突然の訪問者
幸一と奈津子の結婚も決まり、穏やかな日々が続く中、ある日、休みをもらった彩が近くの定食屋で遅めの朝食を取っていた時、突然現れた若者に声をかけられた。
「海堂先生、初めまして、丸々大学病院で研修医をしている松山と言います。先日のオペを見せていただきました。感激しました。夜、父に連絡するととても喜んでいました。父は、伐々大学病院の総合診療科の松山と言います。会うことがあればよろしくお伝えくださいとのことでした」
「ええっー、松山教授の息子さんなんですか?」
顔を上げて一生懸命にあいさつする若者を見つめていた彩は驚いた。
「はい、父からお噂はよく聞かされていました」
「そうなの? あっ、よろしかったらどうぞ」
「えっ、よろしいんですか?」
「どうぞ、どうぞ……」
「感激です。海堂先生と向かい合って座ることができるなんて夢のようです」
「ちょ、ちょっと待って下さい。メスを握ることしか能のないただの医師なんですから、そんなに言わないでくださいよ」彼女は照れくさそうに話した。
「はい、いえっ、でも……」
「お父様はお元気ですか?」
「はい」
「あなたのお父様にはとても良くしていただきました」
彩は微笑みながら、伐々大学病院を追われた日のことを思いだしていた。
お世話になった高島教授が突然亡くなった後、准教授だった滝宮が後任の座につくと、彩の指導医だった長島裕也と彼女は、大学病院を追われることとなった。
その最後の日、挨拶に行った松山教授のところで彼女は生まれて初めてと言っても過言ではないほど、とてもおいしいコーヒーをご馳走になった。
「海堂君、以前高島教授から君が酸味の強いコーヒーが好きだって聞いて、いつかおいしいコーヒーを飲ませてあげようと思ってこの特性モカを用意していたんだよ」
「ありがとうございます。こんなおいしいコーヒーは生まれて初めてです」
「酸味の強いコーヒーだったら、モカがいいね。 色々な店でモカを飲んでみれば、いつか、自分の舌にあったものを見つけることができるよ」
「はい、ありがとうございます。いろいろご指導いただいたのに何の恩返しもできないまま、大学を追われることになってしまって……」
「人生もコーヒーと同じだよ。いつか、君のいるべき場所にたどり着くよ」
「教授……」
「高島先生がいつも言っていたよ。君はいつか神の領域に足を踏み入れるって…… 君の指先には魂が宿っているって…… 私も君のオペを見て、その片鱗を見せてもらったような気がしている。 腐ったらだめだよ、高島先生がおっしゃっていたように、とにかく経験を積みなさい。必ず見えてくるものがあるはずだ。 そうすれば必然的に自分のいるべき場所も見えてくるよ」
「教授、ありがとうございます。今後がどうなるのかよくわかりませんが、それでも後ろだけは見たくないので頑張って前を向いて進んでみます」
「うん、それがいい。長島君はアメリカへ行くらしいが、彼が証明してくれるよ! おそらく彼の腕があれば一年もしない内に、頭角を現してくるよ。力があれば生きていける世界だからね。その時の滝宮の顔が見てみたいよ」
誰もが形式的な対応をする中で、この松山教授だけは、長島裕也と彩の将来を信じ、そして別れを惜しんでくれた人であった。
その息子は、先日の彩のオペを目の当たりにして、外科医を目指している自分があまりにも愚かで、恐いもの知らずであったことを実感し、専門を変更しようかと考えていることを父に報告した。
その父は、「海堂先生と一度話して見たら」と提案したが、息子からすれば、これまで雲の上の存在だった海堂彩が、先日のオペで神そのものだと思ってしまうような錯覚の中、とても恐れ多くて話などできない。話しかけたって、相手にもしてもらうことができない、そんな高いところに居る人だ、と胸の内を話した。
すると父親は
「彼女は決してそんな人間ではない。誰よりも人の命を救うことに懸命な人だ。そのために彼女は自らの腕を磨くことはもちろん、後に続く者を育てることにも労をおしまない。医師としてだけでなく、人間としてもトップクラスなんだよ」と息子に説いた。
偶然、当直明けに定食屋で彩を見かけた彼の背中を、父親のこの言葉が押したのだった。
「先日のオペを見て、何か勉強になることがありましたか?」
「はい、自分が愚かで身の程知らずだったことを思い知りました」彼はれがすがすがしく答えたが
「えっ」彩は驚いた。
「私には外科医は無理だと思いました。でも、なんかとてもすっきりしました。自分にあった道を探そうと思っています」
彼は微笑んだが
「ちょっと待って下さい。私のメスを見て、そう思ったのですか?」
「はい、とても私なんか、これから何十年努力しても先生の半分にも届きません」
「だから外科医は諦めるのですか?」
「はい……」目つきの変わってきた彩に、彼は少し驚いた。
「それは間違っていると思いますよ」
「えっ」
「あなたは私のことをすごい医師だと思っているのかもしれないけど、私にできるのは、メスを繊細に扱うことだけ、たったのそれだけよ。名医って言うのはね、誰も特定できない病を見つけたり、様々な検査情報から患部を特定したり、あるいはオペに入って、開いては見たけど、思いもよらない状況に遭遇して、それでも冷静にそれを判断して、アプローチの方法を変えたり、オペそのものを変更してでも、患者の命を救うことができる、そんな医師のことだと思うのよ」
「先生……」 ( 確かにそうかもしれない……)
「あなたの父上こそ、名医ですよっ! だれも特定できない患部をあなたの父上が特定して、尊敬する指導医とオペをしたことがあります。その時、あなたの父上は、患部を特定したうえで、さらに別の可能性も指示されていた。 開いたらあなたの父上の心配していた通りだった。 あなたの父上の情報があったから、目視できない部分を検証して、別の患部を見つけだし、処置することができました。 その時、あの長島医師が言っていました。 『俺たちは切るだけしかできない。切るべき場所を知らせてくれる医師がいるから切ることができるんだ。お前もこのことは覚えておく方がいい。決して一人では何もできないんだ』って…… あなたは自分の父上が、そんな名医だっていうことをご存知ですか?」
彩が渾身の思いで訴える。
「先生……」 ( なんか、すごい、この人はすごい!)
「先日、オペの時に、終始、私の右サイドに位置し、器械出しをしてくれた日本一の看護師は、私が指示した器械を二度否定しました。でも結果、それが正解でした。これはよくあることなのです。そして、終始患者に注意を払いながら、最後まで気を緩めなかった日本一の麻酔科医や他のスタッフに支えられていたことがわかりましたか?」
「……」
「戦っていたのは私一人じゃないんです。こんなすごいスタッフに守られているから、私はメスを動かすことができるんです」
「……」
( そう言うことか、この人は決して驕ることなく、自分を支えてくれる人に敬意を払っているんだ…… )
「私はメスを動かすことしかできないけど、私にはできないことをできる外科医がたくさんいます。外科医に対する認識が軽薄すぎるのではないですか?」最初の穏やかだった彩は姿を消していた。
「……」彼は俯いたまま彩に聞き入っていたが、思いもよらず非難されたことに、少し困惑していた。
( この人は自分を知っているんだ、確かに言われてみれば、メス以外でこの人の話を聞いたことがない……)
「あなたの人生です。どの道に進んでも人の命を救うことを第一に考えることができる医師であれば、それでいいと思います。だけど、あなたが望んであなたのいるべき場所であることが大事だと思います。メスしか扱えない外科医のメスを見て、外科医の全ての部分で及ばないなんて考えるのは愚かではないですか?」
懸命に訴える彩の思いが彼の心に突き刺さって来た。
「先生、ありがとうございます。勇気をもって話しかけてみて良かったです。先生のおっしゃりたいことがわかるような気がします。あんなに素晴らしいオペを見せていただいたのに、情けない限りです。もう一度、しっかりと考えてみます」
そこまで俯いて耳を傾けていた松山は静かに頭をもたげると、しっかりと彩を見つめ答えた。
「そうですね、その上で出した結論であれば、お父様も喜ぶでしょうし、私もうれしいです」優しく微笑んだ彩を見て
( かわいい、こんなかわいい人なんだ…… )そう思った彼は頬がほんのり熱くなるのを感じた。
「遠慮しなくてもいいですよ、何かあればいつでも来てください……」
「はい、ありがとうございます」
メスを持たない海堂彩を見て、その彼女に微笑んでもらった彼は、その女性としての魅力に取りつかれてしまった。