理沙と愛
私はいわゆる可愛そうな子だった。もっとも、可愛そうな当事者はそれに気付きもしなかったのだけれど。物心ついた頃から私に父は居なかった。母は日中家にいて酒を飲み、煙草をふかしていて、夜になると出かけていった。小学校に上る頃、家に男の人が居る事が多くなった。
その頃の私は家族の形さえ知らなかった。普通は父と母がいて環境によっては祖父母がいる。そんな当たり前の事がわからなかった。
だから当然男の正体についても考えたことがなかった。その男はやがて私を疎んで殴るようになった。行動が気に入らないと殴られる。喋っても殴られる。私は自然と、目立たず鳴かず、擬態する小動物のようになっていった。
そうやって3年間は耐えた。しかし成長とともに暴力は激しさを増し、私は段々、単なるサンドバッグと化していった。そんな私に、私を産んだらしい女はまるで興味を示さなかった。このままでは死ぬ。逃げろ。本能がそう叫んだ。大人達が寝静まったある夜、私は小さなリュックを背負って闇夜の街に身を投じた。
「なんだぁ、このガキ」
膝を抱え込んで顔を埋めていた私は声の主を見上げた。お腹が空いてふらふらとコンビニに引き寄せられた私だが、お金が無いとコンビニでは何も出来ないぐらいのルールはわかっていたが、それでも近寄らずにはいられなかった。
せめて明るい所に居たいと思った私は駐車場で壁際に蹲っていた。見上げたそこにいた彼らはいわゆる怖い人達だった。
思えば当時皆十代だったと思うが、小学生には大人も若者もそう変わらない。金髪でじゃらじゃらと鎖をつけた男やピアスだらけの男、それに格好の派手な女が合せて5,6人居た。
私は再び顔を埋めた。
「ちょ、今2時だぜ、やばくね?」
男が口々に何か言っているが、私には恐怖でしかなかった。再び小動物になり、嵐が過ぎるのを待った。
「おい、おまえ」
女の人の声がした。私に的が向いている事を感じて震えた。
「おまえだよ」
そう聞こえた瞬間、頭を覆っていた腕が引き剥がされ、強引に立たされた。秋に似合わない薄着だったのもあり、恐怖も相まって体がガタガタと震えた。
「ガキがこんな時間にあぶねーだろ、何やってんだよ」
私は伏目がちに屈んでいる女の人を見た。眉毛は無かったけど凄い美人の女の人だった。
「親は」
私は黙って俯いた。
「あれ? なんだこれ」
女の人は私の腕を吊り上げて、コンビニの明かりに照らすように乱暴に捻りまわした。私の体はぶらぶらと揺れた。
「おまえ……」
女の人が私の腕の痣に気付いたのだと思って手を振りほどき、腕を抱え込んだ。男の人達もひそひそとなにか話し合って変な雰囲気になった。沈黙が怖かったが、私の体はそんな事にはかまってはくれなかった。
あまりの空腹にぐうとお腹が鳴った。気まずい空気に耐えていると、女の人が言った。
「はぁ、めんどくせぇのに関わったなぁ、ちょっと来い!」
私は女の人に手を引かれて店内に入った。弁当の棚の前まで引っ張られて手が開放された。
「どれがいい」
私は美味しそうなおにぎりやサンドイッチを見た事でまたお腹がぐうと鳴ったが、何も言えなかった。
「ほんとめんどくせえな」
そういって女の人は乱暴におにぎりをいくつか鷲づかみにして熱いお茶を手に取り、すぐ横のレジに向くと、清算しているようだった。そして振り返って私に右手のレジ袋を差し出した。
私は本能的にそれをひったくると、走って店を飛び出した。すぐさま駐車場を抜けて通りに出た。
「おい!」
後ろから男の人の声が聞こえたけど追いかけてはこないようだった。私は走りに走った。そして公園に入ると植え込みの陰でしゃがみこんでおにぎりの梱包を毟り取った。
がつがつと頬張った、ひたすらがつがつと。すると久しぶりのまともな食事に涙が溢れ出た。「ふぅーん」と篭った声で泣いていると、人影が前に立った。
「こんなとこにいたのかよ、なんで逃げんだよ」
あの女の人だ。私は体をよじって半分背を向けた。
「取りゃしねーよ、ほらお茶忘れてるぞ」
そういって差し出されたボトルにビクっとしたが、恐る恐る受け取った。おずおずとキャップを開けると一口飲み、次に一気に流し込んだ。おにぎりを詰め込んだせいでパサパサになって滞っていたご飯が流れていく。
全部飲み込んでまたおにぎりの梱包を毟りとってがっついた。泣き声も上げた。
「相当腹へってたんだな、もっとゆっくり食えよ」
私はひたすらおにぎりをお茶で流し込んだ。
「あたしは理紗、おまえは」
私は手を止めてしばらく考えた。知らない大人に名前を教えてもいいのだろうか警戒した。しかし、家にいる大人よりマシな事は明らかだった。
「あい……」
「年は」
「9さい」
「は? 小ちゃくね、わかんねーけど」
私はろくに食事を与えられないせいで平均より体が小さいようだった。
「まあいいや、ほら行くぞ」
私は部屋の真ん中に突っ立って呆然としていた。広いけどテーブルとベッドとテレビしかない殺風景な部屋だった。私は理紗さんの車に乗せられて、彼女のマンションに連れてこられた。
「とにかく風呂入れ、おまえくせーぞ」
そう言って引っ張って行かれたバスルームであれよあれよと言うまに裸に剥かれた。私はあうあうと言葉にならない言葉を発するだけだった。
「あーあーこれまたやられちゃってんなー」
私は痣だらけの体が恥ずかしくて縮こまっていた。すると理紗さんは自分も服を脱いだ。再び手を引かれて浴室に入ると理紗さんは私を座らせてシャワーで洗い始めた。
頭を洗ったあと、体を洗う時は、痣の部分を優しく洗ってくれているのがわかった。私はわけのわからない感情に支配されてまた泣いてしまった。
「どうした、痛かったか」
私は全力で首を振った。理紗さんの手が暖かかった。忘れるほど遠い過去に経験した事を思い出したような気がした。
風呂上りに理沙さんは、私の腰にタオルを巻くと、携帯電話を開いて私の写真を撮り始めた。あらゆる角度から裸の写真を撮られて顔から火が出る思いだったが、理紗さんを信用して大人しく従った。
「ほら来い」
私はまたもや呆然と立ち尽くした。電気が消されて、ベッドのランプだけになった時、言い知れぬ不安がよぎったが、理紗さんがベッドに寝転がり、布団を開いてパンパンと叩いているのを見て驚いた。
理紗さんの大きなTシャツを頭から被り、腰にリボンを巻いて立ち尽くす私の顔を見て、理紗さんは呆れたように言う。
「ベッドも布団も一つしかねーんだからしょうがねえだろ」
私はおっかなびっくりベッドに手をつくと、もぞもぞと上って寝転がった。理沙さんがランプを消し、布団が掛けられるとしばらくして暖かくなってきた。布団がフカフカなのもあるが、一番の原因は理沙さんの体温だ。
「おやすみ」
「お、おやすみなさい」
私は緊張してなかなか眠れなかったが、理紗さんはすぐに寝息を立て始めた。窮屈そうに寝返りをうって背を向けた理沙さんにおそるおそる顔を向けてみる。
ゆっくりと、気付かれないように、背中に頬を寄せてみると、暖かい空気が漂っていた。私はまた涙が溢れた。
翌朝、目を醒ますと理紗さんは居なかった。でも不思議だった。知らない場所に1人取り残されたのに何故か心安らかだった。時計を見ると、10時を回った所だった。テーブルを見ると、お皿にラップがかかっていて、お茶碗とお椀が伏せられている。
良く見ると、皿の上にはスクランブルエッグとベーコンがのっている。その横にメモが置いてあった。
『チンして食え、味噌汁はあたためろ、ご飯はジャー』
玄関先のキッチンを見ると、火をつける事はできても鍋の中を見る事はできない高さだ。ジャーもしかり。電子レンジは冷蔵庫の上でとうてい届きそうにない。
私は家でも料理をした。大人の居ない間限定で、しかも材料が減ったとばれないように少しづつ。食器や鍋も洗って元の位置に戻して痕跡を消してた。その際には椅子を使っていたがここには椅子が無い。
私は風呂場から椅子を取り出して、台所に置くとその上に乗った。なんとか鍋の上に顔が出せた。しかしその時狭い椅子から足を滑らせて、取り縋った鍋ごとひっくり返ってしまった。壁や床が、飛び散った味噌汁まみれになってしまった。
その時、がちゃりと鍵が回ってドアが開いた。理紗さんが驚いた顔で倒れた私を見下ろしている。そして慌てたように靴を脱いで上ってきた。私は咄嗟に思った。殴られる。私は亀のように蹲って必死で訴えた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
理沙さんは味噌汁まみれの私に触ると言った。
「よかった、あっためる前だったんだな」
私はそんな理沙さんの言葉が理解できずに泣きじゃくった。
「ごべんなざいー」
理紗さんは私にシャワーを浴びさせ、頭を拭きながら言った。
「悪かったよ、おまえがちっちぇの忘れてた」
その後、部屋に干されていた元々着ていた服を着せてくれた。それからインスタントの味噌汁を作ってもらい、それでご飯を食べた。それが美味しくてまた涙が滲んだ。
「美味いか」
私は頷いた。
「あとな、あたしはおまえを殴ったりしない、これだけは覚えとけ」
また頷こうとした時、理紗さんの電話が鳴った。
「はいもしもーし、りっさでーす、ん? ああ、うちにいるよ、うん、んあー、だよなー、でもなんつーんだろ、ほっとけねーだろ、警察? 冗談じゃねーよ、あたしの素行知ってるだろ、既に監禁と思われても仕方ねーことしちゃってるしよー、……その、痣だらけだし」
理紗さんは私に聞こえないように時々小声で電話をしている。迷惑かけてるんだと思った。私はご飯を食べ終わると、理紗さんが向こうを向いているのを確認して、リュックを背負って玄関に向かおうとしたが、がつっと後ろに引っ張られた。
「ちょいちょいちょい、どこさいくだ!」
「あの、迷惑だから」
「あたしんとっから出て行ってちょろちょろされて誘拐されたほうが迷惑だっつーのいいから座れ!」
私は強制的に座らされた。理紗さんは電話を続ける。
「うん、うん、わーったわーった、いま取り込んでるから」
理紗さんは電話を切ると私に向き直って怖い顔をした。
「いいか、ガキが変な気ぃ使ってんじゃねーよ、ガキは大人しく大人の言う事聞いてりゃいいんだよ」
この部屋にきて初めて理紗さんを怖いと思った。体が震える。でも理紗さんは殴らないと言った。
「返事は!」
「……はい」
こうしてどこにも表現方法が無い2人の奇妙な生活が始まった。