく運のいい男だな」
と、唐突にローガンがイザベラの背中に向かって言った。
「どういう意味?」
イザベラが歩きながら尋ねた。
「さっき、チビのノームにあの男を撃つよう仕向けたんだが、未だに銃声が聞こえないところから察すると、あいつは撃つのを躊躇ったんだろう。だから、運がいいって言ったのさ」
「あなたには人の心がないの? 動物だけでなく人の命もなんとも思わないなんて」
「それがハンターってもんだ。いちいちそんなことを気にしてちゃ娯楽にならないだろう」
「最低…」
「俺はそういう人間なんでね」
「卵を手に入れたら私と父も殺すつもり?」
「さあて、どうするかな? 一応教えておくが、弟のケインはお前を自分の女にするって張り切ってたぜ。そのためには、あの偏屈ジジイを始末する必要があるがね」
「私はどうなろうと構わないわ。だから、父にはなにもしないでちょうだい。いいわね?」
「それは弟次第だ。あいつは俺以上に短気なエゴイストだが、兄貴である俺の命令には絶対服従を誓っている。俺が諭せば、ジジイは助かるだろう。それを望むなら、おとなしく卵を俺に渡すんだな」
「………」
「ところで、まだ着かないのか?」
「まだよ」
「本当に、森の奥に卵があるんだろうな? ここまで来て『やっぱりウソでした、ごめんなさい』って謝っても、もう遅いぞ。騙したらどうなるかさっきハッキリとーー」
「信じられないのなら引き返しなさい」
前を向いていたイザベラがいきなり背後を振り返り、ネチネチと小言を言っていたローガンの言葉を遮った。
毅然とした態度でいきなり言われたローガンは足を止めたが、イザベラは踵を返すと再び歩き出した。
このときのイザベラの瞳をもし浦辺が見ていたら、彼の脳裏できっとこの言葉が浮かび上がっただろう。
「母は強し」
今に至るまで、イザベラは大切な我が子を悪人の手に渡してはならない、と自分に何度も言い聞かせていた。「彼」が突然姿を消し、寂しさと悲しさで打ちひしがれていたイザベラにとって、「彼」との間に授かった卵の存在が、彼女に母親としての強さを与えてくれていたのだ。
ピストルを握っているにも関わらず毅然と言い放ち、そっぽを向いたイザベラの健気な姿を目の当たりにしたローガンは面白くなさそうにチッと舌打ちをしたが、それ以上はなにも言わず黙って彼女の後に続いた。
森に入って数分が経過した。
イザベラの足が止まった。
緑豊かな森の木が、半円を描くような形で茂っている。
グリフォンの存在を信じる者のみが訪れられる森のオアシスへ行けられるかどうかが試されるあの場所である。
ひとまず、イザベラはホッと胸を撫で下ろした。森の木が行く手を阻んでいるのを見て、ローガンがグリフォンの存在を信じていないことがハッキリしたからだ。当然と言えば当然なのだが。
所狭しに生い茂る木と木の間から見える森の奥は深い闇に覆われており、誰もがその先を行こうなどとは思わないだろう。
それは、ローガンも然りだった。
「なんだここは? 行き止まりじゃねえかっ」
と、ローガンはイザベラの背中に向かって怒声を上げた。しかし、今のイザベラには彼の怒鳴り声など恐るるに足らなかった。
「喚かないでよ」
「うるさい、やっぱり騙しやがったな!」
「いいえ、騙してなんかいないわ。連れては行くけど、その前に私の質問に正直に答えてほしいの」
「なんだと?」
「あなた、グリフォンをご存知?」
理解しがたい質問を突然投げかけられたローガンは、拍子抜けしてしまった。
この女はなにを言っているんだ、と言わんばかりの表情で、後ろ姿のイザベラを見つめた。
「ご存知?」
相手が答えないので、イザベラが再び尋ねた。
ローガンはフンッと鼻を鳴らした。
「グリフォンぐらい知ってら。神話か伝説に出てくる鷹とライオンがミックスした気色悪い生き物のことだろう?」
イザベラの手がピクッと震えた。
「気色が悪い、ですって…?」
「事実だろう? 想像するだけでおぞましいよ」
「大変な誤解だわ。グリフォンというのは気品があって誇り高い神秘的な生き物よ。一度、じっくりとその美しさを確かめることね。もちろん、資料を読んでだけど」
「さっきからなにを言ってるのかと思えば、いきなり神話のお講義か? 忘れたわけじゃないだろうが、俺は『妙な真似はするな』と釘を差したはずだぞ。明らかに、お前は俺の忠告に背いている。そうじゃないんなら、どういうつもりでそんな訳の分からない話をいきなりしたのか説明してもらおうか?」
「…信じる?」
「は?」
「グリフォンの存在を、あなたは信じる?」
しばしの沈黙が流れた後、ローガンは突然吹き出した。
「バカ言え、誰が信じるもんか。ありゃあ存在しない生き物だぞ。それともまさか、お前はあんなヘンテコな生物が現実に存在するとでも思ってるのか? ハッ、だとしたら傑作だ。あいつらに面白い土産話が出来らぁ」
「そう、信じないのね。よかった…」
ボソッと言うと、イザベラはその場にゆっくりと屈んだ。
一人でバカ笑いをしていたローガンだったが、すぐに元の険しい表情に戻ると苛立った様子でピストルを握る拳に力を入れ、乱暴な足取りでイザベラの背後に迫った。
「時間稼ぎのつもりかどうか知らねえが、泣きベソかいたガキみたいにうずくまるんじゃねえよ。質問に答えたんだから、さっさと卵の場所まで案内しろ!」
と、ローガンがイザベラの服を掴んで強引に立ち上がらせようとしたそのときだった。
振り返ったイザベラが、地面からすくった土を思い切りローガンの顔面に向けて振りかけたのだ。
とっさのことに驚いたローガンは悲鳴を上げ、持っていたピストルを落としてしまった。
目と口の中に土がもろ侵入したローガンは、必死にそれを取り除こうと慌てふためいた。
悶絶するローガンをイザベラは両手で突き飛ばすと、大急ぎで木と木の隙間を縫うように森の奥へと駆け出した。
どうにか顔に付着した土を払い除けたローガンの目が、鬱蒼と茂る森の中を駆けるイザベラの後ろ姿を捉えた。
(あのアマッ!)
憤怒に満ちた目で睨んでから、ローガンは落としたピストルを拾いすぐさま追跡を開始した。
全身の血が逆上し、逃げる獲物を追うハンターの狩猟本能が呼び起こされた。
ローガンは追いながら空に向けて一発、二発と続けてピストルを放った。
逃げる獲物が銃声を聞いたことで、より逃げる速度を早めてしまうのをローガンは普段から承知していたが、不意を突かれたことで鶏冠に来た今の彼には、そこまで考える余裕などなかった。とにかく、騙されたことに対する怒りで頭の中が一杯なのだ。
うっすらとだが捉えられるイザベラの後ろ姿を確認しながら、ローガンは懸命に走り続けた。
どんどん奥へ進むごとに暗さが増していくような気がしたが、ローガンは構わず足を進ませた。
日頃の狩猟で鍛えられた脚力には、充分自信があった。足場の悪い獣道や険しい山道など、幾多の危険な通りを制覇してきたこの脚が、女のか弱い脚に負けるはずがない、とローガンは自信満々だった。
実際、ローガンとイザベラの距離はどんどん縮んでおり、このままなら余裕で追いつくのも時間の問題だった。
(逃げおおせると思っているのか? 甘いな)
走りながら、ローガンはニヤッとした。
しかし、すぐにその笑いは困惑顔へと変化した。
突然、イザベラの姿が消えてしまったのだ。
ローガンは急停止し、狼狽しながら目を細めた。
確かに、イザベラにはもう少しで追いつけるところまで距離を縮めていた。
それなのに、いきなりその姿が消えて見えなくなってしまったのだ。まるで、奥の暗闇に溶け込むかのようにスッと、である。
ローガンは耳をそばだてた。
獲物の足音を頼りに行く先を判断しようと試みたのだが、聞こえてくるのは森を飛び回る鳥のさえずりと葉擦れの音だけだった。
ローガンはチッと舌打ちした。
完全に見失ってしまった。
そのとき、さっきまで静寂を保っていた森の中を強い風が吹き始め、草木がざわざわと音を立てながら激しくなびいた。
ローガンは心なしか、森が自分をこの場から追い出すために鳴らしている警鐘のように聞こえた。
根拠があるわけでもないし、そんなことはあり得ないとは思うのだが、なぜかそういう錯覚に陥ってしまったのだ。
ローガンは顔を強張らせると一歩、二歩と後退りした。
このまま引き返すべきか、とローガンは一瞬思った。
…否。卵を手に入れない限りは諦めるわけにはいかない。
とはいえ、イザベラを見失ってしまった今の彼にはなす術が無かった。
(…こうなったらやむを得ん)
意を決したローガンは踵を返すと、元来た道を引き返した。




