一筋の光
その夜、彩は西塔会病院長、高井定弘に電話を入れた。
『もしもし、ご無沙汰いたしております。彩です』
『彩さん、久しぶりだねー、元気そうで何よりだよ』
『病院長、すいません、気が付かなくてすいません……』
『彩さん…… 』
『今日、理事長が来られました』
『えっ、それは申し訳なかった。どこまでいっても恥ずかしい人で、本当に申し訳ない』
『病院長、直ぐにでも飛んで行きたいのですが…… ほんとにごめんなさい』
『彩さん、気にしないで欲しい。 医師である君が患者を投げ出して動くことなんてできないよ。それに、もう彩さんでもどうにもならないところまで来ているんだ。嫌な思いをさせて申し訳なかったね』
『病院長……』
『私はね、君が活躍しているのがうれしいよ。そこの病院では、誰もが君に敬意を払い、誰もが君を大事にしてくれているのだろう。それがうれしいよ、海堂彩はまだまだ人の命を救うよ…… 私はそれがうれしい』
『病院長、ありがとうございます。でも、是非一度、診せていただきたいです』
『もう視神経はほとんどやられているんだ。かすかに影が見えるだけでね。細胞を剥離してももう神経は死にかけている。 時々、パッと見えることがあるんだが、ろうそくの最期の炎なんだろうね』
『えっ、時々、はっきりと見えることがあるんですか?』
彩は目を見開いて驚いた。
『ああ、一日に二~三度かな……』
『病院長、ちょっと調べたいことがありますので、今日はこれで失礼します。またご連絡いたします』
かつて大学病院にいた頃、彩は、自らの指導医で、最も尊敬する先輩医師、長島裕也が何度もこのオペを行ったことがあり、その都度、彼女も助手を務めた。ほとんどの場合、がん細胞を剥離できても視神経は既に死にかけていて、視力が回復することはなかったが、そんな中で唯一、視神経がしっかりと残っていたケースがあったことを彼女は思いだした。
「時々、はっきり見えることがあるって患者が言っていたから、少し希望を持っていたんだ」そう言った長島の言葉が脳裏をかすめた。
( 絶対にあきらめない、できるところまでやってみる! )
彩はその夜遅く、アメリカにいる長島裕也に電話を入れた。
『彩っ、久しぶり! なんかお前から電話もらったりしたらいいことがありそうだよ』
『先輩、あいかわらず明るいですね』
『そりゃ、お前、うれしいよ。結婚でもするのか?』
『馬鹿なこと言わないでくださいよっ』
『えっ、西塔会病院の息子と婚約したんだろ?』
『何の話ですかっ、今は静岡の中山総合病院にいるんですよ』
『えっ、あの幼馴染と一緒になるのか?』
彼は全てを知っていたが、あえて時系列で彩をからかってみたかった。
『ちょっと待って下さいよ、どうして結婚の話になるんですか……』
『いやー、俺も責任感じているんだよ。 お前の才能を見つけてしまったからさ、お前が名医って言われるようになって、いつまでも結婚できなくてさ、女としての幸せを奪ってしまったのは俺なんだから、責任感じているんだよ……』
『はあっー、じゃあ、責任取って下さいよっ』
『そうだな、考えてみるよ』
『えっ、考えてみるんですか……?』 驚いた彩の声がフェードアウトしていく。
『はははっは、それで何かあったのか?』
『あっ、そうですよっ。西塔会の病院長が……』
彼女は状況を詳細に説明した。
『お前の言うとおり、時々はっきりと見えるって言うのは、視神経がまだやられていない可能性が高い。剥離してみる価値はあると思うよ』
彩にははっきりと一筋の明かりが見えてきた。
その翌日、副病院長の幸一と奈津子は朝早く東京の西塔会病院に向ったが、途中、知り合いのナースから情報を得た奈津子は、病院長が自宅で療養していることを知ってそちらに向った。
二人の訪問者に驚いた髙井病院長はとても喜んだが、最初は頑なに静岡へ行くことを拒んだ。
しかしながら、彼は懸命に彩の思いを伝える奈津子の言葉に、そして忙しいであろうに副病院長をよこしてくれた中山総合病院長の彩に対するその思いに応えないのは、人として大事なものを見失っているのではないかと思い始めていた。
ちょうどその時、彩から髙井病院長に電話が入った。
『私は後悔だけはしたくないです』と訴えてくる彩の思いに、彼は応えないわけにはいかない、そう結論して最後には静岡へ出向くことを了承した。
一方、理事長は静岡に出向いていくことでプライドが傷つけられたという思いもあったが、それでもわずかな可能性にかけてみたいという気持ちが強く、病院長を尊敬してやまない看護師を一名つけてその午後、夫を送り出した。
大至急に様々な検査が行われ、その一週間後、オペ前日のことであった。
髙井病院長の病室を訪れた彩はアメリカにいる長島裕也の見解を説明し
「勝機のないオペに臨むわけではありません。私が最も尊敬する裕也先生の見解と、このオペを何度も見てきた私の経験が、剥離してみる価値がある……そう言っています」と、その決意を語った。
「ありがとう、でも決して無理はしないように…… 開いただけで閉じてしまっても、決して恥じることはない。わかっていると思うが、できる、できないを判断するのも医師の務めだよ」
「ありがとうございます。病院長にそう言っていただけると気持ちが楽になります。大学病院を追われることになって、途方に暮れていた時、私を受け入れて下さった病院長のご恩は決して忘れていません。そのご恩に応えることができるかどうかわかりませんが、それでも後ろだけは見たくありません。私のためにわざわざ静岡まで来て下さったことに、本当に感謝しています。この度ほど、謙虚な気持ちでオペに望むことはありません。明日は最善を尽くします」
「ありがとう。君がここで皆から大事にされて、ますますすごい医師に成長して…… ここが君のいるべき場所だったんだなって思うよ…… 今日はゆっくり眠れそうだよ」
その後、彩は病院長室に出向いた。
「彩さん、どこから情報が漏れたのかわからないんだけど、大学病院から明日のオペを見せて欲しいという話が来ていて…… 十名を超える若手が懇願しているらしい……」
「そうですか、是非見せてあげて下さい」
「えっ、いいのかい? プレッシャーにならないのかね」
「いえ、むしろ励みになります。開いた途端に閉じることになるかもしれません。でも、もし裕也先生の見解が正しければ…… いや、あの人は絶対に正しい! だから私のオペを見ることで、誰かが少しでも何かを得てくれるのであれば、それは励みになります。だから、遠慮しないで見せてあげて下さい」
病院長は、彩の思いを聞いて、かつて彼女が執刀したオペのDVDを見たことを思いだしていた。