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第十部 森のオアシス

 浦辺は外から聞こえる音で目を覚ました。

 ソファから体を起こし寝惚け眼で窓の外を見ると、ノアが薪割りをしている最中であった。

 浦辺は腕時計を確認した。現地時刻に設定していた時計は午前八時を示していた。

 テーブルには浦辺の分と思われる朝食のミルクとパンが用意されていた。

 浦辺は朝食に手を付ける前に、窓越しからノアを窺った。

 ノアは重たそうな斧を振り下ろし、黙々と薪を割っていた。

 割れた薪の数を見たところ、早くから作業を開始していたと窺えるが、その動作には微塵も疲労が感じられなかった。

 斧を振り上げたときと振り下ろしたときに盛り上がる筋肉が、牧場主だった頃に培った肉体を物語っている。

(イザベラさんにとっては頼もしい父親だろう)

 と、浦辺は思った。が、例え元牧場主というタフな名残を残しているとはいえ、決して安心とは言い切れない。何故なら、ノアたちにとって脅威となり得るローガン率いる狩猟団は、猟銃を所持しているのだから。いくら腕っ節が強くても、鉛の弾が相手では到底勝ち目などない。

 浦辺は外へ出た。

 ノアが浦辺に気付くと手を休めた。

「おはよう。よく眠れたかね?」

「はい、おかげさまで」

「もうすぐで作業が終わるから待っててくれ」

 と、ノアが額の汗を拭いながら言った。

「そういえば、イザベラさんはどうされたんですか?」

 浦辺が周囲を見回しながら聞いた。

「あいつか? きっと、あそこだろう」

 と、ノアが森の方角を指差した。

 昨日、ここへ到着したときには暗くてハッキリ確認出来なかった広大な森林が広がっていた。

 昨夜と違い今は風が一切吹いておらず、暖かな朝の陽光と鳥のさえずりだけが聞こえるだけで、木の葉が揺れない木々で彩られた森の景色はまさに一枚の風景画を見ているような美しさだった。

「独りで森へ行かれたんですか?」

「わしは止めたんだが、突然行きたくなったんだと聞かなかったものでね。あいつはおとなしそうに見えて、結構頑固な性格だからな。それで、無理に止めなかったんだ。一応、連中の気配を感じたらすぐに戻って来いとは釘を差しておいたがね」

 ノアはあくまで気にしていない素振りを見せたが、昨日見た帰国後のイザベラに対する態度を思い返せば内心では気が気で仕様がないだろうと思われる。

 ゆえに、浦辺が呼び戻してきましょうか、と尋ねると、

「引っ張ってでもそうしてくれ」

 と、語調を強めて言ったため、浦辺は思わず苦笑した。

 彼自身も、単身で森へ向かったイザベラが心配なのは事実だった。

 それに、この土地へ来たのも元々「彼」の行方を掴むためだった。そのためにも森へ行って色々と調べてみる必要性もあるだろう、と浦辺は思っていた。

 浦辺が用意されていた朝食を摂ってから森へ向かおうとしたとき、

「森の入口からずっと道が続いているから、そこを辿ればイザベラと出くわすだろう」

 と、ノアが教えてくれた。

 原野を数十メートルほど歩いて森の入口に辿り着くと、ノアが行っていた道が確認出来た。

 中へ入ると、明るい時間帯の割りに薄暗いことに気付いた。事務所でイザベラから聞いた話を浦辺は覚えていたが、まさにそれを裏付けるほどの薄暗さだった。

 昨夜、ロッジで深夜を過ごしたときに、森の方から聞こえる獣の咆哮を浦辺は何度か聞いていた。

 もちろん、肉食系の危険な野生動物も生息している可能性もあるため、それらに出くわさなければそれに越したことはないのだが、それ以上に浦辺が恐れていたのが蛇と虫だった。浦辺は昔から爬虫類と昆虫類が嫌いで、特に蛇は見ただけで体が硬直してしまうほど苦手だった。まさに、蛇に睨まれた蛙のようになってしまうのだ。

 この森に蛇が生息しているのかどうかは定かではないが、浦辺は極力足元に注意しながら歩を進めた。

 森に入ってから十五分ほど歩き続けたときだった。

「あれ?」

 延々と続いていた道が突然、鬱蒼と茂る木に阻まれた。

 行き止まりだった。

 浦辺は困惑して歩いてきた道を振り返った。

(分かれ道は無かったはずだが…)

 そもそも、もし分かれ道があったとしたらノアがそれをどちらに進むか教えてくれたはずだろう。

 浦辺が困惑して立ち尽くしているときだった。

 頭上から聞こえる鳥のさえずりが一層激しく聞こえ、いつの間にか吹き始めていた風が、木の葉を激しく揺らしていた。

 気のせいかもしれないとも思ったが、浦辺は自分が森に歓迎されていないような錯覚に囚われた。招かれざる侵入者を追い出そうと、森が自分に向けて出ていけ、と警鐘を鳴らしているような気がしたのだ。

 不穏な空気を感じ取った浦辺が、元来た道を戻ろうと振り返ったときだった。

「浦辺さん!」

 驚いて振り返ると、行く手を阻んでいた木々の隙間を縫うようにイザベラが現れた。

 イザベラは浦辺の前まで来ると、呼吸を整えるように何度も息継ぎした。

 例のごとくグリフォンの卵を抱えていたが、今日は珍しく布にも毛布にもくるまれていなかった。

「浦辺さん、どうしてここに?」

 イザベラが呼吸を整えてから尋ねた。

「ちょっと心配になりましてね。独りで森に出かけたとノアさんから聞いたもので」

「そうでしたか…。ごめんなさい、ご心配をおかけして」

「それはいいんですが、一体何処から? ノアさんからこの道を真っ直ぐ進めば、イザベラさんに会えるはずだと聞かされたんですが」

 と、浦辺が言うと、イザベラがかすかに表情を曇らせた。

 浦辺はなにかマズいことでも言ってしまったか、と思い困惑した。

 しばしの沈黙が流れた後、イザベラが口を開いた。

「あちらへ来てもらえますか?」

 と、イザベラはさっき自分が出てきた木々の隙間を示した。ここへ辿り着くまでの道も薄暗かったが、そこはそれ以上の暗闇に支配されており、木漏れ日がまったく確認出来ないほどの闇が続いていた。

「あっち、ですか? 相当暗いですが…」

 と、浦辺はゾッとした。

「大丈夫ですよ。私について来てもらえればなにも怖いことはありませんわ」

 と、イザベラが安心させるように微笑んで言った。

 それを見て不思議な安心感を抱いた浦辺は、意を決して森の奥深くへと進む決意をした。

 突然、イザベラが神妙な顔で頭上を見上げ、目を閉じた。

 浦辺が怪訝そうにそれを眺めていると、すぐに元の笑顔に戻って道案内を開始した。

 気のせいだろうか、さっきまでうるさかった鳥のさえずりや木の葉の揺れる音が聞こえなくなっていた。

「浦辺さん?」

 呼ばれて我に返った浦辺は、不思議な感覚に囚われながらも奥へと足を運んだ。

 森に入ってから視界がまったくハッキリしない暗闇に支配されていたが、奥へ進むごとにその暗闇はより濃くなっていくような気が浦辺はした。

 蛇に対して恐怖心を抱く浦辺は絶えず足元を気にしながら歩を進めたが、やがて彼の視界に木々で囲まれた広場のような光景が飛び込んできた。

 水浴びが出来そうなほど広い池と、そのそばには腰掛けにはピッタリな大きな岩が半分地面に埋まった状態で構えていた。

 暗い道を進んでいたかと思えば、突然神秘的な場所に着いたため、浦辺は思わず見惚れてしまった。

 足元に向けていた注意力が散漫になってしまうほど、幻想的な場所だった。

「ここは、もしかして…」

「そうです。私が『彼』と出会った場所です」

 と、イザベラは言った。

 浦辺は感心するように、広場とそれをまるで守護するかのように囲む木々を見回した。

 日本でもこういった森の中のオアシスに似たような場所が存在するのは知っており訪れたこともあるが、ここは明らかにそれらとは違う不思議な空気を漂わせていた。

 まさに現実世界から乖離した神秘的な地に足を踏み入れたかのような…。

 イザベラが一本の木のそばに屈むと、地面に置かれた鳥の巣のような枝で作られた囲いの中にグリフォンの卵をそっと置いた。

 通常の鳥の巣より大きいところを見ると、恐らくそれを模した手作りと思われる。

 卵を置くと、イザベラがおもむろに口を開いた。

「正直に教えてもらえませんか?」

「なにをですか?」

 と、浦辺が尋ねると、イザベラは小さくフッと笑った。しかしそれは、どちらかというと嘲笑に近い笑いだった。

「本当は浦辺さん、私の話をまだ信じていないのでしょう?」

 浦辺は弱点を突かれたようにドキッとした。彼女がついさっき表情を曇らせたとき、なんとなくそれを疑われていたような気がなんとなく感じ取れたからだった。

 浦辺は困ったように頭をかくと、すぐそばにあった切り株に腰かけた。それを見ていたイザベラも、岩の上に座った。

 気まずい沈黙が流れたが、それを破ったのはイザベラだった。

「実はここ、グリフォンの存在を信じる人しか辿り着けない場所なんです」

「まさか、そんな」

 と、浦辺は思わず口から漏らしてしまった。

「本当です。『彼』がそう教えてくれました。現に、浦辺さんは独りでここへ辿り着くことが出来なかったでしょう? ですから、私は分かったんです。浦辺さんがまだ私の話に半信半疑なのだと」

「………」

 彼女の言う通りだった。

 実際、本物のグリフォンを目の当たりにしていない浦辺は、未だに彼女の話には懐疑的だった。

 清楚な彼女がウソを吐いているとは思わなかったが、それが事実だと認めたわけでもないため、まさに彼女が言った通り半信半疑なのだ。

 浦辺は想像を巡らした。

 さっき、暗闇へ進む前に彼女が一度立ち止まって空を見上げたのは、森に自分が敵ではないというのを伝えていたということだろうか?

(だから、この場所に来れたのか?)

 しかし、それも見方によってはイザベラが自分の話を信じ込ませるために打った芝居とも考えられてしまう。

 木陰に隠れて、浦辺を待ち構えていればいいだけなのだ。

 無論、浦辺はそう思わない(厳密には思いたくない)のだが、どうしても探偵という職業柄、疑える部分には徹底的に疑ってかかってしまうのだ。考えられる疑惑は晴れるまで疑うべし。探偵として常に抱いているこの信念を、浦辺はこのとき初めて重荷に感じた。

 イザベラが岩から立ち上がり地面に跪くと、グリフォンの卵にそっと手を乗せた。

「私は幼い頃から、子守唄代わりに神話を聞かされていました。その中に出てくる数々の神秘的な生物の存在も、物心がつく前から認識し始めていたのです。恐らく、私が初めてこの場所に来れたのは、そういった空想上の生物が現実に存在していたらという理想を、幼心に抱いていたからだと思っています。もちろん、今の話も浦辺さんがすぐに信じてくれるとは思っていません。都合のよい解釈で、もっともらしい作り話をしたと思われるのも当然です。…しかし、私は間違いなくここ…この場所で『彼』と出会ったんです。ここで…」

 嗚咽が聞こえ、俯いて聞いていた浦辺が顔を上げると、イザベラが岩に寄り添うように泣き崩れていた。木漏れ日に照らされたブロンドの長い髪が美しく輝いている。

 浦辺は、出来ることなら自分が彼女の話を信じているということを示してあげたい、と思っていた。

 しかし、探偵というものは常に現実主義に物事を捉え、摩訶不思議な現象には妥協なく徹底的に否定するスタイルを貫く必要がある。ウソのない真実を追求する上では、その覚悟を持って事件に挑まなければならないのである。

 これはいわば探偵の信条でもある。そのため、情に任せ気安く「信じています」とは言えないのだ。

「何処なの…? あなた…何処にいるの……? お願い、帰って来て…私と子どもを残していかないで……」

 嗚咽しながら、イザベラが囁いた。

 立ち上がった浦辺はイザベラに近寄り声をかけてあげようかと思ったが、結局何も出来ないまま呆然としてしまった。

 そのとき、銃声が轟いた。

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