陽春、やがて曇りぬ 4月 -2-
午後の授業は上滑りな心地で受けていた。広告媒体の営業についても、思考はまるで進んでいない。教科書とノートを机上に広げて、シャーペンを携えたまま、頬杖をついて、緑の風の走る窓の外を眺めていた。
「おいおい、大丈夫か?」
ジュンヤの声もそのまま通り抜けていく。
――同じ学校なのに、遅くなっちゃったね。
ナツミと並び歩き、食堂へ向かった。久しぶりというには日は経っていない。しかし確かに、同じ学校の知り合いなら、もっと早くに挨拶に行くべきだったと、テツトは反省している。サナの相手をしているだけであっという間に学校の時間も、家の時間も過ぎていった。そのほとんどすべてが数字の計算ばかりである。
――こうしてご飯食べるのは、何年ぶりだろうね。
今までも学校は違っていたが、両親が懇意であり、月に一度か二度は昼食を共にしていた。彼女はあっさりとした味付けのものを好み、レタスと薄いハムのサンドウィッチとスープをプレートに乗せていた。テツトは学食で一番安いかけうどんを頼んだ。身体壊すよ、とナツミに言われた。そんなやりとりもどこか嬉しかった。
「放課後やで、管轄局に行こうや」
カバンを提げたジュンヤがテツトの机の前に立つ。
「おう……そうだな」
――ゴールデンウイークに一緒にどこかにいかない?
ナツミからの誘いの言葉が頭の中で反芻している。机の中のモノを適当にカバンに押し込んでから、立ち上がった。
「オレが主体で管轄局に行くのもおかしいやろう」
「それもそうだな。スマンな」
「美人に話しかけられて嬉しいのは判るけど、ぼけっとするなよ、童貞」
「やかましいわ」
雲はまばらで、空は青く晴れていた。そろそろ皐月をむかえるだけあって、風は穏やかにして、温もりが僅かに隠れている。
陽は西に傾いている。色合いは黄色の滲みはない。これからますます夏至に向けて日が長くなるのだろう。川端通を歩きながら、テツトは緑の景にあやどられた鴨川を眺め、空へと視線を飛ばしていた。
ナツミは同級生と先に帰っている。スマホのメッセージには、京極商店街でスイーツを片手に自撮りをした写真が送られてきていた。授業もすでに終わっていて、放課後を楽しんでいるのだろう。いつどこへいくかは、また後日とのテキストも添えられていた。よろしくお願いします、とテツトはスタンプを送って返した。
サナは相変わらずカエデに捕まったままである。十二単の装束に精緻巧妙な髪飾りをポンと頭に置かれた写真がカエデから送りつけられてきた。放っておくと通信量制限まで写真を送られ続ける恐れがあるので、後でメールで送ってくれと返事をしておいた。眉間に深い影を作りながら、頬肉引き攣らせて笑顔を無理やり作っているサナの顔が印象的であった。
このまま着せ替え人形のように遊ばれた後に、先に帰っているとサナからメッセージを受けている。テツトは了承の意のスタンプを送っておいた。ついでに、夕飯は何にするか尋ねてみる。梅しんの牛すじコロッケと唐揚げを買ってきてとの返事がすぐに返ってきた。カエデと彼女の母の可愛がりに戸惑っているだけのようで、テンションが落ちているワケではないようだ。
「今日は骨董のお使いはないのか?」
「最近は、親父とお袋が直接動いている」
昨日は東京日帰り。父は一昨日までは佐賀と長崎へと、慌ただしく移動をしながら、パソコンでは商品の登録と、オークションの出店、落札に勤しんでいるようだ。テツトへ、骨董品の梱包と発送の指示のメッセージは届けられている。母も岐阜まで足を延ばして骨董を探し、商品を届けるとともに、顧客に顔を合わせて会話を交わすことに時間を費やしている。
――こういうのが大切なんや。結局。
脚を使って顔を合わせる。両親ともに口を揃えて、そう言って、家を留守にするのである。
――なんか、寂しいね。
二人だけでの夕食が三日続いた。その際にサナが呟いた。テツトは一人で幾日も過ごしている。慣れというよりも、ただの日常だった。首を捻って彼女の言葉を受けていた。
「どうや、遊ぶカネぐらいはできそうなのか?」
「いや、まだまだよ。そんなん当分ムリやろうな。サナには悪いけど、しばらくは試合の質のある数をこなしてもらって、名前を売っていくしかないやろうな。或いは、飛び込み営業とか?」
家賃額に達した処で、管轄局へ支払う料金や、サナの普段の生活費まで届いていない。自転車が欲しいと言っていた彼女に対して、もう少し稼いでからにしてくれとやんわり断りをいれたことを思い出す。服装は横浜から持ってきたもの、あるいは実家から取り寄せてくれとも頼んでいた。
豪奢でキッチュな匂いすら覚える南座が見えてきた。ここから西に折れて四条大橋を渡れば、管轄局である。
「買ってくれたら万々歳やけど」
「そらまあ、専属契約のカメラマンとか、色々あるとは思うけどな」
ただそれだけでフォローしきれるとは思えない。それに管轄局としても、盛り上げるための素材は欲しいはずとテツトは踏んでいた。
管轄局の少しさび付いた重い扉を開いて中に入る。
一人、髪の長い女性が掲示板を眺めていた。濃紺のブレザーとスカートに襟元はタイと厳しく止めている京都でも有数の進学女子高の制服だった。
「深宮綾乃、さん?」
ジュンヤが呟いた。ほどほどに膨らんだ胸と絞られた腰回り。服越しからでもしなやかな肢体が判る。
彼女もテツトとジュンヤの姿に気がついたのか。秀麗な顔を向けて、小さく頭を下げてきた。
「どうも…」
二人はともにそれしか言えなかった。鳥のように頭を下げるだけの会釈をしてやり過ごす。ごそごそと彼女から一定の距離を保つようにして、管轄局の中へと入り動いていった。切れの長い瞳にさらさらと流れるような長い黒髪。すらりと長く手足。と整った姿の綾乃に対して、無神経に近づくことはできない。踏み込むことすら、恐れを感じていた。
「あら、いらっしゃい」
奥に控えている事務所から、一人の女性が寄ってきた。いつも世話になっている佐倉である。分厚い眼鏡をかけた妙齢なのだが、野暮ったい事務服とどこか垢ぬけない顔立ちをしていた。
「今日はどうしたのって、そうだ。綾乃ちゃん」
設けられたカウンターに身を載せるように前にでて、佐倉が掲示板を眺めている綾乃に声をかけた。呆気にとられるより先に、テツトとジュンヤの二人は背を伸ばし、姿勢を正した。
「この子が、佐那ちゃんの担当者…でいいのかな?」
返事が判らなず、テツトはさあと首を捻って応えるだけで留まった。
掲示板を見るため、背を向けていたはずの綾乃が振り返った。眼差しが、心なしか鋭いように、テツトには思えた。
「そう、ですか」
清涼な声音は剃刀のように思えた。じっとテツトの姿を、睨んでいる。そう感じていた。
「よろしく」
囁くようにそれだけ言い残して、踵を返して、綾乃は管轄局から出ていった。
「ちょっと怖かったな」
ジュンヤが呟いた。テツトもその言葉に頷いて応えた。
「どうしたんだろう。機嫌が悪かったわけでもないんやけど…。もしかして、二人、綾乃ちゃんになんかしたんちゃうか?」
「まさか、滅相もない。滅多のこと言わんでくださいよ」
「そうか。ならええんやけどなあ」
綾乃の背中を追って、閉じていく扉を佐倉は見守り、不思議そうに言った。
「いやあ、綾乃ちゃんと佐那ちゃんの試合が楽しみだねって、ちょっとお話をしていたんだけどね。京都初の女子高生対決になるから、さぞかし盛り上がるやろうなあって。そしたら、綾乃ちゃんったら、ずっと掲示板を見つめててさ」
「はあ、そうですね」
ふらふらと綾乃が立っていた場所に近寄り、掲示板を見やる。先日行われた試合のレポートと写真が並べられている一角だった。
――秋庭佐那、デビュー!
体操着のサナの姿がA6版の写真として掲示されている。その下には武蔵坊弁慶との一戦が詳細にレポートされている。空振りに終わった白刃取りについてもしっかりと書かれていた。
「声かけていないの? 試合の」
「まさか。相手にもされていないはずですよ。格が違えば、資本力も違いますし」
佐倉の言葉にそう応えながらも、反響のことを算段していた。なるほど確かに、サナの名前を売るにはうってつけだろう。しかしながら、試合にならないほどの実力差があるとなると、今後が厳しくなる可能性も否定できない。
「まあアレよ。そういうことは追々に考えていくしかないやろ。なるようにしか、ならんやろうし」
「そうれもそうね。で、今日、二人は何をしにここへ?」
佐倉の冷めた言葉に我に返った。テツトは試合相手募集の掲示依頼の書類を整え、ジュンヤは自身が撮り加工した写真データをスマホから引き出す操作を始めた。