第十七部 取引
「あら?」
オーバンで買ったパンとミルクを詰めた紙袋を片手に持ったまま、イザベラは不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
と、同じく紙袋を抱えた浦辺が異変に気付き声をかけた。
「鍵が開いているんです」
確かに、ドアが数センチほど開いていた。
「ノアさんが閉め忘れたんですかね?」
「そうでしょうか…」
と、イザベラはまた首を傾げた。
父親が施錠したところを確認したわけではない。だが、いつ連中がロッジにやって来るかもわからない状況下で、鍵を開けたままにしておくのが父親らしくないとイザベラは思った。
徐々に嫌な予感がしたイザベラの表情が固くなった。
浦辺も同じ考えにいたったらしく、持っていた紙袋をイザベラに託すと、ドアノブに手をやりゆっくりと開いた。
「………!」
二人は同時に驚いた。
まるで空き巣にでも入られたかのように、室内が酷く荒らされていたのだ。椅子は倒され、台所の食器棚は手当たり次第に開かれ、木製ゆえに割れはしていなかったが皿やカップも床一面にぶちまけられていた。
見るも無惨な部屋の状況を目の当たりにしたイザベラは呆然としたが、すぐにハッと持っていた紙袋をテーブルに乗せると「パパッ!」と叫び、ノアの部屋へと駆け出した。
派手に散らかった室内を浦辺は見回した。
ふと足元を見下ろし眉をひそめた。
床に赤いシミのような跡が付着している。
浦辺は屈むと指先でそれに触れ、臭いを嗅いだ。途端に、彼の表情が険しくなった。
(血痕だ)
日本の事件現場で血まみれの生々しい遺体と対面した際、やたら鼻腔を刺激する鉄分の混じった独特な臭いと同じ臭いがした。
明らかに、ここで誰かが血を流している。
ノアの部屋から戻ってきたイザベラも床の血に気付き、両手で口を覆った。
「浦辺さん、それってもしかして…」
「血痕です。ノアさんは部屋にいましたか?」
「それが、部屋にいないんです。…もしかして、私たちが出かけたのを見計らってローガンたちがパパを…?」
浦辺は苦い顔で頷いた。
充分に懸念はしていたのだが、悪いことに連中は自分たちではなく、ロッジで待機していたノアを襲い、恐らく連れ去ってしまったのだろう。
「多分、連中はここでノアさんに捜している獲物のことを再度問い詰めたんでしょう。ノアさんは知らぬ存ぜぬを通したが、連中は信用せずに口を割らせようとしたんでしょう。恐らく、血痕はそのときの…」
と言ってから暖炉に目を向けた浦辺が目を細めた。
暖炉横の巣は踏み潰され、積み重ねられていた薪も乱暴に散らかされていたが、それに混じって見慣れない物が床に落ちていたのを見付けたからだ。
浦辺はそれを手に取った。
携帯電話だった。
「見覚えがありますか?」
と、浦辺はイザベラにそう尋ねた。
イザベラはすぐに首を振り、
「いえ、ありません。父は機械が大嫌いなので、そういう物は持たないようにしていたんです。無論、私の物でもありませんわ」
と、言った。
ノアが機械類を嫌うタチなのは初耳だが、ロッジに電話が通じていないのは浦辺も知っていた。となると、外部との連絡手段は携帯電話だけとなるが、イザベラがオーバンまで医師のセバスチャンを呼びに出かける際、ノアは一言も携帯のことを口にしなかった。
娘に余計な手間をかけさせたくないノアが携帯を使わず、わざわざ娘をオーバンまで行かせるとは考えられなかったため、浦辺は「ノアさんのですか?」とは聞かなかったのだ。
(となると、これは一体誰の携帯だ?)
と、携帯を弄っていた浦辺だったが、裏側になにかが書かれた紙片がテープで貼り付けられているのに気付いた。
電話番号らしい数字だった。
浦辺はイザベラと顔を見合わせてから、意を決して紙に書かれた番号を入力し、発信してみた。
ツーコールほどで相手が出た。
奥から聞こえたのは低い男の声だった。
しかし、日本語ではなく英語だったため、浦辺は戸惑った。
「プリーズ・ウェイト」
相手の言っている言葉がさっぱり分からなかった浦辺は、困惑しながら電話の相手に言った。
状況を察したイザベラがジェスチャーで「代わりましょうか?」と示したので、浦辺はお願いすることにした。
イザベラは携帯を受け取り、耳に当てた。
「もしもし?」
「よお、またお前さんの声が聞けて嬉しいよ」
聞き覚えのある声にイザベラは思わず身構えた。
相手は狩猟団のリーダー、ローガンだった。
浦辺も相手が誰かを察したらしく、表情を強張らせながらイザベラを見守った。
「やっぱり、あなたたちがここへ来たのね?」
「ご明答、その通りだ。お前と用心棒が出て行った後、ちょいとお邪魔させてもらったぜ。それにしても、お前の父親も相当な頑固ジジイだな。孤立無援だっていうのに、相変わらず俺たちの質問には知らぬ存ぜぬを通しやがった。俺は紳士的な話し合いを臨んだって言うのによ」
「ふざけないでちょうだいっ。床に血が付いていたわ。あなたたちがパパに乱暴したんでしょ。…何処よ? パパを何処にやったのよ! もしまた乱暴したらーー」
「そう興奮しなさんな。ヒスを起こされちゃまともに話も出来やしないから声を聞かせてやる」
電話の奥からガサゴソと音がしたかと思うと、いきなり苦しそうなうめき声が聞こえた。
「パパッ!」
「…イザベラか? すまん、こいつらに掴まってしまった…」
「怪我は? 体は大丈夫なの?」
「わしは大丈夫だ。だから、落ち着きなさい。そんじょそこらのヤツらよりも頑丈なのはお前も知っているだろう?」
と、ノアが小さく笑ってから言った。
時折、うめき声を漏らす父親が自分を心配させないため、無理に痛みを我慢しているのだと察し、イザベラは胸が締め付けられるような気持ちに陥った。が、その父が安心させようと必死に踏ん張っているのだと自らに言い聞かせ、イザベラは冷静になるよう努めた。
イザベラがなにかを言おうとした途端、再びガサゴソと音がし、ケダモノの声が戻ってきた。
「ちゃんと生きてたろ?」
「なにが目的よっ」
「知ってるのに聞く必要あるのか?」
「前にも言ったけど、私も父もあなたたちが捜し求めている獲物のことなんて、なにも知らないのよ」
「卵のことも知らないって言うつもりか?」
イザベラの体が硬直した。
受話器越しからローガンの意地の悪い笑い声が聞こえた。
「ジジイにしろお前さんにしろ、誤魔化すのが下手だな。大層驚いている様子から察するに、やはりその卵とやらが俺たちに知られちゃマズい代物と見て間違いはなさそうだな。家探しをしてみても見付からなかったから、恐らくひと目に付かない場所にでも隠したんだろう?」
「なんのこと?」
「おっと、それ以上シラを切るのはよせ。知っての通り、こっちはお前の頑固親父を人質に取ってるんだ。まだ俺たちを見縊るんなら、親父の無事は保証出来ないぜ?」
「………」
「取引だ。この高慢ちきなジジイは返してやる。ここにいられたってやかましいだけだからな。その代わり、お前たちが隠している卵を俺たちに寄越せ。それを渡しさえすれば、親父とまた平穏無事な生活が送れるし、俺たちも二度とそこへは邪魔しない。…どうだ、簡単な交換条件だろう?」
「………」
「なあに、俺もせっかちじゃないから今すぐ決めろとは言わない。明日の朝、そっちへ向かうからそのときに取引開始だ。それから一応断っておくが、警察に通報しようなんて考えるなよ。もしチクったら、ジジイの命は無いものと思ってろ。分かったな? いいか、明日の朝だぞ」
と、ローガンは言ってから乱暴に電話を切った。




