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神の指先がささやく  作者: 此道一歩
第3章 6時間を超えた彩の祈り
6/26

未知の時間帯

 そして翌日、彩の希望で午前九時にオペが始まった。

 モニター室では十人を超える若手医師が真剣な表情で画面に釘付けになっていた。

さすがにこの日は、西塔会病院の理事長、患者の妻である髙井亜美も駆け付け、病院長室でモニターを見つめていた。


 彩のメスはまさに神業としか言いようがなかった。彼女がメスを操っているというよりは、むしろメスが彼女の指先を導いているようにも見える。

 見ているものは皆、生唾を飲み込みながら、息を止めて彼女のメスに見入っていた。

 彼女は二時間もしないうちに、視神経を取り巻くガン細胞以外は、そのほとんどを取り除いてしまった。

 しかし、視神経を巻き込むように付着しているがん細胞は、視神経との境が全く目視できず、誰もがここは無理だ…… と思った。

 モニター室でも大きなため息が漏れた。


 彩も目を閉じ、天を仰ぎしばらく呼吸を整えた。


 それは彼女の無念だろう、そして悔しさにちがいない。人のなせる業には限りがあることをかみ締めているのだろう。

 ここまでのメスだって神業に近い、彼女だからこそなせる業に違いない、でも仕方ない、ここまでだろう……!

誰もがそう思って半ば諦めていた。

 

 しかし、二分間、呼吸を整えた彩は再びメスを動かし始めた。

「止めるべきだ……」、「できる訳がないっ」、モニター室ではそんな嘆きに近い声も聞こえた。

だが、彩に迷いはなかった。

 張り詰めた視神経と、それを巻き込むガン細胞にはかすかな弾力の差がある。

 それを知っている彩はメス先をさらに繊細に操りながら、目視できない視神経を探り、少しずつ、わずかずつ、がん細胞を取り除いていった。


 静まり返ったモニター室では、ここまでにはなかった極限状態の緊張感が、何とも言えない暗雲を立ち込めていた。

 あの海堂彩がミスをするかもしれない…… 見ている者の中に生まれ始めたそんな不安と、自らがその目撃者になってしまうのかもしれないという重苦しさが交錯する中で、そこはもう呼吸もままならないほど息苦しい場所へと変貌していた。

 

 しかし、彩が操る繊細なメス先が連れ去る時間とともに、皆の言い知れぬ不安は、祈りへと変わり、やがて少しずつ激励の思いへと変わっていった。


 病院長室でモニターに見入っていた中山病院長も同じ思いであった。

 ただ、彼は彩が目を閉じて天を見上げた時、 彼女はここでは止めない、と直感した。

 その瞬間、彼は手術室に繋がるホーンに手をかけたが、唇をかみしめてうなだれると、静かにその手を遠ざけた。

 彼はもう彩のために祈ることしかできなかった。


 助手が二人入ってはいるが、とても彼らに彩のフォローはできない。人であれば、せめて三十分でも、いやせめて十分でも、誰か代わってくれれば、ほんの少しでも休むことができるのに…… そんな思いが生まれるところだ。 

 でも彩は誰も代わってくれないことを、そしてここは自分でなければメスを動かすことができないことをよく知っている。

 これは決して彼女の高慢でも愚かさでもない、ただ客観的に現実を知っている彼女の思いに他ならない。


 いざと言う時の対応は、奈津子に指示をしている。

 一人で懸命に戦っている彩に、自分の思いなど知らせるべきではない、そう思った中山病院長は何もしてやれない自分にいら立ちを感じながらも、ただ彼女のために祈り続けた。


 そして、間もなく午後三時になろうとしていた時、手を休めた彩が、ちらっと時計に目を向けた。既に六時間が経過している。

 彩は再び目を閉じて天を仰いだが、その胸中は誰にも察することができない。

 あの海堂彩が祈っているように見える、高ぶる気持ちを抑えているようにも見える、モニター室では目に涙を浮かべる者もいた。

 特に感受性の強い者に取って、彩の創り出すこの世界は、あまりにも孤独で、それでいて触れがたい高貴さが漂っているが故に、自らが学ぶために訪れた医師であることさえ忘れさせるほどであった。


 ここから彩の様子が変わったことに器械出しを務める看護師の奈津子は気づいていた。

 再びメスを動かし始めた彩は、何かを(つぶや)きながら、誰かに訴えるように、今までに見せたことのない嘆願するような目つきで、メス先を凝視していた。

 しかし、そこには決して揺るがない彩の魂が輝き続けていた。

 それを感じることのできる奈津子は、まだまだ彩は大丈夫、絶対に最後まで行ける、そう確信していた。


 さらに二時間をかけて視神経を巻き込んでいた細胞を取り除いた彩は、最後の一点、わずか一ミリ程度が残っている所で手を休め、再び天を仰いで、長島裕也の最後の言葉を思い出していた。


『彩、最後にかすかに変色している部分が出てきたら、そこにはメスをいれるな。 そこは剥離(はくり)できないし、そこにメスを入れると細胞が暴れ始める』

『えっ、どういうことですか?』

『その小さなエリアの中で細胞を生かしてやるんだ。細胞は死滅しないが、大きくもならない。そこだけは細胞のために残してやるんだ。あいつらも最後の領域を犯されると荒れ狂ってしまうけど、そこに手を付けなければ、やつらはそこで静かに生きていく』

『どっ、どうしてそんなことがわかったんですか?』

『そのケースで、最初に俺はミスをしたんだよ』

『ええっ』

『そこにメスを入れたばかりに、その患者は二ヶ月後に再発して、左目の視力を完全に無くしてしまった。二度目に切った時は、その変色した部分は倍の大きさになっていた』

『でも、そのせいかどうかは……』

『その後の三件は、同様の状況でその部分にメスを入れなかった。その人達は五年経った今も再発していない…… 細胞が言うんだよ……』

『えっ』

『悪いことしないから、ここだけは残して! って……』

『そっ、そんな馬鹿な……』

『彩、俺を信じろ! もし変色して薄黒くなっている部分があったら絶対にメスを入れるなっ』


( この部分か! 先輩が言うように薄黒く変色している…… 先輩にあそこまで言われてメスを入れる訳にはいかない…… )


 誰もが不審に思う中、彩がメスを置き、助手の二人が患部を閉じてオペは終了した。


「なぜ、あれだけ残すのっ! あと一ミリじゃないのっ……」

 病院長室でモニターを見ていた亜美が不満を露わにしたが

「理事長、もう神の領域ですよ。我々、凡人がどうのこうのと言える世界ではないですよ。彩さんに考えがあったのでしょう」

「でも……」


 時計は既に五時を回っていた。


「理事長、朝、九時に始まったオペが、いまは五時ですよ。八時間近くもの間、彼女はあの繊細な世界で戦ったのですよ。元来であれば複数の医師で取り掛かるべきところを彼女はたった一人で戦ったのですよ。あなたは、彼女に感謝するべきでしょ! 何の不満があるんですか! これ以上、何かを言われるのであればお引き取り下さい。不愉快です」

「すっ、すいませんでした」彼女は頭を下げて静かに部屋を出て行った。


 一方、モニター室で画面に釘付けになっていた十人を超える若手医師たちは、皆疲れ果ててぐったりとしていた。

 だが、突然、そこに現れた彩に、モニター室は大混乱となった。

 彼女が部屋に入ってくると大喝さいが起きた。

 偉大な女医であっても、身長はわずか一六十センチ程度、細身の小柄な女性に皆は一様に驚嘆した。


「皆さん、ありがとうございました。せっかく最後までお付き合いただいたのですから、最後の残した部分について説明だけさせて下さい。あの残した部分が変色していたことに気づかれたでしょうか?」


「……」


「あの部分は、剥離できません。もしあそこにメスを入れれば、細胞が再び活性化して再発します。でもあのまま残しておいても大きくはなりません。ということです。これは、アメリカにいる長島裕也先生の指示によるものです」

 再び大きな拍手が起きた。

「本当にありがとうございました。皆さんの熱い思いが届いていました。だから頑張ることができました。感謝しています」


 それを聞いた者の中には涙する者もいたが、それでも皆が立ち上がって大きな拍手を送る中、彼女は深々と頭を下げて引き上げていった。


 その後、彩はアメリカの裕也に成功のメールだけを入れて、シャワーを浴びると深い眠りに落ちて行った。


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