初めての思い
病院長の妻、玲子は、おそらく彩は深夜0時前には目覚めるであろうと思い仮眠室に明かりがともるのを待っていた。
明かりがともると、彼女は甘い卵焼きに白菜の漬物を添え、お茶漬けの準備をしてその部屋を覗いた。
「お疲れ様…… 」
彩がちょうど浴室から出てきたところであった。
「よく眠りました…… うわー、感激です。お腹すいて倒れそうでした」
用意されたお茶漬けを見て彩は目を輝かせた。
「お腹すいたでしょ。朝食べたきりだものね……」玲子がやさしく微笑む。
「ありがとうございます。こんなことをしてくれるのおばさん…… あっ、ごめんなさい」
「いいわよ、おばさんでいいのよ」
「すいません……」
「さっ、食べて……」
「はいっ」
「この大好物、知っているの、おばさんだけですよね」
「最近は、懐石料理やらお肉やら、彩ちゃんの不得意なものが続いていたから、こんな時は、これがいいだろうって思ってね」
「ほんとに感激です」彩は嬉しそうだった。
「でも、すごい手術だったわね」
「そうですね、さすがに疲れ果ててしまいました……」顔を上げた彩は
「初めて、両親に感謝しました」と微笑んだ。
「えっ……」
「オペが終わって初めて両親を思いました」彩は玲子を一瞥した後、ふっと遠くを見つめた。
「……」
「今回、正直言ってオペそのものには何の不安も感じていませんでした。ただ、心配だったのは、私の体力と精神力でした。以前に六時間のオペを一人で乗り切ったことがありましたので、そこまでは自信がありました。だからできれば三時までには終わらせたいと思っていたんです。でも、六時間を超えてしまって、メスを走らせながら……」彩が静かに俯いた。
「……」玲子は目を見開いたまま、彩を見つめていた。
「お願い、最後まで…… 最後まで守って! って心の中で叫んでいました」
顔を上げた彼女は、何かを吐き出すように言葉にした。
「彩ちゃん……」
「だから、これで終了って思って、メスを置いた時、両親を思い浮かべて、ありがとうってお礼を言っていました。こんな小さな身体だけど、丈夫に産んでくれてありがとうって、この指先を授けてくれてありがとうって…… 」
「彩ちゃん……」玲子は涙を浮かべながら彼女を見つめた。
「小さい頃は、早く亡くなってしまった両親を恨んでいましたから、おばさんには一杯迷惑をかけてしまって……」
「彩ちゃん」
玲子は、そんなことはないのよ、と言わんばかりに頭を小さく振った。
「お父さんやお母さんがどんな思いで亡くなっていったのか、それを考えて上げてって…… どんなに私のことを思って旅立ったのか想像がつかないって、おばさんがいつもそう言って諭してくれたのに、そのことがわからなくて……」
「彩ちゃん……」
玲子は思いを言葉に載せようとするが、嗚咽に遮られ言葉が出ない。彼女は彩の心の奥深くに眠る両親に対する恨みにも近いような思いを取り除いてあげることができずに、ずっと心を痛めていた。
いつしか時の流れとともに両親のことを忘れてしまったかのようにふるまう彩に、彼女は自分の愚かさを責め続けていた。
( 彩ちゃんは、こんな小さな身体で、頑張って生きている。多くの人の命を救い、多くの人々に希望を蘇らせて、それでも立ち止まることなく走り続けているのに、私は、彩ちゃんのたった一つの怨念を払ってあげることができない……)
玲子はそう思っていつも自分を責め続けていた。
しかし、その彩が生まれて初めて両親に向き合ってくれたことは、彼女にとってこの上ない喜びであった。
「いつの日か、両親が眠る地に行ってみようって思います」
彩は、遠く一点を見つめるように呟いた。
「アフリカへ?」
「はい、今日、初めて両親に守って……ってお願いして、初めて両親の笑顔を見ました。お父さんが大丈夫だよって、お母さんが最後まで守るからねって……」そこまで言うと彩は泣き崩れてしまった。
彩の隣に移動した玲子は、彼女を抱きかかえるように背中をさすりながら
「いつか、真実を話させて…… 今まで腫れ物に触るみたいで、何も彩ちゃんには話せなかったけど、いつか真実を話させて……」
「ありがとうございます。私が聞く耳を持たないから、おばさんをずっと苦しめていたんですね、ごめんなさい、全く気が付かなくて……」
「ううーん、そんなことは何でもないの、でも私にも後悔していることがあるの…… だからいつか彩ちゃんには聞いて欲しいって思っているの……」玲子も昔を思い出していた。
「すいません、疲れているのは私だけじゃないのに……」突然、顔を上げた彩は涙をぬぐって、思いだしたように微笑んだ。
「大丈夫よ」
「でも、良かったです。幸一も相当に疲れたと思いますよ。こんなのは初めてでしょ」
「そうね、あの子も爆睡しているわ……」
「彼は、すごい麻酔科医です。あんな麻酔科医とオペしたのは初めてです。ほんとにうれしかったです」
「ありがとう。彩ちゃんがほめていたって聞いたらとても喜ぶと思うわ」
「とんでもないです。あっ、奈津子はどうしましたか?」
「今日はうちで泊まってもらったの。彼女も爆睡、瑠璃ちゃんをお風呂に入れて寝かせてから来たのよ、そろそろかなって思って……」
「ほんとにうれしいです」
このオペはあっという間に全国に知れ渡り、国内において海堂彩のその実力が本物であることを誰もが知るところとなった。
これまで、【神の指先】を持つ女、【零の隙間】にメスをいれる女などと医療雑誌で何度も取り上げられ、有名にはなってはいたが、ほとんどの者は、彼女が若くて美人だからもてはやされているだけで、医師としての実力は疑わしいという見解を持っていた。
しかしながらこの度のオペを見学した若手医師達の驚嘆の思いが生々しく全国を駆け巡ったことにより、真にトップレベルの医師として、誰もが彼女を認めるところとなった。