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剥ぎ纏う刻 5月-1-

 十年前、テツトは俯いてばかりいる少女の手を取り、自分に引き寄せた。レースの装飾がされた袖から出ていた彼女の手は磁器のように白く、冷たかった。テツトは鼻がつきそうになるぐらい引き寄せてから、彼女の顔が観たいと、前髪をたくし上げて、表情を見た。

 少女は眼を潤ませながら、顔を赤く染めさせていく。――ようやく反応があった。震える瞳と、むずむずと蠢く唇に、テツトは安堵した。


「近くの公園に行こう。紫陽花がキレイだから」


 少女の手を掴んだまま、テツトは玄関へと向かって歩を進める。抵抗は感じられない。少女は黙したまま、静々とテツトの手に曳かれるようについて着ていた。

 なぜ紫陽花で誘ったのか。――相手が女の子だからか。理由を確認しようにも答はない。思い返せば、ほとんど出任せであった。ただ、公園に群生している紫陽花は、テツトは好きであった。赤や青が薄くほんのりとだけ滲むような色合いをしている。色ののらないものもある。それらが群れてモザイク柄のように咲き乱れるのである。雨の降る学校の帰り道に、わざわざ寄って眺めるぐらいには好きであった。


 格安の夜行バスは、鼻をつく饐えた臭いがした。中央に一人通るのがやっとな通路が設けられた4列シート式。手すりのみが隣との境で、大柄な人物が座れば、贅肉がはみ出るような狭さである。

 窓際のシートだった。テツトはカビの臭いがするカーテンに頭を預けるようにして、体重を預けて目を瞑っていた。細い身体をできるだけ窓に寄せて、幼虫ように丸くなっていた。


――あれがサナだったんだよな。


 髪は眼元を隠さんばかりに長く、色も影もないようにテツトには思えた。面影がどうにも重ならない。両親は商談のため、子供二人で適当に遊んできてくれと、突き放してきた。テツトはこれに成れていた。一時間ぐらい終わるだろうと踏んでいた。


 いつもなら、ゲームでもお喋りでもキャッチボールでも、相手は誘えば乗ってくれていた。しかしサナは違っていた。樹海に声をかけるごとく、何の反応を示さなかった。両親の背中をじっと見つめたまま、人形のように動いてくれなかった。小さな唇は閉じている。色が見えないようにテツトは感じていた。

 足首まで隠れるスカートに襟元にレースのフリルのついた上着。余所行きの装いなのだろう。テツトには可愛らしくも、鈍そうな印象を受けていた。この少女とどうやって時間を潰せと、そんな悩みはあった。

 しかし悩みはすぐに変わった。幾ら話しかけても、促しても、動こうとせず、じっと両親の消えた扉の方を見つめている。彼女の姿に、テツトは痺れを切らした。


 夜行バスはがたがたと揺れながら、東へ向かって走っていく。隣の席に誰も来なかったことにテツトは小さく感謝した。それでも身体を窄めてしまうのは、もはや性分なのだろうと、自嘲した。


 横浜のサナの両親へはメールで連絡を入れている。二週間前、父と和室で相対したその日のうちに動いた。思い立ったらすぐに動けと、父秀幸は口癖のように言っていた。喜んでお迎えいたしますとの返信を受けている。住所は父から教えてもらっている。順路は確認済みである。スマホですぐに引き出せるよう整えている。

 夜行バスの予約もその日のうちに済ませていた。予算は交通費込みで二万円。この横浜への往復は、経費として、帳簿に記載済みである。

 夜行バスへは学校から直行していた。制服のまま、往復を済ませることに決めていた。胸に校章が施されたワイシャツとスラックス。上着はカバンに押し込んだ。シートの上に用意されていた埃臭い毛布で身を包み、時間が経つことばかりを考えていた。


 サナには今日、明日を不在にすることだけメッセージで告げている。用事はいれていない。適当に過ごしてくれと伝えた。既読の印が残るのみで、サナからの返事は、土曜日になっても来なかった。スマホを開く。到着までまだ四時間は要する。テツトはもぞもぞと身体を捩じらせてから、改めて目を閉じた。


「ここの公園の紫陽花はフシギに白もあるんや」


 靴を履いて玄関をでる。首から下げていた鍵で玄関を締めると、アスファルトを蹴って、

 その前日は雨が降っていた。公園は舗装されておらず、土がまだ湿気ている。その分だけに、アジサイは鮮麗な白色をしていた。

 ブランコやシーソーといった遊具も設けられた公園であるが、サナの様子をみて、テツトは誘うのを止めていた。適当に歩いていたら、時間が過ぎるだろう、そう期待した。この際、彼女の心なんてどうでもよいとすら、思っていた。


「キレイ」


 そんなつぶやきが聞こえた。途端に、腕が置いていかれるような感覚があった。


 サナが両足を止めていた。顔を上げている。


 赤い薔薇が、咲いていた。拳ほどの大きさの、苛烈なほどに赤のぎらつく、薔薇であった。


 頬がじわりと血の色を帯びていく。小さな唇は僅かばかりに開き、湿って鮮やかであった。そして、髪の隙間から覗ける瞳は、美しくきらめいていた。


 テツトは束の間、サナの可憐な横顔だけを見ていた。意識も何もなく。動きを止めて、見つめていた。


 徐にサナの手が伸びていく。一輪の薔薇を掴まんと、白く小さな手が開いた。

 それに気づき、ようやくテツトは身体を動かせた。空き手でサナの腕を掴んで、掴ませなかった。


 恨めしそうな顔が、テツトに向けられた。じりじりと眦に涙が溜まりだす。


「危ないから」


 テツトは薔薇の葉をつまんで、サナが掴もうとしていた薔薇の茎を見せた。無数の棘が生えている。


「怪我しちゃうよ。危ないやん」


 サナは泣かなかった。ただ一筋の涙を朱の滲んだ頬に伝わせた。


「でもそうしないと――」


 小さな声でそんなことを呟いていた。風の中のざわめきとして、テツトは聞こえないふりをした。手を曳いて、薔薇から離れるよう促した。サナは名残惜しそうにしばらく赤い薔薇へ視線を向けていた。

 紫陽花からも距離を取り、二人並んでブランコで遊んだ。漕ぎもせず、足を浮かせてぶらぶらと揺れるだけ。サナはまた俯き加減で、ブランコに腰かけたままである。それをちらちらとテツトは横目で伺いながら過ごした。


 それがテツトとサナの唯一の思い出である。


 まどろみは残っている。カーテンをつまんで、少しだけ捲り上げる。空が赤らんでいるのが見えた。もうまもなく夜が明ける。テツトは細い眼でそれを確認するや、身体を窓から離して、シートに凭れ直した。


「サナちゃんは、どうだった?」


 頃合いを計って家に戻った。その際もサナの手をテツトはずっと握っていた。薔薇の咲いていた辺りは通らないように工夫して、サナの歩幅に合わせるようゆっくりとした足取りで戻っていった。

 居間で両親たちが寛いでいた。只今と声をかけると、父はそう返してきた。テツトは首を傾げさせて、サナの顔を見た。


「楽しかった、です。とっても」


 まだ幼かったサナは囀るような声でそう応えていた。


――今なら何と答えるだろうか。


 そんな考えが脳裏を過っていく。テツトは鼻で嗤って一蹴した。

 スマホを取り出して、メールを確認する。


 その前に、メッセージが2件、届いていた。


――ツマンナイ。


 サナからそんな一言が送られてきていた。テツトは彼女に返信を送らず、カエデへメッセージを送っておいた。土曜日は丸々空いているから、もしよければ、付きやってくれ、と。カエデには感謝しかない。


 もう一通は、ナツミからだった。


――夏になったら、今度こそ二人だけで、どこかに行こうよ。


 東山を三人で散策した翌日に、メッセージを受け取っていた。三人でも楽しかったとナツミは記していた。テツトは謝を入れてから、この小さな脈を頼り続け、連絡を取り合っていた。

 学校内でも数度遭い、並んで学食にも行っていた。

 このメッセージに嬉しさはある。しかし、表情にまで乗らなかった。きっと寝不足で頭が回っていないからだろうと、テツトは深く考察しなかった。取り敢えずと、ありがとうを示すスタンプを送っておいた。ちゃんとした言葉は、後回しにした。


 サナの父とのメールのやり取りを再確認していると、カーテンの隙間から光が漏れ射してきた。指先だけ引っ掛けて、覗いてみれば、きらめく海が広がっていた。赤や黄色、水面は波でちらちらと輝いている。


 テツトは眼を細めながら陽光を受けていた。

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