Act of Violence -Sonatine- 7月
朝に打たれた頬の痛みが、まだ内奥でヒリヒリと疼いている。髪の水気を払うようにタオルで掻きむしってから、テツトはそっと自分の頬を撫で摩った。じりじりとした熱の籠りがたまらなく嫌だった。平素は柔和に垂れ下がっている眦が、厳しく尖りを帯びていくのが判る。
テツトは風呂上りに縁側に出ると、サナが縁側の際でしゃがみ込んでいた。片手を顎に添えて、口を噤んで、蛇のような眼差しを、庭の一点にむけている。
すでに夜は更けていた。見上げれば、半分欠けた月が浮いている。ちぎれた綿あめのような雲がようようと流れている。テツトにはこの群青色に染まった夜の帳と白く漂う雲の景が、夏の柔らかさとして感じていた。
「どうした?」
紺に縦縞模様の浴衣姿のまま、テツトはサナに近づきながら声をかけた。黒いタンクトップにボクサーパンツ。首に白いタオルをひっかけるようにしているだけの、ラフな格好をしている。彼女もまた風呂上りで、この縁側に出ているのだろう。設けられている電球の淡い橙色の灯りを受けて、肌がうっすらと色づいているようだった。
涼しい風が吹いていった。サナの肩口まで伸ばした髪を撫で上げるように抜けていく。揺れ遊ぶ彼女の髪の隙間から火照った色をしたうなじが、テツトには仄見えた。
「別に」
彼女は一瞥も寄越さずに、掠れた声で返事した。風に乗って剃りあげてくるような鋭利さを帯びていた。
夕刻には激しく雨が降っていた。黒い雲のひとかけらを観てから、瞬く間に群がり広がり、銃弾のように雨粒を撃ち落としていった。テツトは三条商店街のアーケードの下でやり過ごした。バタバタと屋根を叩く雨音だけでも服が肌に張り付くような心地を覚えていた。十分も経たずに雨雲は切れ間を作り、淡い光の階を射しこんできていた。
縁側に佇んでいても、風は涼しく、空は澄んでいる。粗い火照りを治めて、深呼吸をするにはちょうど良い。
「試合は来週だったよね」
視線は庭の一角に向けたまま、サナが声を放ってきた。
「そう。7月末の日曜日。午後2時。場所は武道センターの武徳殿」
「へぇ、一等地だね」
「せやなあ。たまたまそこだけが空いておったから、押さえておいた」
「そう――」
7月下旬に入り、祇園祭も佳境を迎えていた。今日の後祭りの山鉾巡行と花傘巡行を終えて、今ごろは、八坂神社に向けて、還幸祭の神輿が京都の街を廻っている最中であろう。もっとも、中京区は北西の外れの円町に居を構えている桑嶋家まで、威勢のいい掛け声も、祭囃子も響いてこない。たまに聞こえるのは、駆け抜けていくエンジン音ぐらいである。
「どうした?」
「いやなに、それならダッシュと大河には間に合うなってね」
言いながらサナはふんと乾いた鼻息を吹いた。
「そんなん、録画すればええやなか」
「テレビはリアルタイムじゃないと、楽しくないんだよ」
スマホを片手に彼女がテレビを観ている姿は幾度も目している。SNSでの反応をチラチラと覗きながら観ているのである。それでにやにやと笑ったり、頬を強張らせたりと、表情を忙しく動かしているので、その鑑賞方法について、テツトからはとかく何も言っていない。
「そうかい」
返事を聞き流して、テツトはサナの背後に回った。僅かに甘い石鹸の香りがしたが、テツトの相好は崩れない。唇を締めたまま、サナの向けている視線の先を覗き込んだ。
十畳ほどの広さを持つ桑嶋家の庭。時代のある石灯籠に、飛鳥時代の屋根瓦を地に据えて苔を生させた、父好みの作庭。椿に皐月を一角に植えて、今は雨に濡れて艶やかな青の彩りを担っている。兵向こうの電柱に設けられた白い街灯を光源として、夜中でも鑑賞に堪えうる明るさを保っていた。
もぞもぞと蠢く虫が転がっていた。蝉の幼虫だった。縁側真下の芝の上に、腹を見せて六本の脚を動かしている。
テツトは改めてサナの顔を見た。感情の色のない、恬然とした表情をしている。その表情のまま、蠢く蝉の幼虫に視線を向けて逸らそうとしない。
「悪趣味やな」
ポツリとテツトが呟いた。
「そうかな?」
「そうやろうな」
傾げたような言葉に対して、返事をする。
「そうかあ」
ため息とともに、頷きを返してきた。それでもサナは視線を変えようとはしない。じっと一匹の転がる虫を見ている。
蝉の幼虫はようよう足を地につけて、チクチクと歩きだしていった。目指した先は、最寄りの塀である。モルタルに足をかけて、いざ垂直に登らんとて、六つの足を塀につけていく。よちよちと頼りなく、いよいよ羽化をせんと高所へ、せめて塀の上へと登っていく。
サナの視線は幼虫に合わせて、動いていく。テツトもそれに倣った。二人は黙して、蝉の幼虫を追ってした。
しかし、半分も登れぬうちに、幼虫は塀からポトリと呆気なく落ちた。そして、足を空に這わせて蠢くのである。
「ずっと、これを?」
「うん。これで五回目」
頷きとともに返事があった。テツトは半眼になって、サナを睨んだ。彼女は意に介せず、変わらず地でもがく蝉の幼虫に視線を向けていた。唇の端が鋭角に歪み、テツトには笑んでいるように見えた。テツトの眉間の皺はさらに深くなった。
果たして彼女は昔からこうであったか。テツトは古い記憶を引っ張り出した。三月中旬に桑嶋家に転がり込む前、ただ一度だけ、彼女はこの家に上がり、テツトと顔を合わせていた。十年近く前のことである。
父親同士が知り合いだった。横浜に一軒家を構える商社マンの一人娘である。せっかくの京都ということで、家族ぐるみで京都を上り、桑嶋家を訪ねてきた。商談も兼ねてなのだろう、両親は応接間で籠った。「悪いけど、相手を頼むな」と、父に言われて、リビングにサナと二人残された。
当時、テツトは小学校に入学したばかりであった。初対面の、それも年上か年下かもわからぬ女の子を押し付けられた。しかし、これはテツトには〈よくあること〉に過ぎなかった。こうやって任されることは、サナが初めてではなかった。月に一度は頼まれていた。
伏せがちな眼に、小さな手を胸前でもぞもぞと遊ばせている。テツトが手を差し伸べても、何がしたいと話しかけても反応が乏しかったことを覚えている。――暗い。それがテツトのサナに抱いた第一印象だった。結局、強引にまで彼女の手を取って、最寄りの公園に連れていって時間を潰したことを覚えている。
幼虫が六度目の失敗をしていた。テツトは髪をガリガリと掻き撫でてから、転がっていたサンダルに足をかけて、庭に降りた。
そして、六本の足を蠢かしている幼虫に人差し指を差し出した。チリチリとしたくすぐったさを覚える。蝉の幼虫が指に抱き着くように捕まったのを目視してから、近くの椿の幹で移しやった。幼虫はそのままよじよじと枝を登っていった。よろけがなく、今度こそ落ちそうもないと確信してから、テツトは一つ息を吐いた。
「へえ、優しいんだね」
サナが声をかけてきた。テツトは眉間をさらに深くさせた。
「気分、悪いやろう。このまま死んだりしたら」
「そうかな」
サナが表情を変えず、僅かに首を傾げさせた。
「仕方がないじゃん。そのまま死んだって」
淡とした口ぶりでそう言い放つ。
テツトは咄嗟にサナの顔を睨んでいた。彼女もまた、変わらずの蛇のような眼で、テツトを見ていた。途端、吹いてくる微風に、髄を縮こませるような寒気を覚えた。
――これに負けてはいけない。
身動ぎを堪えて、テツトは顔を強張らせた。眦はますます尖っていく。
「へえ、いい顔するようになったね」
そんな一言が聞こえてきた。サナはゆっくりと膝を立てて、立ち上がった。
「すっかり湯冷めしちゃったよ」
「ならもう一回、風呂に入るんか?」
「まさか。もう寝るよ」
「そうか」
背を大きく伸ばしてから、彼女は踵を返した。そのまま、二階の自室へとつながる階段に向かうのだろう。
「なあ、試合のことやけど」
「勝つよ。絶対」
テツトに顔だけを向けて、サナはそう言葉を返した。
「戦う前から、負けること考えるバカが何処に居るって、ヤツよ」
ニヤリとほくそ笑みを浮かべていた。
「そうか」
それだけしかテツトには返事ができなかった。
サナは言葉を残すようにして縁側を離れた。トントントンと階段を踏む音が聞こえてきた。
テツトはゆっくりと、呼吸を整えるように、息を吐き出した。気づかぬうちに、硬い握り拳を作っていた。そしてそれに気づくや、テツトはじっと自身の拳を見つめた。
蝉の幼虫は椿の木の枝に止まり、背を割って、まさに中から薄緑の姿を出している最中であった。