第二部 不思議な卵
イザベラは荒い息遣いのまま建物の陰に隠れた。
逃げてきた道を確認したが、あの男たちが来ている様子はなかった。
ホッと胸を撫で下ろしたイザベラは抱えている物体を、まるで怯える子どもの背中をさするように優しく撫でた。
イザベラは再び通りを確かめてから、目的地の場所を再確認するためそばの石段に「それ」をそっと乗せ、地図を広げた。が、何気なく上を見上げた途端、持っていた地図を落とした。
急いで一枚の紙を取り出すと、そこに書き記された文字と、目の前の建物に掛かっている看板の文字を比べた。
(…ここだわ)
二、三度確認し、ようやくそこが探し求めていた場所であると確信した。
建物に掛かっている看板の文字「浦辺探偵事務所」と、故郷を発つ前に紙に書いた文字が一致し、イザベラは安堵すると同時に不思議な感覚に囚われた。
もしかすると…。
イザベラはハッと我に返ると、石段に置いた丸い物体を慎重に持ち上げ、再び後生大事そうに抱え込んだ。
階段を上ると、ガラス張りのドアに辿り着いた。扉の横にある札に書かれた文字を確認したイザベラは、ここが求めていた場所だと改めて確信した。
抱えていた丸い物体から片手を離し、ゆっくりとノックする。
反応がない。
少し間を置いてもう一度ノックをするが、やはり無反応。
イザベラが困惑しかけた途端、背後から声を掛けられた。
「依頼人ですか?」
階段を上がって来たであろう童顔の男にいきなり声をかけられ、イザベラはドキッと反射的に身震いした。その拍子に抱えていた物をまた落としそうになり慌てて両腕に力を込めた。
すぐそばが階段でもあるため、男は慌ててバランスを崩しそうになったイザベラを支えた。
「す、すみません…。あの…ウラベさん…ですか?」
イザベラは相手の顔と抱えている物とを、落ち着きなく交互に見ながら尋ねた。
男は困惑したように「えっと、うんっと」ともごもごしながら、背後に向かって「浦辺さーん!」と大声を上げた。
すると、別の男が下からゆっくりと階段を上がってきた。
フサフサの黒髪で飄々とした印象を露骨に醸しているが、端正な顔立ちとスラリとした体躯、そしてキリッとした目付きの好人物といった感じの男だった。
男はまず、イザベラに軽く会釈してから彼女を支えている男の頭をペシッと軽く叩いた。
「なに変な気を起こしてるんだ」
「ち、違いますよ。足を踏み外しそうになって――」
「申し訳ありません。どうぞ中へお入り下さい」
浦辺という男はイザベラに手を差し出し、中へと誘った。
二人の後に続いて、童顔の男が文句を垂れながら室内に入る。
室内は所長の浦辺専用と思わしきデスクと、長方形のテーブルを挟むように置かれた二つのソファ、そして仕事用の資料が揃えられた棚が配置されているだけの殺風景な所だった。棚に収納されたフラットファイルが几帳面に並べられている点から見ても、余程几帳面な性格であることが窺える。
「少しだけお待ち頂きます。北村」
浦辺が指示すると、先ほど小突かれた北村という男がイザベラに座って下さい、と促した。
イザベラが会釈して座ると、北村はさっきまでの情けない一面がウソのような機敏な動作で、テキパキと紅茶を淹れ彼女の前に置いた。その際、顔は真剣そのものだった。
一方の浦辺は、事務的な備品が所狭しに置かれたデスクの上で、なにやら書き物をしている。こちらも、同じく真剣な顔付きだった。
数分待たされた後、ようやく浦辺がイザベラに向かい合う形でソファに座った。
「お待たせして申し訳ありませんでした。僕がここ『浦辺探偵事務所』の所長をしている浦辺と申します」
と、浦辺は一枚の名刺を抜き取ったが、
「失礼ですが、日本語の方は…?」
と、遠慮がちに尋ねた。
「分かりますわ。独学ですが…」
と、イザベラも遠慮がちに答えた。
安心したといわんばかりの笑顔を見せ、浦辺は彼女に名刺を手渡した。
イザベラが名刺を受け取る際も、不思議な物体を相変わらず抱えたままなので浦辺は机に置いてもらっても構わないですよ、と声をかけそうになったが、すぐに思いとどまった。
その物体を抱える彼女の両手にかけられている力の具合が、尋常でないことに気付いたからだった。
絶対に手放すつもりはない、と言わんばかりの強い意志が両手に掛けられている力から読み取れる。
(なにかとてつもなく大切な物に違いない)
浦辺は即座に相手の分析を始めた。
年齢は恐らく二十代半ばだろう。
ぱっちりとした目元と鼻の高さが特徴的で、お淑やかでかつ清楚な雰囲気を漂わせ、アメリカ人女性によく見られる飾り立てた感じがしない辺りから察するに、ヨーロッパ出身の可能性が高い。
手荷物(というのはいささか失礼だなと浦辺は自戒した)は、虎の子のように抱えている布にくるまれた不思議な丸い物体と、恐らくパスポート類の旅行に不可欠な物を入れているであろう肩掛けの小物入れだけだった。
どうやら、この丸い物体がここへ訪れた理由に関係しているんじゃないか、と浦辺は睨んだ。
名刺に目を通していたイザベラは、やっと抱えていた物を横にそっと置き自己紹介した。
「お名前から察するに、やはりヨーロッパの出身ですか?」
「イギリスで生まれ育ちました」
「イギリスですか」
「なにか?」
「いえ、個人的なことですのでお気になさらず。日本にはこれまでに何度か?」
「いいえ、今回が初めてです」
「見たところ、ご旅行という感じには見受けられませんね。もしよろしければ、来日の理由をお聞かせ願えますか?」
「こちら…浦辺さんの所にお伺いするためです」
「僕が探偵とご存知の上で?」
「はい」
ほぉ…と、浦辺は少し驚いた。
国内、それも主に地元の依頼を専門としているだけに、海外にまで認知されているという意識は一切持っていなかった。現に、外国人から依頼を受けたケースはこれまでに一度もない。
だが、今回その海外から、それもブロンドの長い髪をなびかせる美女がわざわざこんな所へ足を運んだことに、浦辺は驚かざるを得なかったのだ。
「どうして遥々遠方からこちらに? シャーロック・ホームズで有名なイギリスにも探偵はいるはずでしょう?」
イザベラが言葉を詰まらせていると、興味を持った北村も浦辺の横に腰かけた。
妙な女性だが、一応依頼人の可能性も否定できないのでしっかりとメモ帳とペンを持って、イザベラの口から言葉が発せられるのを待機している。
中々、イザベラが口を開かないので浦辺と北村はどうしたものかと、顔を見合わせた。
しばしの沈黙が流れてから、浦辺は再びイザベラの横に置かれた物体に目を落とした。気のせいか、かすかにそれが動いたように見え、浦辺は目をパチクリさせた。
途端に、イザベラが意を決したように俯いていた顔を上げた。
「浦辺さんに捜してもらいたい方がいるんです」
「なるほど、人捜しですね」
と、北村が言うのをイザベラは首を振って、
「いえ、人ではないんです」
「人ではない? では、誰を捜してほしいんですか?」
「グリフォンです」
ペンを走らせようとした北村の手が止まった。
一瞬の沈黙が流れた後、浦辺が口を開いた。
「グリフォン、とおっしゃいましたか?」
イザベラが真剣な眼差しのまま頷いた。
困惑顔を浮かべた浦辺と北村は互いの顔を見合わせた。
自分たちをからかっているのか、とも疑ったが、とてもそんな様子には見えなかった。
「念のための確認ですが、ひょっとして『グリフォン』という名前のペット…ですか?」
北村が苦笑を浮かべながら聞くが、イザベラは相変わらず表情を崩すことなく首を横に振った。
「正真正銘のグリフォンです」
「だけど、それは…」
と、北村は困り顔で浦辺を見た。当の浦辺も相変わらず戸惑っていた。
「イザベラさん、申し訳ありませんが――」
髪をかきながら言う浦辺にイザベラは慌てて、
「もちろん、簡単に信じてもらえないことは覚悟していました。ですから、ここを訪れるときにこの子も一緒に連れてきたのです」
と言い、横に置かれていた例の物を抱き上げ、布をほどき始めた。浦辺と北村が興味津々でその様子を見つめる。
現れたのは、摩訶不思議な模様で彩られた大きな卵だった。およそソフトボール並みの大きさである。
イザベラは愛おしそうにそれを優しく撫でてから、
「グリフォンの卵です」
と、言った。このとき、初めて彼女は二人の前で笑顔を見せた。
浦辺と北村はソファから身を乗り出し、グリフォンの卵というそれをまじまじと見つめた。
グリフォンとは鷲(鷹という説もあるが、浦辺はハクトウワシのイメージが強かった)の上半身とライオンの下半身を持つ空想上の生き物を指す。無論、架空の生き物であって実在するはずがないことは、浦辺も北村も承知していた。
ところが、イザベラはそのグリフォンの子どもが宿るとされる卵を、大胆にも二人の前で披露したのだ。
浦辺は姿勢を元に戻すと考え込むように足を組んだ。
その隣に座る北村は、疑わしそうな眼差しで卵を見すえた。
「この子を授かるまでの経緯を今からお話ししたいと思います。とても信じてもらえる話ではないとは思いますが、どうか最後まで聞いて頂けませんか?」
と、イザベラが二人の顔を交互に見ながら言った。
浦辺はしばし考えてから「どうぞ」と促した。