陽春、やがて曇りぬ5月 -4-
夜はとう更けている。日付も変わっている。それでもテツトは眠れなかった。じりじりと胸の内側を握られている感覚があり、目を瞑れど、横になれども、苦しさが纏わりついて、耐えられなかった。
抽斗から木箱を取り出して、爪先を立てて静かに階段を下りて、畳敷きの和室に入った。明かりは点けずに、壁に向かって相対し、坐を組んで姿勢を正し、ゆっくりと息を吐く。木箱より取り出した罅の走った茶碗を包み持って、その内をじっと見つめる。
深閑としていた。鳥の囀りすら聞こえてこない。ただ自身の胸の鼓動が響いている。
――広告媒体としての認定試験。その内容を知ってる?
縁側でサナが訊ねてきた。掠れた声には剃刀のような鋭さがあった。
――見た目や身体能力だけじゃない。論文と面接もあるの。その場即興の実地試験もね。
聞いたことはあった。しかしその時、テツトは口を噤んでいた。視線を伏せさせて、サナから反らしていた。論文は、”南海トラフ地震が起こった際にあなたが広告媒体としてできる社会貢献は何か”であり、予告なしの即興実地試験は”マラソン試験の最中に路上で胸を抑え込む老爺に対する救命処置”であったそうだ。
――行政が認定状を発行する以上、社会の規範と成れるか、徹底的に試されるの。
合格率は一割にも満たないと聞いている。九月から始まり、篩をかけられ、十二月に少数の合格者が発表される。合格者が十人を満たない時もあったと、ジュンヤから聞いている。
ちょうど一年ほど前に、サナは試験を受けると決めた。そして、京都に移る覚悟も決めた。そのために入学したばかりの高校を辞めると両親に告げたそうだ。
激しい言い合いの後に、条件を引き出させた。高校に通いながら、試験代を稼ぎ、さらに試験の対策もする。身体能力のテストには自信があったが、他は難があった。
――全てを捨てででも、自らの全てを賭して、勝負した。
強い言葉だった。テツトの心を握り込むようであった。僅か四か月間。それでも彼女はすべてを費やした。胸の奥底からでてきた彼女の言葉は、重たかった。
――私はそれに勝った。試験にも、親にも、学校にも。全部に勝って、ここに来る権利を、私が、この手で掴んだんだ。
茶碗の中は空があるばかり。明かりを点さずに見つめてみえてくるものは、闇ばかりである。テツトはその闇を見つめていた。焦点をあわせず、力まずに、茶碗の中に広がる闇の全てを、そしてその奥を尋ねるように、視線を向けていた。
――私、京都に来てよかったわ。
サナはそう高らかに謳い上げた。目がくらみそうなほどの眩しさを、今になって感じ取り、心が射される心地を覚えた。凱歌を響きを知り、己の陰りを見てしまう。
――自分はどうだ?
父の命に従い、サナの活動に頭を悩ませている。流されて、任されて、意思もなく、右往左往している。はたから見眺めると、酷く愚かしく滑稽であり、自嘲もできない。
――自分は何がしたいんだ。どうしたいんだ。
幾ら問いかけども、応えはなかった。
肌に吸い付くような触り心地、腕に甘ゆいぐらいの軽さ。膝元近くに両の掌に茶碗を納めたまま、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
十歳の誕生日、両親の目の前の継ぎ接ぎでできた志野茶碗を選んだ。その時の二人の顔は、今なお、胸の中で生きている。色のない無表情と、嘆息。今ならその意味がわかる。自分は骨董を鑑る目がない。そういうことなのだろう。
受け止めるまでに時間がかかった。――いや、今でも肺腑の中の焦げとして残っている。
テツトは骨董屋に成りたかったわけではない。しかし、明確に一つの門扉が閉じられるのを目の当たりにしていた。今までに幾つ、その門扉は閉じたであろうか。そんなことを考えていた時期があった。
「何をしているんだか」
そう独り言ちた。声はすぐに闇の中に溶けていった。
闇の底は見当たらない。暗いままである。ただ感覚が収束し閉じていく。そこに安堵を覚えていた。
――本当に、何をしているんだろう。
指先に力がこもる。茶碗を握らんとするかのようだった。この茶碗を選び、手放せない自分自身に対して、サナの広告媒体の仕事に付き合っている対して、その理由をいくら訊ねても、水音も波紋も立たない。暗い凪の水面が広がっているだけである。
――これでいいのだろうか。
喉奥が苛々と込み上がってくる。歯を厳しく噛み込ませていた。肺腑から唸り声が鳴っていた。真っ暗な視界が滲むような心地があった。
「どうした。ここに居たんか」
父の声とともに白い光が、テツトの瞳を刺した。咄嗟にテツトは目を瞑って、蹲った。
「もう三時だぞ。明日、学校やろう」
そう言いながら、丸々とした恰幅を揺らしながら、どかどかと畳を踏み歩き、床の間の前へと進んで行く。そして、どっかりと胡坐を組んで座った。
「父さんこそ、こんな遅くまで」
「未だ持っていたのか。それ」
顎をしゃくって、継ぎ接ぎだらけの志野茶碗を指した。テツトはすっと茶碗を胸の中に隠すように
肘を折った。表情はくしゃげさせて、白髪頭の父を睨めた。
「そんな顔をするなよ。汚ねえ顔だな。ぐちゃぐちゃやないか。我が息子ながら、見ていられんよ」
裾の中に手を突っ込んで腕を組む。それから、わざとらしいほど大きなため息を吐きだした。
「3年で360万。片桐のところが着いて、市瀬呉服店や墨竹扇堂からも提供がある。壬生新撰組の統括がエライ気に入ったそうやないか。なにをそんなに焦っている」
「よく、知っていますね」
「そら、骨董屋も情報が命やからな。色んな所の枝があるんや。お前の活動なんかは、お見通しや。片桐のところの娘さんとのデートプランが崩れたのも、知っとるからな」
糸目をさらに細めて、にやにやとほくそ笑む。テツトは歯を軋ませた。言葉は出てこない。堪えているのか、それすらも判らない。畳の目でも数えるように、顔を俯せたままでいるしかできないでいた。
「デートのことはアレだな。お前とサナちゃんの意思疎通の問題として、横に置いておこう。改めて、一つしっかりと聞いておこうか。サナちゃんは邪魔か?」
――ありがとう。ゴメンね。
掠れた声が耳元で甦る。風が吹けば飛ばされてしまう砂のような声だった。テツトはしばらく下唇を歯で刺した。痛みだけが自分を正気足らしめてくれると思った。
「酷い言い方やな」
絶え絶えながらも、ようやく言葉が出てきた。
「邪魔までは思うとらん。ただ――」
それから先の言葉が出てこない。口は半開きのまま、瞼をきつく閉じる。音にもならない吃がガスのように漏れ出る一方である。
「答えを自分の内側に求めたって仕方がないやろう」
呆れ声が聞こえてきた。テツトは顔を固めて、父を見た。父は細い眼差しで、自身を見ていた。
「何も有りもしない処に、応えなんぞ求めてどうするんや。アホちゃうか」
乾いた口調だった。それだけに心を擦り削がれるようであった。
「取り敢えず、自分以外のことで、今、一番に知りたいことはなんや。先ず、そこから行こう」
「何を――」
「これが片付くまでは、5月5日の夜は続く。外が明るくなろうが、この部屋は5月5日のままやからな。さあ、言うてみい」
「何を、アホちゃうか!」
面上げて、大声が出てきた。すこしでも見下ろさんと、立膝の姿勢になっていた。父はそっと唇の前に、深いしわの刻まれた指を持ってきた。まだ夜半である。テツトは込み上がってくる言葉を飲み込んで、坐を正した。抱いていた継ぎ接ぎの志野茶碗を小脇に置いて、両手を軽く握り、膝に据え置いた。
――自分以外のことで。
じっと父を睨んだ。
――なぜ、父は自分に、役目を与えたのか。
直ぐに思いついた。しかし、未だ口には出さなかった。端緒をつかんで引きずり出していく。
終着点はすぐに見えた。
――どうしても、この条件で京都に来たかった。
サナは確かにそう言った。この条件とはすなわち、広告媒体としてのことを指している。そのために彼女は、全てを賭したと言い切った。
「サナはどうして、そこまでして京都に来たかったんや」
噛み締めるように言った。言い終わった後、うっすらと額が汗ばんでいるような覚えがあった。
「それは、どうすれば、判ると思う?」
二の矢として、父秀幸から放たれた。テツトはゆっくりと息を整えながら、思考を巡らせた。
――サナに訊ねたところで、まともに取り合わない。
その結論は出ている。しかし、彼女に折れて、京都へ来ることに許可した人物が居る。
「サナの――秋庭さんの連絡先を教えてください」
そう言葉が出ていた。
「直接会って、話を訊きに行ってきたい」