さまよわない悪人
星野が静岡を訪れたちょうど二週間後のことであった。
伐々大学医学部長の滝宮が中山総合病院にやって来た。
この頃になると、指先の震えが止まらない彩に代わって、裕也がオペを行うことも珍しくなかった。
滝宮は病院長室を訪ね
「どこでこの話が漏れてしまったのか、私も心苦しいです」
「はあー、ご心配いただいてありがとうございます」
「家内が言うには、病室を出た時、一人の男に色々話を聞かれたらしいが、細かいことは話さなかったと言っています。彼女が言うには、盗み聞きでもしていたのではないかって言うのですが、どうもはっきりせず、申し訳ない。家内もオペができないと言われたことで取り乱してしまい、気が動転していたので何か言ったのだろうかと、心配しています。本当に申し訳ないです」滝宮が背筋を伸ばしたまま頭だけを下げる。
「いいえ、仕方ないことです」
「それで、実は長島君に協力してもらって、この記事を黙らせるような、新たな真実を発表したいと思って参上したんです」
「そうですか、それはありがとうございます」病院長も事務的に合わせる。
「病院長、当時、私も長島と海堂の評価を間違っていたのかもしれません。何がどうあろうと、長島はアメリカで認められ、海堂も【神の指先】をもつ医者などといわれるようになった。当時、私は間違っていたのかもしれない。でも、私は無謀なオペを繰り返す彼がとても恐ろしかった。亡くなった高島教授もそれを楽しんでいたようなところがあって、私は、いつかは取り返しのつかないことになるのではないかと心配していたんです」
「そうですか……」
「だから、【神の指先】を持つ医者と言われるようになった今の彼女から見ると私が許せないのでしょうね」
「はあ、私にはよくわかりませんが……」
「だから娘のオペをしてくれなくても、それは仕方ない、私は自業自得だと思っています」
「私にはわからないことばかりで申し訳ないです。裕也先生もそろそろオペが終わると思いますので、今しばらくお待ちいただけますか?」
「はい、大丈夫です」
彼はその後、裕也が顔を見せるまでの十分間、自慢にもならないような自慢話を延々と続けた。
そして、裕也がオペを終えて病院長室に入ってくると、滝宮が口を開いた。
「久しぶりだねー、元気そうで何よりだよ」
「何の用ですか?」裕也がぶっきらぼうに尋ねる。
「裕也先生、私は席をはずすのでこの部屋を使って下さい」病院長が静かに話すと
「ありがとうございます。そんなに時間はかからないと思いますので……」と彼が事務的に答えた。
病院長が退室すると
「海堂がこんなことになっているのに、まだ強気なんだな……」
「こんなドブネズミみたいなことして恥ずかしくないんですか」
裕也は侮蔑の視線を投げかけた。
「君、失礼じゃないか! 私がリークしたみたいな言い方はよしてくれ。先ほど病院長にも話したが、どうも誰かに盗み聞きされていたみたいだ」
「そうですかっ、まあ、その内に真実はわかりますよ」
「どういうことかね」
「どうもこうも、悪いことはできないということですよ」
「まあいい、でも私がここに来たのは海堂君を助けたいと思ったからだよ」
「はあーっ、あなたがどうやって助けるんですか、冗談はよして下さいよ」
裕也が鼻で笑った。
「いや、君が娘のオペをしてくれればこの世論を動かすことができる」
「はあー、私がオペするんですか……」裕也はあっけにとられた。
「そうだ、『海堂彩は昔の恨みを引きずってしまって、神の指先が震えオペができない。でも、彼女は最も尊敬する長島裕也にオペをお願いした。彼女は医師としての務めを果たした。彼女はやはり素晴らしい医師であった……』 こういうシナリオを用意しているんだが、どうだろう……」
彼は勝ち誇ったように問いかけてきた。
「ほおー、私がオペしてあなたの娘を救えば、そういった記事が出回るんですか?」
「そうだ。そうすれば海堂の指も動き始めるんじゃないのかね……」滝宮が身を乗り出したが
「あなたにしてはまあまあですね」裕也が馬鹿にしたように応じると
「何だとー、お前も海堂みたいになりたいのかっ!」彼は本性を露わにした。
「望むところですよ、してくださいよ、三文記者に書かせて下さいよ。喜んで読ませていただきますよ」裕也も怒りら視線を投げかける。
「長島君、昔のことは忘れて、今、何が大事なのかということを考えるべきじゃないのかね」
一度はカッときたものの、我をとりもどした滝宮が怒りを抑え、諭すように語りかけてきた。
「昔のことを忘れてですって!」
裕也は【ふざけるな】という思いだった。
「そうだよ、確かにあの時、私は君の評価を誤ったかもしれない。しかし、その結果、君はアメリカで成功したわけだし、大学を追われたことを恨んでも意味がないだろう。建設的じゃないよ」滝宮も娘のために必死だった。
「そのことですか……? あなたの頭に残っているのはそのことなんですか…… 馬鹿らしい……」裕也は呆れてしまった。
「君は何を言っているんだ、意味がわからん」
「いや、もういいです。お引き取り下さい」裕也は横を向いた。
「娘のオペはしないのかね」
「申し訳ないが、私にはできない」
「なんだとー」
「断っておきますが、やらないんじゃないですよ、できないんですよ」
「どういう意味だ!」
「私にはあなたの娘さんのオペを成功させるだけの技量がないということです」
「海堂にできて君にできないのかね……」滝宮が鼻で笑う。
「その通りです」
「きれいに逃げようとしてもだめだよ。君も海堂と同じだな。私を憎んでいるから娘を救いたくないんだな……! 三文記者が喜びそうだ……」
彼は薄ら笑いを浮かべていた。
「あなたは本当に救いようがないですね……」
「なんだとー」
「一つだけいいことを教えてあげますよ」
「何だ……」
「丸々大学病院の若手医師たちが、あなたと同じことを言って学部長に詰め寄ったらしいですよ。長島がオペをすれば、海堂彩だって、救われるんじゃないんですかって…… 彼らは海堂彩に陶酔していますからね」
「……」
「検査データを入念にみた学部長がどう言ったかわかりますか?」
「そんなこと知るかっ」
「君たちにはわからないかもしれないが、長島裕也と海堂彩は生きている世界が違うんだ。このオペは長島にはできない。これができるのは海堂彩、ただ一人だって……」裕也はあざ笑うように説明した。
「何、訳の分からんこと、言っているんだ」
「そうでしょうね、あなたにはわからないですよね。だからあなたの所によってくる医者は屑ばかりなんですよ」
「私を愚弄するのか! 娘に何かあったら、お前の医師資格を剥奪してやるからなっ、覚悟しておけよ、その時になって後悔しても遅いぞっ!」
滝宮は形相を変えて、裕也を睨み付けた。
「患者の命はあっさり見捨てたのに、娘の命は大事なんですね」
「私がいつ患者の命を見捨てたんだっ、もういいっ、お前には頼まん!」
( こいつは覚えていないのか、見捨てたあの三人の患者を…… なんて奴なんだ、 全く罪の意識がないのか……! )
東京に帰って来た滝宮は腹の虫がおさまらず、フリーライターの小橋に、長島との会話を話し、記事の続編を書くように依頼した。
金をもらって喜んだ小橋は、さっそく記事を作り上げ、最終確認をしていたのだが、そこに、週刊誌『こんなことでいいのか』を出版している斎藤書房の編集助手をしている義兄から電話が入った。
『最近、内の編集長が、海堂彩の記事のことでフリーライターの星野という男と打ち合わせをしているんだけど、とんでもない事実があるぞっ! おそらく滝宮はもう駄目だ、この記事が出ると滝宮は済んでしまう。お前だってあんな記事を書いたんだから、ただじゃすまないぞっ、しばらくどこかに隠れた方がいい……』
それを聞いた小橋は慌てて、姿を消してしまった。
滝宮は連絡の取れなくなった小橋に苛々(いらいら)していたが、打つ手もなくしばらくは悶々(もんもん)とした日々を過ごしていた。




