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陽春、やがて曇りぬ5月 -1-

 結局、四月は赤字で終わった。月の家賃額がまるまると払えなかった次第である。教科書代やらの学校支度金と、広告媒体としての活動経費が大きかった。食費や交通費もバカにならない。むしろ、初月でここに納まった点を誉とするかとも、テツトには思えた。

 帳簿を睨みながら、テツトは頭を抱えた。甘えた思考と頭を振って先のことを霧散させる。しかし、そうしているだけで、赤が黒に変わるわけでもない。父からの手付金百万円は確実に0へと向かってグラフを描いている。


――初めから巧くいくヤツなんでいないよ。


 五条橋組合の武蔵坊弁慶と、試合前の打ち合わせの際に、そんなことを言われていた。


――深宮綾乃は特例というか、バックが強すぎるんだ。アレを参考にしてはいかんよ。


 ちなみに弁慶は彼女に昨年の夏に敗北を喫していた。管轄局のホームページに試合動画が上がっていたので、それを確認する。弁慶の放つ薙刀の斬撃を、綾乃はひらりひらりと花びらのようにかわして懐に入り込み、襟首に手が伸びたかと思えば、次の瞬間には弁慶の足が宙に踊り、背が地についていた。何一ついい処のない、弁慶の惨敗であった。


――これから、巻き返せれば。


 その日はこれで横になった。ゴールデンウイークは予定が立て込んでいる。そのことが、テツトの気持ちを軽くさせていた。

 その内一日は、ナツミとの約束で、蹴上のインクライン跡に行くことになっている。

 布団をかぶって、深い呼吸を繰り返す。今日こそはいい眠りにつけそうだ。そう期待していた。

 目を瞑れども、なぜだか眠りはとても遠くにあるように覚えた。


――なぜここまで入れ込んでいるんだ。なんでここまでやらないかんのや。


 頭の奥で、ささくれた言葉が反芻している。結論は一考に出てこない。父が命じたから。任されたからには、やろうと思った。――果たしてそれだけなのか。それだけでいいのか。余計な言葉があぶくのように浮かび上がってくる。

 浅い意識が漂う中、テツトは瞼を閉じる力を込め続けていた。早くこの真っ暗闇に落ちてしまえと言い聞かせていた。


「テットはん、大丈夫か?」


 富士の彩りが雲のように広がり美しかった。若竹のような薄緑色の着物姿のサナがだらしなく口を開けて藤棚を見上げて、その姿をカエデが一眼レフに納めていた。テツトはその様子を少し離れたベンチで眺めていた。


 背凭れに身体を預けて、輝く陽へと視線を飛ばしていた。その際に、カエデが覗き込んできた。


「大丈夫。ちょっと疲れているだけ」

「そうか? ならええんやけどなあ。目の下の隈さん、なかなか濃くなっとるから、気ぃつけえよ」

「判っとるよ」

「サナちゃんの写真は、私に任せておいて」

「そうか。なら頼りにしとる」


 浅黄の着物姿のカエデはそう返して、サナの元へと戻っていった。ともに着物姿で、二回りも背の高いカエデが、サナをあやし可愛がる姿は、姉妹のように見えなくもない。ただ、背丈とともに、サナの強烈な三白眼と、カエデの柳のような瞳。そして胸周りの違い。三瞬きもしない内に、それが違うのは気がつくだろう。


 青空が広がっている。眩い光が瞳を刺してくるよう。未だ五月。それでも座っているだけなのに、汗が浮かんでくる気がした。微かに鼻の奥をつく、青い苦みが眉間に谷を掘らせる。

 鴨川の流れは爽にして穏やかである。穏やかなさざめきの中で、子供たちのはしゃぐ声や、大人たちの会話が聞こえてくる。


 市瀬呉服商と墨竹扇堂は継続、片桐ホールディングスも今月も五万円を出すとの約束している。また、今日明日にでも、サナの試合用のコスチュームが出来上がると連絡が入った。今は引き取りにこいとのメッセージがくるのを待つ段である。

 さらに、五条烏丸の新規の美容室からは、月に一度のモデル起用を頼まれ、カメラマンからも、モデルの依頼を受けている。なんでも、カレンダー用の写真として、京都の風景とともに写したいとの旨だった。

 サナはさっそくと髪に軽くやわらかなパーマをかけてもらい、流行りなスタイルに変えてもらい、四月末の日曜日には、カメラマンのボロボロなハイエースに乗せられて、京北の風光明媚な山間の景とともに写真を撮ってもらっている。髪と影で輪郭だけを残したサナの佇まいだけを、見事に切り取っていた。出来上がった写真に息を飲み、しばらく見惚れていた。


 ともに、こちらの宣伝代わりや、美容室には費用の免除などを契約に盛り込んでいるため、月一万円と低い価格となっている。年間で十五万円として算段をしていたのが、交渉時に歯車がズレてしまっていた。


 ただ、サナが契約に条件を付けてきた。


――年契約ではなくで、月毎の更新か、もしくは都度の随時契約でお願いできますか?


 事前に確認もなく、またテツトにアイコンタクトを入れることもなく、彼女はそう切り出した。


――まずそこから始めたいです。そこから信用、信頼を得られたら、長期の契約をお願いいたします。


 脇に肘を入れて、静かにするようにとテツトは促したが、サナは止まらなかった。


――この方が、堅実だから。こっちで良かったってなるから。


 打ち合わせの後に問い詰めると、サナはこう返した。最終的には単月ながらオマケ付の契約で落ち着いた。

 確かにカネは入ってくる。契約も随時更新になりそうだ。しかし、テツトの胸中には蟠りが残っていた。


「テット、そろそろ次に行こうよ」

「写真も撮れたし、ヒトも多なってきたかなあ。お疲れのところ悪いけど」

「そうか。今度は何処に行くんや」


 ベンチから立ち上がる。肩と腰に鉛でも入っているようだった。膝を真直ぐに伸ばして、背中を思いっきり伸ばす。腹の底に沈殿していた息を吐き出してやれば、すこしは軽くなるだろうとテツトは考えた。


「で、今度は何処に行くんや」

「高山寺と神護寺や。ちょうど虫干しで国宝が見られるかもしれんからって、サナちゃんがな」

「栂尾までかい。随分と遠くまで行くなあ」

「でも、機を逃したら、一生尾を引くかもしれないからね。チャンスと思ったら、飛びつかないと」

「さよか」


 サナの言葉にテツトは淡白に返事をしておいた。


 移動にはタクシーを使った。全額、テツトの出費となる。――これは呼び水と納得させている。片桐禎和氏との打ち合わせの際に、あまり出し惜しむなとの助言を受けた。帳簿の残高がちらついているが、これがサナの周知につながり、次の契約につながればと算段している。


 川端通でカエデがタクシーを捕まえて、サナと二人で後部座席に入り込んだ。テツトは助手席に座り、高山寺までと頼んだ。


 シートに深くもたれかかり、前の車両のブレーキランプの明滅を眺めている。京都は晴れてよかったですね、などと天気の話をしてくるタクシードライバーには、適当な相槌だけ返しておいて、頭の中身は上の空である。ふわふわと流れる真っ白な雲を視線で追いかけたりしていた。


 後部座席では、サナとカエデが喋っている。弾むような明るい声音であった。一眼レフでの撮影もお願いしていたが、スマホで撮った写真の加工の仕方をサナに教えてやって欲しいと頼んでいた。SNSに上げるためである。構図もさることながら、トリミングに明度や色彩の調整をして、少しでも目を引くような画像にして上げられないかと勘案してのことである。


 カエデは喜んで引き受けてくれた。この日のために着物を貸し出し、サナを着付けて、朝から付き合ってくれている。

 4月の初めに会った当初は、カエデの背の高さと押しの強さに飲まれていたサナも、だいぶん慣れてきたようで、身を寄せてスマホをいじりっているようだ。


「ありがとうな。テットはん。楽しいゴールデンウイークになりそうや」


 カエデの声が聞こえてきた。


「クルマとご飯代だけと渋いハナシやったけど、これで十分、元が取れそうや」

「そうか。それは好かった」


 彼女を良いように扱っている。そんな後ろめたさはテツトにはあった。こうして素直に声をかけられ、安堵の思いがあった。


「テット! ありがとう」


 掠れた声。それでも跳ねるような響きがある。


「私、京都に来てよかったわ」


 サナの声が聞こえてきた。


――まだ一か月が経ったぐらいやろうに。


 テツトはそんな毒づきを飲み込んで、口を塞いで、寝たふりをすることに決めた。

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