ー精霊の地ー
ヒュウウゥッと風が鳴る音が響く。
一体何の音かと警戒しつつ耳を澄ました元彌の前に、視界を遮る分厚い水の壁があった。
元彌の守護精霊である凍舞の作り出したその壁は、敵から元彌達を守りつつ、彼等をどこか別の場所に運んでくれているようである。その目的地がどこかまでは知らなかったが、凍舞に絶大な信頼を寄せている元彌は、何の不安も抱いていなかった。
『どこに…行くんだろう。トラビィサに戻るんじゃないのか…?』
確か移動する前は、他の奴隷の子達はトラビィサの城へ転送したと凍舞は言っていた。
だから自分達もそこに行くものだと思っていたのに、どうやらどこか違う場所に運ばれているらしいと感じた元彌は、勘が外れた事に首を傾げつつも、特に焦るでもなく隣に立つ凍舞に目をやる。
そしてごく自然にこう尋ねた。
「ねぇ、凍舞。どこに向かってるの?何となくだけど、トラビィサの城じゃないよね?」
「ああ…違う」
相変わらず短い応えと共に、凍舞の透き通るような青い瞳が元彌に向けられる。男とわかっていても、一瞬ドキリとするほど美しいその顔に、僅かに憂いの表情を浮かべながら、凍舞は淡々とこう語った。
「…このまま大地の女王の元へ行く」
「はぁっ⁉︎ちょ、ちょっと待って?大地の女王がどこに居るのか知ってんの、凍舞⁉︎」
「もちろん知っている」
「もちろんって…じゃあなんで最初からそう言ってくれないの⁉︎」
思わず元彌がそう叫ぶ。確か大地の女王以下、すべての大地の精霊が国から消えたとダーミッシュ伯爵が語った時、凍舞は特に何の反応も示さなかった。
だから凍舞も女王達の行方は知らないものだと元彌は思い込んでいたが、実は居場所は知っていたという。
そうなるとなぜあの場で何も言わなかったのかという事になるのだが、その理由を凍舞は何でもない事のようにこう答えた。
「特に聞かれなかったからな。それにあの段階で居場所だけわかっても、何の益もない」
「いやいやいや…女王の居場所がわかってるのとわかってないのでは、行って来るほど違うからね⁉居場所さえわかっていれば、俺だって旅立つ前にもう少し詳しい話も聞けたし、この子だってもっと穏便な方法で助けられたかもしれないだろう?」
そう言って元彌は捲し立てたが、凍舞の方はまったく動揺も見せずにこう答える。
「無理だな…。あの段階で女王の前に立とうものなら、一瞬で八つ裂きにされる」
「え?またまた、そんな…」
「言っただろう?精霊は自分の欲求に素直だと。我が子を奪われて、逆上している女王に会ったところで話など出来ん。腹いせで八つ裂きにされるのがオチだ」
きっぱりとそう言われ、さすがにそれはないだろう言いかけた元彌に、彼等の近くに控えていた精霊の子がやんわりと肯定する。
「そうですね。母ならきっとそうすると思います」
「…わぁお、なかなかにハードなご性格のようで…」
ダラダラと蒼ざめた顔に冷や汗を流しつつ、元彌は引きつった笑いを浮かべてそう呟く。
いくら何でもハード過ぎだろっ⁉︎とツッコミたいところだが、種族が違えば常識も違う。
だから人間ではない彼等にとって、それは当たり前の感覚なのかもしれない。そう思ってはみたが、それでも心のどこかで納得出来ずにいる元彌に、さすがに言葉足らずだと気付いたのか、凍舞が静かにこう付け加えた。
「それほど精霊にとって、子は大事だという事だ。我々は人間に比べてかなり長寿だが、その分 繁殖力はかなり低い。子が生まれる事など、種族全体でも数百年に一度あるかないかだ」
「え、そんなに少ないの⁉︎じゃあ夫婦によっては一度も子に恵まれないって事も…?」
「…ザラにある。だからこそ生まれた子は、一族全員から大事にされる」
「そ、そっか…。それだったら確かに、めちゃくちゃ怒っても仕方ないかも…」
何となくではあるが、少し状況を飲み込めた元彌がそう呟く。するとその言葉を受けて、精霊の子が穏やかにこう語りかけてきた。
「本当に何から何までお世話になりまして…ありがとうこざいます、元彌様」
「へっ⁉︎いや…君を助けたのは俺じゃなくて、凍舞だからね⁉︎俺は何もしてないよ?」
慌ててそう否定する元彌に、精霊の子が静かに首を横に振る。そしてはっきりと凍舞の事も見据えながら、穏やかにこう答えた。
「確かに直接的に助けてくださったのは、水の御方になるでしょう。でも元彌様が願って下さらなかったら、あの御方が動く事はなかったはずです」
「そ…そんな事は…」
「いえ同じ精霊とはいえ、私達は属性が異なればお互いに関わり合いを持ちたがらない種族です。特にあの御方は、同族の方々とも距離を置かれているとお聞きしています」
「え、凍舞が…?」
思わずそう聞き返すと、精霊の子が静かに頷き返す。
それを受けて考え直してみた元彌は、凍舞と出会った時、彼が一人で氷の洞窟に居た事を思い出した。
今まで特に気にもしていなかったが、目の前に居る精霊の子は、たくさんの同族達と一緒に暮らし、人間のように交流があるような口振りである。
そうなると出会った時に氷の洞窟に一人で居た凍舞は、やはり『例外』という事になるのだろうか?
そう元彌が考えた時、その考えを吹き飛ばすかのように凍舞がこう告げた。
「着いたぞ」
「えっ?着いたって、どこに…?」
「決まっている。大地の女王の領域だ」
そう言うや否や、凍舞はスゥッと右手を横に振る。
途端に今まで元彌達を護り運んでいた水の壁が、唐突にその姿を崩した。
ザァッとまるでカーテンを捲るかのように、左端から右端にかけて、水の渦が流れと共に鮮やかにその姿を消していく。代わりに目の前に広がったのは、キラキラと輝く美しい森だった。
まるで木自身がそれぞれ光を蓄えているかのように、葉の一枚一枚に至るまでほんのりと白く輝き、その下には名も知らない色とりどりの花々が、それぞれの色を主張しながら咲き誇っている。
ここがどこなのか知らなくても、一目で特別な領域だとわかるほど、美しい場所だった。
その光景に思わず圧倒されつつも、自然と元彌の口から一つの言葉が零れ落ちる。
「ここが…大地の女王の領域…」
茫然としながら、それ以上何も言えずに立ち尽くす元彌に対し、相変わらず凍舞は何も語らない。
代わりにその場で口を開いたのは、連れて来た精霊の子の方だった。
「母様…っ!」
『吾子…‼︎』
頭の中に歓喜に満ちた心声が響き渡る。
そしてザァッと大きく風が凪ぐと、その場にたくさんの人々を従えた、一人の美しい女性が現れた。
緩やかに波打つ長い金髪に、宝石のように燦然と輝く緑の瞳。理想的に配置された目鼻立ちは、色気よりむしろ神々しさを感じさせ、その完璧な身体のラインと共に女神の彫像のような印象を醸し出している。
例えるなら春そのものを具現化したような、そんな完璧な美貌を備えた美女だった。
元彌もこの世界に来てから、たくさんの人達を見てきたが、それでも凍舞に匹敵するほどの美女に出会ったのはこれが初めてである。それほど彼女の美貌は抜きん出ており、その存在感はそこに在るすべての者達を圧倒して余りあるものだった。
そしてそんな美女向かって、お世辞にも綺麗は言い難い身なりの子供が、勢い良く駆け寄って抱きついていく。
「母様、母様…っ!」
「吾子…!よくぞ無事で…」
ヒシッと固く抱き合う親子の姿に、思わず我が事のように気持ちがほっこりするのを感じながら、ふと元彌は気づいてしまった。
『あれ…?さっき俺、凍舞に匹敵する美女だって思った…?』
間違いなく今そこに居るのは、大地の女王。
大地の精霊達のトップであり、この場でもっとも魔力に溢れた存在である。魔力の強さがそのまま容姿の美しさに比例するという精霊にとって、彼女の美貌は圧倒的に他から抜きん出ているはずであった。
ところがそんな彼女を見て、自分は『凍舞に匹敵する美女』だと思った。つまりそれは凍舞の持つ魔力が、大地の女王のそれに匹敵しているという事になる。
「え…?それってつまり…」
思わずそう口走った元彌の耳に、ふいに麗しい女性の声が響く。それは元彌に対してではなく、彼の隣に立つ守護精霊に対して向けられた言葉だった。
「久方振りですね、水の御方。同じ一族の者達すら遠ざけ、結界の奥深くに籠って居られると聞き及んでおりましたが…一体いつから人間などに仕えるようになったのです?」
少し毒のある物言いで、大地の女王が自分の後ろに控える凍舞を睨め付ける。整い過ぎるほど整った容姿の女王に凄まれ、美人って凄むとこんなに怖いのかとビビりまくる元彌に対し、実際に敵意を向けられた凍舞の方はというと、どこ吹く風でこう答えた。
「ちょうど二日前からだな…。甚だ不本意な事ではあるが、仕方ない」
相変わらず表情一つ変えずに淡々と事実を述べる凍舞に対し、元彌は凍舞らしいと呆れながらも、その関係性がまったく予想出来ずにひどく戸惑う。
先ほど違う種族の精霊同士は、あまり交流がないものだと聞いただけに、このよくわからない親しさは一体何なんだ?と首を捻った元彌は、ふと有り得なくもない一つの可能性に辿り着いてしまった。
『…あれ?もしかして、女王が凍舞の元カノって事はない…よねっ⁉︎な、何か単なる知り合いにしちゃあ、随分親しげだし?ま、まぁあの子の父親が凍舞って事はないとは思うけど、でもまったく普通の関係でもなさそうな…?』
と元彌が一人青くなったり赤くなったりしていると、その思考を読んだかのように女王の声が響いた。
「ふふ…っ、相変わらずな物言いですこと…。貴方のそういう所が良いと水の者達は申しますけれど、私には到底 理解出来ませんね」
サラリと言外に『凍舞の元カノ説』を否定されたのを感じながら、元彌はじゃあ二人の関係は何なんだ⁉︎と自らの傍ら立つ守護精霊へと視線を送る。
すると凍舞は、女王の失礼な物言いも気にした風もなく、あっさりとこう答えた。
「…同感だ。私も何故あいつらが、そうまでして私に拘り続けるのかがわからない」
相変わらず他人事のようにそう言い放つと、凍舞はひどく面倒くさそうに溜め息をつく。
その本気でどうでも良さそうな態度に、元彌は思わず心の中でツッコミを入れていた。
『あの…もしもし凍舞さん?もしかしてとは思いますが、貴方かなりおモテになるんでしょうかね?そりゃ男にしとくのが惜しいほどの美人だし?魔力の強さ=容姿の美しさという種族でいうなら、間違いなく俺の世界でいうところの勝ち組、エリートってやつですよねぇ?となるとあれだ。貴方はあまりもモテすぎたが故に、疲れて引きこもってしまったっていうやつなんですかねぇっ⁉︎』
若干イラッとしながら凍舞を睨みつけると、凍舞の方も視線を感じたのか無言で元彌を見つめ返す。
完全に八つ当たりだという自覚はあったが、それでも生まれてこの方、脇役でしかなかって元彌に言わせれば凍舞のそれは贅沢過ぎる悩みである。
『くぅ…っ!これだからイケメンって奴は…。数多居る脇役達の気持ちも、少しは考えてくれよなっ⁉︎』
と心の中で悪態をついていると、凍舞が怪訝な顔でこう尋ねてきた。
「…私が何かしたか、元彌?」
「いいえ〜?別に何もありませんけどぉ?」
「何もないという態度じゃないんだが…」
「あー…まぁそうっすね。うん、でも単なる僻みだから気にしないで」
引きつった笑顔でそう答えると、凍舞はますますわからないといった顔で首を傾げる。
そもそも生まれつき持っている者に、持たざる者の気持ちを分かれというのは無理がある話だ。
だがそれでもこればっかりは、自分も人間が出来てないのだからしょうがない。
そう思って開き直っていたら、ふいに離れたところから楽しげな含み笑いが聞こえてきた。
思わず声のした方に目を向けると、なんと大地の女王が実に楽しげに笑っている。訳も分からず凍舞と二人、呆然とそれを見つめていると、その視線に気付いた女王が、笑いを収めてこう話しかけてきた。
「しばらくお会いしない間に、水の御方は随分と丸くなられましたね。少し前の貴方でしたら、相手の事など気にもされなかったはずですのに…。一体いつからそんなに人間臭くなられたのです?」
「人間臭い…?私が?」
「ええ…元々精霊の中でも、水の種族の者は感情の起伏が少ないと言われておりますが、その中でも貴方は特に感情が少ない方として有名でした。けれど今は、実に感情豊かに表情に出していらっしゃる。これが人間臭くなったと言わずにおられましょうか」
にこやかにそしてきっぱりと言い切る女王に、嘘はまったく感じられない。 だが元彌は首を捻る。
昔の凍舞は、感情の起伏がほとんどなかったと女王は言ったが、元彌の知る限り凍舞は最初からこんな感じだったように思う。確かいきなり怒鳴られたし、掴み掛かられたし、呆れられたり馬鹿にされたりもした。
でもなんだかんだ言いつつも、元彌を見捨てずこうして護り助けてくれている。だから口数こそ少ないが、むしろ感情は豊かな方だと思っていたのだが、周りの精霊達の凍舞に対する印象は一体どういう事なんだ⁉︎
そう思った元彌は、思わずその疑問を口にしていた。
「こいつが感情に乏しい…?確かに口数は少ないし、表情にも出にくいみたいだけど…でも別に感情がない訳じゃないのは、見ればすぐわかるじゃないか」
不審そうにそう呟くと、途端に大地の女王がさらに楽しげに、そして凍舞がひどく嫌そうな表情になる。
その理由がよくわからず、元彌が怪訝な表情を見せると、女王がにこやかにこう話しかけてきた。
「なるほど…元彌様からご覧になると、水の御方は感情が表情に出にくいだけですか」
「うん。ちょっとわかりにくいだけで、むしろ感情は豊かな方だと思うんだけど…」
そう正直に答えると、元彌の意見を補足するからのように、横から精霊の子が口を開く。
「お母様…。元彌様の仰られる通り、水の御方は変わられました。私を人買い達からお救い下さったのは、元彌様と水の御方です」
そう子供が話すと、女王はふいに一人の母親の顔で愛しげに我が子の頭を撫で、その後スッと元彌と凍舞に向き直ると頭を垂れて跪いた。
そしてそんな女王に倣って、その場に居た全ての大地の精霊がザッと同じように頭を垂れて跪く。
その突然の行動に、呆気に取られる元彌に対し、女王はそのまま優雅に口上を述べ始めた。
「元彌様、水の御方…。我が吾子を人間達から取り戻していただき感謝致します」
「あ…いや、元々の原因は一部の良くない人達が仕出かした事であって、礼を言われるほどの事は何も…。それにこの子を助けてくれたのは凍舞であって、俺は何もしてないよ」
慌ててそう否定する元彌に対し、女王は静かに首を横に振る。そして確信めいた口調でこう続けた。
「いいえ…元彌様は飢える我が子に、快く食べ物を分け与えてくださいました。そして自らの危険も顧みずに、助けに行ってくださいました。元彌様がいらっしゃらなかったら、こうして吾子が無事に戻ってくる事はありませんでした。このお礼はいかにして、お返ししたらよろしいでしょうか?」
「あ。それだったら大地の精霊の皆さんに、元の土地に戻るよう言って貰えます?人買い達のせいで、たくさんの関係ない人達が困ってるみたいなので」
そう元彌が答えると、女王が驚きで目を見張る。
それを見て、何か変な事でも言ったか?と首を傾げる元彌に、女王は信じられないとばかりにこう呟いた。
「…そんな事でよろしいのですか?」
「え?逆にそれ以外に何かある?」
「例えばお金や宝物、特別な守護や永遠の命など…もっとこう、ご自身の為になるようなものは願われないので…?」
そう提案した女王に対し、元彌は実にあっけらかんとした態度でこう答える。
「うーん…でもお金は必要以上にあってもしょうがないし、宝物は持ち歩くの面倒そうだし…?あと凍舞が居るから守護も必要ないし、個人的に永遠の命とかも興味ないんだよね」
そうさらりと元彌が答えると、今度は他の精霊達が驚きで絶句する。だが元彌は元々楽しく生きられれば、物欲も名誉欲もないタイプだったので、急に何でもしてやると言われても特に何も思いつかないのだ。
それだったら確実に困っている人達の願いを叶えた方が、よっぽど有意義だろうと思ったのだが、何かそれがおかしかったのだろうか?と妙な不安に駆られたところで、女王が急に笑い出した。
突然の事に、今度は元彌の方が唖然として黙り込んでいると、女王の方がやけに納得したようにこう呟く。
「さすがは水の御方の選んだ主人。人間とは欲の塊とばかり思っておりましたが、元彌様のような方もいらっしゃるのですね…」
「え、変かな…?」
「いえ、我々精霊にとっては非常に好ましい御方かと。ただその分、ご苦労もされておられるのではないかと推察致します」
にこやかに悪気なくそう答えられ、元彌はそうかな?と首を捻る。まぁそう言われてみれば、学生時代はバイト先のさして仲良くもない同僚に、金を貸してくれと頼み込まれ、貸したらそのまま行方をくらまされた事は何度かあった。あとある友人に貸したはずの物が、いつの間にか全然関係もない奴等の間に回覧されてて、そのまま戻って来なかった事もよくあった。
他にも部屋に遊びに来た知人に、勝手に服やら鞄やらを持ち去られた事もあったし、ちょっといいなと思っていた女性に、良いようにアゴで使われた挙句、あっさりと捨てられた事もあった。
その都度、自分なりに落ち込んだり腹を立ててみたりもしたが、結局すぐどうでも良くなって、特に問題視もしていなかったのだが、もしかしてこれは普通ではないのだろうか?
だが元彌にしてみれば、いくら後悔してみたところで、起こってしまった事実は変えられないし、結果にはすべてそれに伴う原因もある。
自分の場合は、そうやって相手につけ込まれる隙があったからで、そして心のどこかでそうなっても仕方ないとしていた自分が居たからだと思う。
なので責任の一端は、自分にもあると思っていたのだが、普通はそうではないのだろうか…?
そう思っていたら、その考えを読んだかのように女王がこう語りかけてきた。
「あるがままを受け入れ、物事を冷静に判断する…。欲深い人間にとって、それはとても難しい事だと思いませんか?」
「はい?」
急に謎かけのような言葉を言われ、一体何の事かわからず元彌がそう聞き返すと、女王は特に気にした風もなくこう続ける。
「人間は自分が不利益を被った場合、何かと理由をつけては、それを他者や運のせいにしたがるものです。けれど元彌様は冷静に状況を判断され、自身の非をお認めになる事も厭わない…。なかなか出来る事ではありませんよ」
そう美人な女王に褒められ、元彌は少し照れながらも盛大に首を横に振る。何故か女王の中で、自分への評価が高くなっているようだが、そもそも自分はさして立派な人間ではない。今回の件も、たまたまそ日本人特有の気質で物事を曖昧にしてきた結果、たまたま良い方向に向かっただけの話だ。崇高な目的もなければ、特に褒められるほどの内容でもない。
それに自分の行動自体が、刷り込みのように教えられてきた日本人の道徳観に依るものなので、正直それがこの世界の常識に当てはまっているとは言い難い。
ただ自分がそれ以外の価値観を知らないので、自然とそうしてしまうだけなのである。
『まぁ物事を白黒だけで判断するという精霊にとって、グレーな考え方をするってのは、予想もつかない事なんだろうな。Noと言えない日本人は、欧米人にとっても異色な人種らしいし…。ましてや住んでいる世界も種族も違う者が、到底理解出来るはずもない』
そう元彌は判断したが、女王の反応は違っていた。
彼女は跪いたまま、再び深く頭を垂れると、よく通る美しい声でこう宣言したのだ。
「元彌様…。改めて吾子をお救いいただき、御礼を申し上げます。此度の事は非常に許し難き事なれど、それでも貴方様がそう申されるのならば、全てを水に流し、配下の者達を元の土地に戻しましょう」
「あ…うん。そうしてくれると助かるかな」
思わず気圧されつつも、元彌が呑気にそう答えると、それを受けて女王がニッコリと笑う。
その笑顔に何となく嫌な予感を感じた途端、女王が実にとんでもない事を言い出したのだ。
「つきましては、元彌様。私からも少々お願い事がございまして…」
「お、お願い…?俺に??」
「はい。ここに居る我が吾子を、ぜひ貴方様の同行者として、お連れいただけないでしょうか?」
一瞬何を言われたのか、わからなかった。
聞こえなかったわけではないが、脳が理解を拒否したような気がして、ゆっくりと頭の中で女王に言われた言葉を反芻してみる。
『…えーっと、女王は何て言った?確かここに居る自分の子を俺の同行者に…そう、同行者…。んんっ⁉︎ど、同行者ぁっ⁉︎』
その言葉の意味を理解した途端、思わず元彌の口から驚きの叫びが漏れる。
「は…ぁあああっ⁉︎」
「よろしいでしょうか?」
「はっ?え?よ、よろしいも何も…えぇっ⁉︎な、何がどうしてそうなったのっ⁉︎」
軽くパニックになりながらもそう尋ねると、女王はにべもなくこう答える。
「元彌様は…吾子をお助けくださった礼は、元の土地に精霊が戻る事だけでいいと仰る。しかしそれだと、元彌様ご自身への還元にはなっておりません」
「え…っと…まぁ、そうなるの…かな?」
「はい。そして元彌様はお金や宝物、特別な守護や永遠の命など、普通の人間が欲しがるような物には興味がないと仰る。となると、我々には現時点で元彌様にお返しできるものが、何もございません」
「は…はぁ」
「そこで受けたご恩を返し終わるまで、吾子を元彌様に同行させたく…お許しいただけますでしょうか?」
突然思ってもいなかった提案をされ、元彌はパニクりつつも必死でそれを断ろうとした。
そもそもやっと親元に帰れた子を、また親から引き離して連れ歩くだなんて、とんでもない話だ。
子供は親と共に在るべきで、自分なんかと共に居るべきではない。そう思うのに、なんと件の精霊の子からも、元彌への不満の言葉が零れ落ちる。
「元彌様…私では足手纏いでしょうか?確かに元彌様には、すでに水の御方がいらっしゃいますが…」
「へっ?いや…その…せっかくお母さんの元に戻れたのに、なんでまた俺と旅に出る必要があるの?ここに帰りたかったんでしょ?」
思わずそう突っ込むと、精霊の子は人懐っこい笑みを浮かべながらこう答える。
「…確かに突然連れ去られましたので、帰りたいとは思っていました。けれど元々近いうちに、旅立つ予定ではあったのです」
「へ⁉︎どういう事⁉︎」
突然思いもかけない事を言われ、元彌がわかりやすく動揺する。すると精霊の子は、丁寧にわかりやすくその理由を教えてくれた。
「我々大地の精霊は、成人する際に二つの道のどちらかを選びます。一つはこの聖域で、女王と共に世界を支える礎となる事。もう一つはこの地を離れ、自分に合う土地へと移動しそこに根ざす事。ただし私の場合は女王の後を継ぐ者ですので、後者の道を選ぶ事は出来ません」
淡々とそう語りながら、精霊の子がひどく大人びた表情を見せる。そして子供はにべもなく、こう告げた。
「しかし母女王が健在の今、この地で私がすべき事はあまりないのです。ですからこういう時期の次代は、知見を広める上でもあえてこの地を離れ、世界を旅して回るのです」
「え?そ、そうなんだ??」
「はい。ですので特に行き先も決まってない旅ですので、ご恩をお返しがてら元彌様に同行させていただければ、私も助かります」
ニッコリと微笑みながら、精霊の子がそう告げる。
見た目こそまだ幼い子供だが、そこは何百年と生きる精霊、考えも口調もすでに大人のそれであった。
それを受けて、元彌は迷ったように自らの後ろに控える凍舞へと視線を送る。するとその意を汲んで、凍舞が彼らしく淡々とこう答えた。
「…好きにするといい。私は気にしない」
「ホントに…?無理してない?」
「別に私の事を気にする必要はないと言っただろう?お前の旅なんだ、好きにするといい」
そう冷たく言い放った凍舞だったが、元彌は納得いかないとばかりに詰め寄って来る。
「いや、凍舞の旅でもあるだろ?それに俺のせいで、行きたくもない旅に連れ出してるわけだし…。それに凍舞は俺が来るまで、ずっと一人で引き篭ってたそうじゃないか。そんなぼっち大好き凍舞に、無駄に精神的な苦痛を与え続けるわけにはいかないんだよ!」
そう真面目に元彌が言い募ると、途端に周囲から実に楽しげな含み笑いが聞こえてくる。
びっくりして周りを見回すと、女王を始めその場に居た全員が、笑いを堪えきれずに肩を震わせていた。
そんな中、凍舞だけがまるで苦虫を噛み潰したような表情で、そこに立っている。
そして心底嫌そうな顔ですら見惚れるほど美しい凍舞が、呆れたような溜め息と共にこう呟いた。
「元彌、お前は私を何だと思ってるんだ?」
「んー…ヒッキーでコミュ障なツンデレ?」
「ヒッキー…?コミュ障?なんだそれは?」
「あ、ヒッキーってのはね、引き篭りの人の事ね。コミュ障はコミュニケーション障害の略、ツンデレは思ってる事と逆な事をしたり言ったりする、とっても素直じゃない人の事だよ」
そう元彌が解説すると、堪え切れなくなった大地の精霊達が、声を上げて笑い出す。
そして何がおかしかったのかと首を傾げる元彌に向かい、軽く額に手を添えた凍舞がボソッとこう呟いた。
「…つまりお前から見た私の印象は、そういう感じなんだな…?」
「え?逆に他の人にはどう見えてんの?」
そう元彌が聞き返すと、その疑問に応えるべく、笑いをおさめて女王が口を開く。
「ふふ…っ、失礼ながら水の御方をそう評するのは、世界広しと言えど元彌様だけでしょうね」
「え、嘘?俺だけなのっ⁉︎」
「はい。そもそも元彌様は、彼の御方が表現するのが苦手なだけで、実に感情豊かだと言っておられましたが、少なくとも私達の知るこの御方は、そういう方ではありません」
「え、どう違うの?」
キョトンとする元彌に、女王が穏やかに微笑みながら言葉を続ける。
「良くも悪くも全ての事に無関心…とでも申しましょうか。少なくとも以前のこの御方なら余程の事でもない限り、我等の前に姿を現わす事はなかったはずです。ましてや他の誰かの為に動いたり、関係のない者を助けたりなど、考えもされなかった事でしょう」
そう語りつつ、女王は自らの視線を元彌へと移す。
そして女王の美しい緑の瞳が元彌の姿を捉えると、彼女は静かにこう続けた。
「…貴方様が変えたのですよ、元彌様。私は彼の御方とそれなりに長い付き合いですが、あんなに感情豊かに誰かと接する姿をを見たのは初めてです」
「え、嘘…マジで…?」
「はい、神に誓って」
あっさりと神にまで誓われ、元彌が呆然とする。
自分と凍舞は、出会ってまだ二日。
誰から見ても、まだまだこれからの関係だと思う。
それなのに凍舞は、すでにこの場に居る誰よりも自分に心を許してくれていると言う。
その事が照れ臭くもあり、純粋に嬉しくも感じた。
でもそれは裏を返せば、それだけ今の状態が凍舞にとって非常に不自然だという事でもある。
なので改めて自分の仕出かした事の重大さを理解した元彌は、誰が見てもわかるほどシュンとしながらも、凍舞に向かってこう呟いた。
「改めてごめん…凍舞。俺が考えなしだったせいで、苦手な人前に引っ張り出す事になって…」
「別に…。きっかけはお前との主従契約ではあるが、最終的にこうする事を選んだのは私自身だ。お前が気に病むことではない」
「で、でも…っ」
「私が良いと言っている。忘れたのか?私はいつでもお前との契約など反故に出来るのだという事を…」
相変わらず淡々と、何の感情も読み取れない様子で凍舞が答える。それでも元彌にはわかってしまった。
それが凍舞なりの精一杯の気遣いだという事を…。
だから元彌は少し困ったような、はにかんだような表情でこう返す。
「…うん、理論的に出来るのは知ってる。でも凍舞は反故にはしないだろう?だって主従契約を切るには、俺を殺さないといけないからね」
そう告げた元彌に対し、凍舞は何も答えなかった。
そして元彌は、そのまま続けてこう語る。
「だから…ごめんね?俺はまだ死にたくないからさ。凍舞には悪いけど、当分は俺の我儘に付き合ってよ」
ニコッと笑ってそう言い切ると、凍舞は仕方ないなと言わんばかりに溜め息をつく。
そしてそれを無言の了承と受け取った元彌は、改めて精霊の子に向き直り穏やかにこう答えた。
「恩を返すとかそういうのはどうでもいいんだけど、君が一人旅をするのは俺も心配かな…?一度攫われているわけだしね。だから君さえ良ければ歓迎するよ。旅は道連れと言うしね」
「…!ありがとうございます、元彌様」
ぱぁっと輝くような笑顔で、精霊の子がそう答える。
薄汚れた格好に、顔の半分を覆うボサボサの前髪。
細かな表情まではわからなかったが、それでも全身から嬉しいという感情が溢れ出ているのがわかった。
だからそれを見た元彌の口から、自然とこんな言葉が零れ落ちる。
「君はまるで花のように、周囲を明るく和ませる力を持ってるね。それは大地の精霊だからなのかな…?」
そう言われた精霊の子は、ひどく驚いた様子で暫し固まると、次いで大人びた口調でこう答えた。
「…元彌様はこの姿の私でも、そう仰るのですね」
「え?だって『和む』ってのはその人の持つ雰囲気であって、見た目の話じゃないだろ?」
キョトンとした顔で聞き返す元彌に、精霊の子がふわりと穏やかな笑みを見せる。そして精霊の子は、意を決したように元彌に向き直ると、突然こう願い出た。
「…決めました。元彌様、ぜひ私にも名付けを行っていただけませんか?」
あまりに唐突な申し出に、元彌は一瞬何を言われたのかわからなかった。しかし暫くしてその言葉の意味を理解した途端、思わず元彌はこう叫ぶ。
「はぁっ⁉︎ちょ、ちょっと名付けって…そんな事したら俺と主従契約が結ばれちゃって、君の自由がなくなるじゃん!」
「はい、私は貴方様にお仕えしたいのです」
「ちょ…っ待って、待って、待って⁉︎な、何でそんな事になるわけ⁉︎」
「それは私が元彌様を気に入ったからです」
ニッコリと笑いながら、精霊の子がそう返す。
そして動揺しまくる元彌に対し、精霊の子はあくまでも冷静にこう説明した。
「元彌様は何の見返りも求めず、私をお助けくださいました。そして出会ったばかりの私の身を案じ、旅に同行する許可もくださいました。ですから私はそんな元彌様に、何かをお返ししたいのです。そして幸いな事に私は精霊ですので、余りあるほど長い寿命を持っています。ですので元彌様の人生に最後までお付き合いさせて頂いたとしても、大した時間のロスにもなりません。ちょうど良いと思いませんか?」
にこやかにそして理路整然と精霊の子がそう告げる。
あまりにもあっさり話すので、大した事ではないように感じてしまうが、よくよく考えると相手の人生の一部を支配してしまうという大変な事である。
しかも寄りにもよって、相手は次期精霊王。
言わばエリート中のエリートなわけで、そんなすごい人物を平凡としか言えない自分が、意図的に支配するだなんてとんでもない話だ。これはもう丁重にお断りするしかない!と元彌が心の中で思っていたら、ふいに凍舞が予想だにしなかった言葉を口にした。
「せっかく相手がこう言っているのだから、名付けてやったらどうだ、元彌?」
「はっ⁉︎それって有りなのっ⁉︎」
「別にお前を殺す為の口実では無さそうだし、いいんじゃないか?」
平然とそう答える凍舞に、思わず元彌の方が焦る。
「え、でも名付けって主従契約なんでしょ?」
「そうだな」
「つまり凍舞に引き続いて、この子も俺の支配下に置いちゃうってわけで…それっていいの⁉︎」
「本人がそれで良いと言っているのだから、構わないだろう」
淡々とそう答えられ、元彌が言葉を無くす。
そこに畳み掛けるように、精霊の子がこう継いだ。
「名を頂くという行為は、精霊側にとってもメリットがある話なのです」
「…え?」
「名がないという事は、個々に存在しているようでいて、全体でもあるという事です。つまり個体としての存在が非常に不安定…。けれど名を頂く事によって、その個体は確立します。つまり名付けは、個体として全体から切り分かれる行為なのです」
「…えーっと、よくわかんないんだけど、つまり名前をつけられる事で、その存在が強くなるって事…?」
「はい、簡単に言うとそうなります。例えば今こうして元彌様と話している私は、個体として存在しているようでいて、実は他の精霊達と変わりがありません。つまり存在していないのと同じなのです」
ニコッと微笑みながら、精霊の子がそう答える。
それに対し、元彌は困ったように視線を返した。
何となくではあるが、精霊の子が言いたい事は、理解出来たように思う。おそらく精霊は自然そのものが具現化したものだから、目の前に居る精霊の子も他の大地の精霊もさして変わらない存在なのだろう。
つまり緑豊かな大地もあれば、渇いた砂だけの大地もあるように、見た目は違えど皆同じ大地という事だ。
そう結論付けた元彌は、自分の考えを確認するかのように、自らの精霊に向かってこう尋ねる。
「つまり凍舞の場合は、水の精霊ではあるけれど俺が名付けた時点で『凍舞』という別の存在になっているって事だよな?」
「そうだ。だが私の本質が、水に基づくものであるのは変わらない」
「じゃあこの子も…?」
「ああ、名付ける事で別個体とはなるが、次期精霊王となる存在であるのは変わらない」
淡々とそう答える凍舞に、元彌は静かに頷く。
そして改めて精霊の子へと向き直ると、真剣な表情でこう訊ねた。
「その…本当にいいのか?いくらレベルアップする話だとしても、よく知りもしない人間に支配されるってのは、あまり気分が良くないものだろう?」
「そうですね。正直そこらの人間の支配下に入るのは私も御免です。でも元彌様の下なら大歓迎です」
「…よくわからないな。いくら気に入ったからって、そんな簡単に決めちゃっていい事なのか?」
そう訊ねた元彌に、精霊の子が明るく答える。
「多分…元彌様が思っている以上に、私は貴方の事を理解出来ていると思いますよ?それにお互いの利害が一致するなら、精霊側から望んで主従契約を結ぶ事もあります」
「そうなの?」
「はい。だからそこまで元彌様が、気に病まれるほどの事ではありません」
ニコニコと笑みを絶やさず、精霊の子がそう答える。
その迷いのない笑顔に、ふいに華やかに咲き誇る一つの花の姿が重なった。
『ああ、そうか…。切ないほど優しく美しく、そして見る者を全てを幻想へと誘うような花…』
そう思った元彌の頭の中に、精霊の子に相応しい一つの名がはっきりと浮かんでいた。
続く