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神の指先がささやく  作者: 此道一歩
第10章 海堂彩の指先がささやく
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救って欲しくない命

 滝宮が大学を辞職し、警視庁が高島教授の死因について調査を始めた。

 当時、死亡診断書を作成した佐久間総合病院長の佐久間は

「お前も、この殺人の共犯者なのか」と責められ、あっという間に、何の調査もしないまま、滝宮の指示に従ったことを白状してしまい、その調査の手が滝宮に伸びようとしていた。


 そのことを知った真央の父親、田中弘は、真央の墓前にこの事件を報告し、恨みは晴らしたという思いの中に、やりきれない一抹の不安を抱いていた。

「あの滝宮も、同じ思いをすればいいんだ。海堂先生は、あんな人間の娘だって、助けたいらしい。私には信じられないよ」

 娘の墓前でそんなことを語りかけながらも、彼は刑事という職業柄、復讐がどんなに空しいことかよく知っていた。決して彼が復讐したわけでも罪を犯したわけでもない…… でも、恨みが晴れたというその思いは、決して快いものではなかった。

 滝宮がつぶれても娘が還ってくるわけではない。かつて妻を失い、そして娘をも失った自分の、たった一人ぼっちの生活は、人生はまだまだ続いていく。そこには何も生まれて来ない…… それでも彼は娘を失って六年近くたってもなお癒えない、この苦しみを滝宮にぶつけることでしか、一日、一日を生きてくることができなかった。

 かつてはアメリカに逃げたと思っていた長島裕也に、どのようにして復讐をしてやろうかと考え、彼が日本に帰ってくる日を心の糧に生きようとしていたが、娘の墓前で海堂彩に遭遇し真実を知った彼は、一人で騒いでも何も生まれない、必ずチャンスがあるはず、そう思って六年の月日をただ生きながらえてきた。

 ついに待ちに待ったチャンスが訪れたが、自分には何もできなかった。ただ、星野の質問に答えただけ、でも滝宮を追い込むことはできた。

 彼は、生きることの目標を達成したものの、あまりにも空しく、切なく、やるせない思いの中で、

「真央は喜んでいるのか……?」ふとそんな疑問が生まれた。

 彼は、娘の墓前に跪き

「真央が喜んでいるわけがない…… あんな優しかった子が、同じ年の女の子が苦しんでいるのに…… あの子が喜んでいるはずがない……!」


 確信した彼は、その夜、海堂彩に電話を入れ、思いを伝えた。


 しかし

「私もそう思います。あのやさしかった真央ちゃんが喜んでいるとは思えないです。あの子だったら、きっと、助けてあげてって言っていると思うんです。そう思うのに…… でも…… でも指先が震えてしまうのです。 私の中に残っている滝宮を許せないという思いが…… 助けることができたのに、それを邪魔した滝宮に対する憎しみが…… きっと私の背中を引っ張っているんです。救える命は救いたいなんて、きれいごとを言ってみても、やはりどこかにあの滝宮の娘だという醜い思いがあるのかもしれません。 私には医師の資格がないのかもしれません」

 彩は涙ながらに自らの弱さを語った。


 そのころ、西塔会病院でお世話になっていた滝宮の娘、環奈は、見舞いに訪れる者もなく、静かに時間をやり過ごしていた。

 ある夜、母親が帰宅したのを確認すると、髙井病院長が彼女の病室を訪れた。


「調子はどうだい?」

「あっ、病院長先生…… 大丈夫です。まだ生きています」

「こらっ」

「えへへへ」彼女は舌を出して楽しそうに笑った。

「ごめんね、内の病院に来てはもらったものの、何もできない……」

「そんなことないです。伐々大学病院でひそひそ話をしているのが聞こえましたから……」

「ええっ」

「早く出て行ってもらえよって、誰かが言うと、受けてくれる病院がないとかなんとか…… 最後には、どうせだめなんだから自宅療養でもいいんじゃないかとか……」

「とんでもないやつらだな……」

「信んじらんないですよ」

「……」

「だから、この病院で受け入れてくれるって聞いた時、母はとても喜んでいました」

「そうかね、それは良かった」

「でもね、なぜ受け入れてくれたんですか? 同情してくれたんすか?」

「ううん、ちょっと難しいかな……」

「えっ、でも話して下さいよ」

「ううーん、君には申し訳ないけど、海堂彩のためかな……」

「えっ、どうしてですか」


しばらく沈黙があったが、

「彼女は今回の記事で君をとても傷つけてしまったと思っている。記事にもあったようにお父さんの罪を君には知らせたくなかったんだよ。だけど結果として記事が出てしまった。この上、大学病院を出た君を受け入れる病院がないなんてことを知ったら、彼女はまた自分を責めてしまう…… これ以上、海堂医師を苦しめたくないという私の思いかな……」

「海堂先生ってすごいですね、見えない所で病院長先生にも思われていて……」

「そうだね、私も彼女に助けてもらったんだよ」

「へえー」

「でも、今、【神の指先】が震えてメスが持てないらしい……」

「あれって、私のせいですか!」

「いや、彼女自身の問題だろうね……」

「海堂先生ってどんな人だったんですか? ここに居たんですよね」

「そうだねー、彼女がここに来たのは、研修医が済んで、二年目の時だったかな。小柄で目がクリッとしていてかわいい人でね」

「へえー、雑誌で見てもかわいいもんね」

「紹介してくれた長島医師からは、すごいメスを使うって聞いていたんだけど、外見で見る限り、想像はつかなかったかな」

「二重人格なんだ……!」

「そういう言い方もできるかもしれないね」

「はははっは、それで、それで?」環奈は楽しそうだった。

「とりあえず、オペの助手をさせてみたんだが、オペの最中に執刀医が急に咳き込んで、しゃがみ込んでしまってね」

「ええっー」

「慌てていたら、モニターから、『私がやりまーす』って明るい声で彼女が言うんだよ」

「ええっー、楽しそう!」

「私も慌てて、大丈夫なのかって聞いたら、『こんなの毎日やっていました』って、まあ、簡単そうに言うんだよ」

「それでやっちゃったんですか」

「あっという間に済ませてしまったよ」

「へえー、かいどー、チョーかっこいいですね」

「そこからかな、あっという間に内のトップ外科医になったよ」

「でもね、彼女は辛い過去を背負っているんだよ」

「えっ、そんなすごい人にも辛い過去があるんですか……、 あっ、記事に書いていましたよね」

「そうだね、彼女は五歳で両親を亡くしてしまったけど、ここまで頑張ってきたんだよ。私も詳細を知ったのは先日の記事なんだけど、あの明るさを見ていると、想像できないんだよね。でも、何か大きなものを包み込んでしまって、それを他人には見られたくないって、懸命に隠しているようで、当時はそんな違和感があったね」

「へえー、なんか異世界の人みたい」

「なるほどねー……」

「病院長先生、私ね、彩ピーに気合入れてやろうかって思うんですよ」環奈が微笑んだ。

「ええっー、彩ピーか、かわいいね。でも気合いを入れるって…… なんか穏やかじゃないね」

「でもね、あの記事読んだら、彩ピーの【神の指先】が囁かないのは、どう見ても私が原因でしょっ、親父のせいかもしれないけど、私が原因でしょっ……!」

「なんか、難しい話になってきたね……」病院長は少し困ったような表情をした。

「いやいやいや、そんなことないですよ。このまま彩ピーの指が動かなくて、オペできなくなったら、助かる人が助からないでしょっ。だいたい、彩ピー、根性なさすぎ……!」

 環奈の語気がほんの少しだけ強くなった。

「でもねー、医師をしていると患者さんのいろんな表情が思い浮かんでね…… 特に今回のは、彩先生に取っても特別だったみたいだしね」

「だけどさー、そんなことでぐずぐず言っていたら、本当に救って上げないといけない命を見捨てることになってしまうよ。それって、親父と一緒じゃない、誰かを見殺しにしてしまうってことに関しては同じでしょ」

「環奈ちゃんは、すごいことを考えているんだね」

「だって、皆、彩ピーの味方だから、彩ピーの気持ちばかり考えているじゃん。救って欲しいのに救ってもらえない人のことなんて誰も考えていないじゃん」

「確かにそうだね」

「言っておきますけど、私は救って欲しいなんて思っていないからね」

「えっ、でもさー」

「だいたい、彩ピーは間違っているよ」

「ええっー、何が間違っているって思うの?」

「あの記事読んだらさー、救える命は救うって書いていたけど、救って欲しくない命だってあるよ」

「ええー、比較している基準が違うような気もするけど……」

「そんなことないよ、救える命って言うのは、あの人の判断で、救うって言うのはあの人の思いで…… だけど患者の方からすれば、救える命なら救って欲しいっていう人もいるし、別に救ってなんていらないよっていう人だっているよ」

「だけど……」

「この私……!」

「えっ、環奈ちゃんは……」病院長は驚いた。

「最初はね、誰か助けて、死にたくないって…… だから静岡まで行ったの。そしたら内科の先生がね、これだったら海堂先生がオペできると思いますよって言うから、やったーって思って飛び上がったの。そしたら一時間もしない内に彩ピーがオペできないって…… その時、彩ピーのこと、殺してやろうかって思った。地獄に落ちろ、って思った。だから記事が出て、彩ピーが叩かれ始めたら、すッーとして、ざまーみろって思ったの。だけど考えてみたら、スカッとしたって、私の病気がよくなるわけじゃないし、誰も助けてくれない……」

「環奈ちゃん……」

「そしたら、また記事が出て、今度は親父が叩かれて、だけどあれは当然だよ。あいつは人殺しだよ、娘なのが恥ずかしいよ…… 」

「環奈ちゃん、でもそこは見方がいろいろあると思うよ」

「そんなのだめよ、どう考えてもあいつは人殺しよ。そう思ったら、誰かがオペしてくれて助かったとしても、一生、あの親父の娘として生きて行くんだよ。そんな人生は嫌だよ、そんな地獄みたいな人生はいらないよ…… そりゃー、死ぬのは恐いよ…… でも……」

 環奈は今にも泣き出しそうな表情をしていた。

「環奈ちゃん、もう止めよう」

「死ぬのは恐いけど、死んでしまったらあいつの娘としての人生はそこで終わるじゃん…… そしたら…… そしたら次の人生は、お金持ちじゃなくても…… 人から尊敬されるような親父の娘に生まれたいよ、ううーうん、尊敬されなくてもいい、普通の人でもいい、だけど人を傷つけないような人の娘に生まれたいよ」

 それでも彼女は涙をこらえて懸命に話した。

「環奈ちゃん……」

「自殺しないで最後まで頑張ったら…… 神様はきっと、次はそんな人生をくれるよ……」

 自らに言い聞かせるように呟く彼女の瞳がとても切なくて病院長は目を伏せてしまった。

「……」

「だいたいさー、彩ぴーがふざけているんだよ」突然、顔を上げた環奈はトーンを変えて話し始めた。

「彩ピーはさ、自分が救えるのに救えないと思っているんでしょ、私は救って欲しくないのに、何なのよ。そんな思いを押し付けられたって迷惑よ…… あいつね、顔面なぐってやるっ」

「環奈ちゃん、どうしたの急に……」

「なんか腹が立って来たの……」

「環奈ちゃんはその方がいいかな」

「先生、メール送ったら、彩ピー、読んでくれるかなー」

「そりゃ、読んでくれるよ。返事だってくれると思うよ」

「そう…… やっぱり彩ピーはすごい人なんだね……」

「私もそう思うよ」

「もう、メールは作っているのよね、その最後にね、彩ピーの顔面にパンチ! って書いたのよ」

「ああ、そういうことか……」


 部屋を出た髙井病院長は

( わずか十七歳の女の子が、この人生を終わらせたいと言う。そして次の人生への望みを語る。理屈ではわかるような気もするが、十七歳の女の子がここに至るまでの心の葛藤は想像がつかない。私は言葉一つかけてあげることができなかった…… 後は静かにあの子を見守ることしかできないのか…… )

 そう思うとこみあげてくる涙をどうすることもできず、彼は暗い廊下を静かに進んでいった。


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[一言] まだ泣かせるんですね……
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