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陽春、やがて曇りぬ5月 -2-

「おはよう」と声をかければ、「おはよう」と手を振って返してくる。瞳を細くして微笑むナツミの姿にテツトは清爽とした春の匂いに、束の間だけ心を奪われた。紺のフレアスカートと薄手の上着を羽織り、革のカバンを提げていた。


 地下鉄東山駅のホームから伸びていた階段を昇っていく。陽光は眩いばかりだった。それでいて、風は涼である。テツトは晩春の快を感じていた。


「初めまして。サナと申します」


 レギンスにデニムジャケット、キャスケットを被ったサナがさっとナツミの元に近寄り、強引に手を取って握手を交わした。ナツミは驚きに目を丸くし、笑みが消えた。テツトは嘆息を大きく吐き出した。


 二人だけの予定だった。そのために日付を調整もした。翌日は壬生の沖田との試合も控えている。この日は特に用事はないから、ゆっくりと過ごしたらどうだ、と声をかけていた。

 帳簿づけを早めに済まして横になった。そわそわと落ち着かなく、結局、夜明け前には目が覚めてしまっていた。洗面台で顔を洗う。目下の隈は残っている。石鹸をつけても、何をしても落ちそうにはない。ただ今日は、心が宙に浮いたように軽かった。


 快晴の空を眺めてから支度を整えていき、玄関先でいってきますと告げると、居間からサナがひょっこりと顔を出してきた。黒のタンクトップにハーフパンツという、ラフな部屋着の格好をしていた。首に引っ掛けているタオルは、シャワーを浴びた直ぐ後を示している。


「私も着いていく」


 そう言いだしたら、譲らなかった。いや、テツトに二の句を放つ余裕を与えなかった。バタバタと二階へと上がり、玄関先でもガサガサと音を立てて支度を始めていた。差し伸ばすだけで止まり固まった右腕をじっと見つめるしかテツトにはできなかった。


 地下鉄に乗り、並んで手すりに捕まっている際に一度だけ、「ホントに着いてくるつもりか?」と訊ねた。「ここまで来て、嘘はないでしょ」と三白眼の真顔で返された。


「待てせて、ゴメンナサイ」

「だいじょうぶ。私もたった今、来たところやから」

「そうか。それならええんやけどなあ」


 テツトも遅れてナツミの側に寄る。彼女はまだ唐突に現れたサナに戸惑っているようで、サナとテツトの顔を交互に見返している。怒りの匂いは感じられないのが、テツトには幸いだった。


 東山駅より歩くことにしていた。信号を渡り、一つ角を曲がれば、平安神宮の大鳥居が構えている。青空の中に朱塗りが聳え、陽光を受けて金の装飾が煌めいている。

 平安神宮を詣でて、岡崎公園を歩き、インクライン跡を巡って、南禅寺を散策する。そんなコースを算段していた。手癖のように、野村美術館や泉屋博古館をルートに取り込んでいたのだが、慌てて線を入れて修正した。茶道具拝観の抹香臭いことは独りぼっちでも十分である。それでも渋すぎるコースだな、と昨晩は地図に向き合いながら、首裏を掻いていた。


「あなたが、秋庭佐那さんね。父から話は伺っています。よろしくお願い致しますね」


 慇懃な調子でようやくナツミはサナの挨拶を返した。サナは型でもとって嵌めたような笑顔でその言葉を受けて、掴んだ手を放さず、上下に振った。ナツミは小鳥のように首を傾げて、テツトに視線を送った。テツトは眉根を寄せて額を叩いた。


「ほらサナ。ナツミさんが困っとるから」


 テツトの促しに、サナは掴んだ腕を振るのは止めてくれた。それでも手は離さなかった。手をつないだまま、朱に聳える平安神宮の大鳥居へと向かっていった。ナツミは戸惑いながらも、サナの歩に合わせて進んで行く。その後ろをテツトが着いていく形となった。


――なんでだよ。


 思い描いていた景とは全く違う様となっていた。


――ありがとう。

――京都に来て良かった。


 掠れた声音のサナの言葉が脳裏を過っていった。


「そうそう。父からテツト君への預かり物が。でも秋庭さんの服だって」


 提げていた革のバッグから、都雅な織の包みを取り出した。サナの試合用のコスチュームであると察した。数日前に片桐禎和から出来上がったぞとの報告のメッセージが届いていた。今晩、ナツミとのデートの後に引き取りに行く算段であったが、ここで片桐からサナの手に渡っていた。


「よろしくと父から」

「承りました。恥じないように、明日からこれを着て、精いっぱい頑張らせていただきます」


 背筋を正して、両手で添えるようにして織の包みをサナは受け取った。恭しく腰を折り、包みを頭上で拝する姿勢となっていた。


「ちょっと、なにもそこまでやらなくても――」

「いや、こういうことはキチンとやっておくべきかなって。片桐社長には、ありがとうございますとお伝えください」

「はあ」

「で、ナツミさん。このサナを、どうか仲良くしてやってくださいな」

「ええ、よろしくね。秋庭さん」


 たどたどしくも、サナの言葉にナツミは返していく。サナは空いているナツミの手を握り、並んで歩くことを続けた。カエデと並んでいた際は揃ってみやびやかな着物姿であり、じゃれあうような仲睦まじさから姉妹にも見えたが、ナツミと佐那ではぎこちなさが強く、固さが強かった。


――何を考えているやろうか。まったく。


 サナの表情を垣間見れば、糊で貼ったような安っぽい笑みをして、ナツミの表情をしきりに伺っているように、テツトには見受けられた。隣歩くのに慣れていないのだろう。


――自分もああなっていたんだろうか。


 風の涼けさが、心の芯を震わしたか。そんな自嘲がこぼれていた。いつの間にか、大鳥居の前までたどり着いていた。前を行く二人は、そろって立ち止まり、一礼してから改めて歩き出す。そして、話題を探りあうような、牽制球ばかりの会話を続けていた。

 時折、サナがちらちらとテツトの方へと視線を向けてくる時がある。ちゃんとついて着ているかの確認なのか、何かの含みがあるのかは、テツトには判らない。ただ黙したまま、指をさして正面を向いて歩くことを促すに留めた。意味を問たところで、サナがまっとうに応えてくれるとは露にも思えなかった。


 三人は参道を進み行き、参拝するとともに、庭園の散策をした。杜若の群生が見事に咲いていた。サナはスマホを取り出して、写真を撮りだした。カエデに教わったばかりの自撮りの作法を持ち出して納めると、翳りにとことこと寄っていき、膝を曲げて屈んでは、加工に勤しんでいる。


「本当に申し訳ない」


 ようやく手をほどかれたナツミの側へとテツトは近寄っていき、きまりの悪い表情で頭を下げた。ナツミは首を横に振って応えた。


「大丈夫。むしろ、秋庭さんに悪かったかも。せっかく話しかけてくれるのね。どうにも噛み合わなくってね」

「サナを野放しにした自分が悪いよ。やっぱり。でも、ちゃんと構ってやってくれて、ありがとう」


 クスクスと囀りのような声が鳴った。ナツミが小さく丸めた手と口元に添えて笑んでいた。


「今日は謝ってばかり。私そんなにヘンな顔をしていたかな」

「え?」

「慕われているようで、楽しかったし。秋庭さん、表情が硬かったかもしれないけど、なんか可愛らしかったし。杜若はキレイだし。これはこれで、アリ、かなって」

「そうか?」


 ナツミは笑んでいる。口調も軽く弾んでいるように覚える。それでもテツトは懐疑的であった。


「ただ、歩かされるのだけは減点ね」

「それは自分のミスやな」


 頭を掻きながら苦笑いで応えていた。

 すると、スマホの振動を感じた。テツトは訝し気のスマホを取り出してみると、一通のメッセージが送られてきていた。――サナからである。


 メッセージを開いてみると、写真が送信されていた。杜若の群生を背景に、テツトとナツミが向き合っている写真であった。


 咄嗟にテツトはスマホを閉じて、ポケットに押しやった。そして首を振ってサナの姿を探した。頬から首裏までが熱くなっていくのを感じた。


「どうしたの?」


 ナツミの声が聞こえてくる。


 果たしてサナはすぐ近くにいた。木陰の中でスマホを片手に持って、三白眼を二人に向けている。


 表情は――判らない。笑みでなければ、怒りも感じない。ただテツトはその視線に距離を感じた。


 ――そして、十年前の少女を思い出した。


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