結ばれない人
中山総合病院に勤めるようになった彩は、満たされた日々の中で、病院長夫妻の一人息子、幼馴染の幸一と時間を過ごすことが多くなっていた。
( ちゃんと幸一と向き合って将来を考えてみたい )
彩は、頭の中ではそう考えていたが、気持ちがついて来ないことに少しいら立ちを覚えていた。
祖父の葬儀を終えて東京へ帰る前に、この街に帰ってきたいという思いを幸一の両親に伝え、彼とちゃんと向き合ってみたいと思いをぶつけた彼女に、彼の両親は
「幸一と上手くいかなかったとしても、そのことでここを去ることにはならないよね」と気を使ってくれた。
彩は、幸一の両親が医師としての自分を認めてくれていることはよくわかっていたし、自分も幸一が原因でここを去るなどということは決してないと思っていたが、その一方で、自分が幸一と一緒になることを決意すれば、彼らがどれほど喜んでくれるのかということも痛いほどわかっていた。
祖父母に育てられた彩に取って、この幸一の母は、影となり日向となり、いつも寄り添ってくれた人である。
両親を早くに亡くしてしまった彩は、いつしか彼女に母親に抱くような思いを持っていた。祖父の亡き後、彼女が最も心を許せる人であった。
「求める人より、求めてくれる人と一緒になる方が幸せだよ……」
結婚を考え始めると、祖父の言葉がいつも脳裏をよぎる。
それに何よりも、尊敬する病院長夫妻と家族になりたいという思いは何物にも代えがたかった。
そうした背景のもとで、気持ちがついて来ないことにいくらかの不安はあったが、彼女は幸一と一緒になろうか…… と考え始めていた。
しかし、当の幸一は彩の考えとは裏腹に彼女と過ごす時間が多くなるにつれ、彼女といることに息苦しさを感じるようになっていた。
彩がここに来て以来、麻酔科医である彼は、彼女が執刀する全ての手術に立ち会ってきたが、彼が目にする【神の指先】はあまりにも現実離れしていて、とても人のなせる業のようには思えなかった。そんな彩を見るたびに、彼女とは住む世界が違うことを思い知らされ、そんな彼女に見合う男にならなければ…… と、懸命に大きくなろうとすることに疲れを感じるようになっていた。
あんなに恋い焦がれていた彩であったのに、気持ちだけでは彼女の前に立てないことを痛感し、彼の気持ちはゆったりとした時間を共有することができる奈津子へ傾き始めていた。
彼の両親も、そのことに気づいていた。
病院長夫妻は、シングルマザーとして頑張っている奈津子とその娘、瑠璃を食事に招待することがよくあった。そこにまだ幼い五歳の瑠璃の存在があったことは否めないが、それでも同席して食事をする息子のこんな幸せそうな表情を見たことはなかった。
彩がこの病院に勤めるようになって既に一ヶ月半が過ぎようとしていた。彼女がここの病院に勤めることが決まった後、病院長は十億円を超える費用を投じて、機械設備を整備し、名古屋の実家に帰っていた看護師の奈津子を主任待遇で迎え、彩が執刀する手術に向けて万全の体制を整えていた。
しかし、それでも大学病院の設備には遠く及ばず、そのことを懸念した病院長は同期だった大学の医学部長を訪ね、彩が週に一度大学病院で勤めることを条件に、彼女がそこでオペを行うことができるように環境を整えた。
海堂彩の名が全国的に知れ渡っていたこともあって、大学側は異例ではあるが、喜んでこの条件を受け入れてくれたのであった。大学病院から地方の病院に医師が出向くという話は珍しくないが、このケースは全くの逆で一部には大学の権威失墜を心配する声もあった。
だが、それを完全に打ち消してしまうほど彩の名声は高くなっていた。
こうした環境が充実していく中で、中山総合病院の名は徐々に全国に知れ渡り、患者数はうなぎ上りの状態となり、医師不足の時代に彩のもとで勉強したいという若い研修医からの問い合わせが殺到していた。
そんな中、ある金曜日の夜、意を決した彩は幸一を夕食に誘った。
「ねえ、幸一、一緒になる?」友達に話すように彩が尋ねると
「彩、だめだよ」
「ええっ、私を裏切るの!」
驚いた彩は目を見開いて彼を見つめた。
「そうじゃないよ、彩が帰って来てとてもうれしかったし、ひょっとしたら彩と一緒になれるかもしれない……ってウキウキしていたよ」
「じゃー、どうしてなのよっ」
「だけどさー、彩を近くで、ずっーと見ていて、あの【神の指先】を見ていて、この人を妻にするなんてできないって思うようになったんだ」
「ええっ、だけど、それと結婚に何の関係があるのよ」
「そりゃー、今でも彩のことを誰よりも好きだよ、一番好きだよ。でも君を見ていて、俺には荷が重いって思った。好きなだけでは結婚できない、って思ったんだ。それに、彩の思いの中では、俺と結婚したいっていう気持ちよりも、俺の両親と家族になりたいっていう思いの方が大きいだろ……? 」
「……」
「それに…… 彩の心には誰かが住み着いているような気がする」
俯いた幸一も辛そうだった。
「そんな人はいないよ」そう答えたものの、彼女の脳裏には先輩医師、長島裕也の笑顔が浮かんでいた。
「いいんだよ、彩も俺のことを大事なパートナーだって思ってくれているのはよくわかるんだ。だけど俺に対して恋愛感情は持っていないだろっ」
「はあー、何てことなの……! 一大決心して来たのに……」彩はがっかりしたそぶりを見せたが、心のどこかでほっとしていた。
「ありがとう。同情でもうれしいよ」
「何よ、それ……」
「そっ、それでさー、こんな時にあれなんだけど……」幸一の様子が突然変わった。
「えっ、どうしたの?」
「あのー、言いにくいんだけど、奈っちゃんと付き合ってもいいかな?」
「ええっー、振った女にそんな了解を取るのっ?」
「そっ、そんな振っただなんて、人聞きの悪いこと言わないでくれよ」
「はははっ、確かに奈津子といる時の幸一って、なんか、幸せそうだもんね、私も奈津子のことは考えたことがあるのよ」
「えっ……」
「ほんとうは私なんかより、奈津子の方がお似合いじゃないのかなって思ったことがあるのよ。 私といるときの幸一はそんなに楽しそうじゃなかったけど、奈津子と話しているあなたは本当に幸せそうだもの……」
「へえー、見透かされていたんだな、やっぱり彩にはかなわないよ」
「でもね、あなたのご両親が、桁外れにいい人だってことは知っているけど、だけど、一人息子の結婚相手が子連れって言うのは複雑なものがあるかもしれないね、相当に慎重にいかないとだめだよ……」
「えっ、じゃあ、いいの?」
「もちろんよ! だけど、奈津子も了解しているの?」
「いや、まだ何も言っていない……」
「はあー、何なのよ! まあいいわ、でもご両親に反対されても絶対に負けないって言うだけの決心ができてから、奈津子に告白してよ、あの人を絶対に泣かせないでよっ」
「わっ、わかっている。それだけの決心はしているつもりなんだ」
「わかった。じゃあ、私も応援する!」
「ありがとう、彩が味方してくれたら、なんか大丈夫な気がする」
そして、その翌日の土曜日、彩は幸一に振られたことを彼の両親に話し、彼には好きな人がいるみたいだと伝えた。
両親は、せっかく彩が決心してくれたのに…… という思いはあったが、息子にとっては荷が重いのではないかという不安も手伝って、納得せざるを得なかった。
その後、彩が勧めたこともあって、奈津子は幸一の告白を受け入れた。