指先の真実
アメリカから帰国して、このことを心配したフリーライターの星野が慌てて静岡にやって来た。
「彩先生、まさか真実じゃないですよね」
「いえ、一部を除いては真実です」俯いたまま呟くように語った彩は、決して釈明はしなかった。
何も語らない彩に、頭を痛めた星野は裕也の所に出向いた。
「先生、きっと何かあると思うんですが……」
「そうだろうな……」
「先生、知っているんじゃないですか?」
「知っているよ、でも彩が耐えている以上、俺の口からは言えないよ」
遠くを見つめるように話す裕也も辛そうであった。
「でも、真実があるんだったら、語らないと……」
「確かにその通りなんだが……」裕也には彩の思いが痛いほどわかっていた。
そして、久しぶりの再会に彼らは夕食を共にし、しばらくすると勤務を終えた彩も合流したのだが……
「彩先生、何かあるんだったら、話してくれませんか。このままでは海堂彩の名前が地に落ちてしまう」
「いいです。それでもいいです……」
俯いたまま顔を上げない彩に困り果てた星野は無言で裕也に助けを求めた。
いつまでたっても顔を上げない彩に
「星野……」裕也がついに口を開いた。
「はい……」
「俺たちは二人とも大学を追われたことなんて何とも思っていないよ」
「だったら、何故……」
「派閥争いに負けた者が、そこを追われるなんて珍しい話じゃない」
「ええっ、派閥があったんですか!」
「そうじゃない。俺たちは派閥に属していたなんていう思いは全くなかったし、亡くなった高島教授だって聞いたらびっくりするよ。 だけど、高島教授の後、教授になった滝宮は、『私の派閥にいなかったものには報いを受けてもらう。この病院には必要ない』って言ったんだ。こちらに派閥なんていう意識がなくても、彼の中には滝宮派っていう派閥があったんだろうな」裕也は呆れたように話した。
「そんな……」
「だからさ、解雇されたことなんて、俺たちは全く恨んでいない。そのことだけに限定すれば、むしろ感謝したいぐらいなんだよ」
「そっ、そうですよね。そのおかげで先生はアメリカで成功して、彩先生だって経験積んで【神の指先】を持つ女医って言われるまでになったんですから、確かに、ある意味ありがたいことだったですよね」
「そうなんだ」裕也は大きくため息をついた。
「じゃー、なぜなんです! 私は、お二人は誰よりも命を大事に思う方だと信じています。彩先生は、あんな滝宮の娘でも、命の大事さを知っている人です。だから…… あんな奴の娘でも助けてあげる人だと思っていた…… いやむしろそう言う人であって欲しいと私は願っています」
星野は懸命に思いを彩に訴えるが、俯いたままの彼女にそれが届いているのかどうかさえわからない。
「星野、違うんだ」
「えっ」
「お前は知らないかもしれないけど、俺たちが解雇された時、三人の患者のオペが既に決まっていたんだ」
裕也は遠くを見つめるように語り始めた。
「えっ」
「一人は四十代の働き盛りの男性、二人目は、子供がまだ一歳にもならない、二十代の女性、そして三人目はまだ十七歳の女子高生だった」
俯いてしまった裕也から無念が漂う。
「そんなの初耳ですね。それでそのオペは?」
「高島教授の了解のもとで決定していたオペだったが、教授が亡くなった後、代理を務めていた滝宮がこのオペに待ったをかけたんだ」
そこまで聞くと、彩は両手で顔を覆って涙を流し始めた。
裕也は、彼女を抱き寄せて背中をさすってやりながら話を続けた。
「ええっ、そんな無茶な……」
「そうだ、滝宮はその無茶を押し通したんだ」裕也の無念が伝わってくる。
「そ、それで……」
「どんなに頼んでもオペはさせてもらえなかった。あくまで無謀と言い張って……」裕也の表情にも当時の悔しさが蘇っていた。
「裕也さんは、どけ座して、額を床にこすりつけて、涙を流しながら『三人の命を救わせて欲しい』って、お願いしたのに……!」
ここまで沈黙を守っていた彩が初めて口を開いたが、零れ落ちる涙をぬぐいもしないで、こんなに取り乱して、しかもヒステリックに言葉を投げるつける彼女を、かつて誰も知らない。
「ええっー」
「その裕也さんに、あの滝宮は『そんなにオペがしたいのなら、無医村にでも行って、やりたい放題をやったらどうかね』ってあざ笑うように言ったんですよっ! 人間じゃないっ!」
彩は七年を超える思いを吐き出したが、言葉の最後は力尽きて消え入るようであった。
「彩先生……!」
星野は、これまで他人を悪くいう彩を見たことも聞いたこともなかった。ましてこんな彩を想像したこともなかった。彼の驚きは筆舌につくしがたかった。
「その十七歳だった真央ちゃんていう女の子は、彩に取っては特別な子だったんだ」
「……」
「病院に来た時は、もう自暴自棄って言うか、心を病んで、絶望的になっていて『手術はしない、どうせ私は死ぬんだから』って、父親も疲れ果てていて、取り付く間もなかった。でも彩が、時間が許す限り、その子の病室に行って、色々な話をしたんだ。語りたくない自分の過去を話して、何とかその子を前向きにしようとして必至だった。やっとその子が心を開いて、話すようになって、彩の説得に応じてオペすることを納得したんだ」
裕也は彩の背中をさすりながら話し続けた。
「……」
「その子がさ、元気になったらカラオケに行きたいって…… 彩に一緒に歌おうよって、微笑んで嬉しそうに話していたんだよ……」
「そんな……」
「彩の頭には、その子の笑顔が残っているんだよ。いつまでたっても消えないんだよ。 【滝宮】っていう名前を聞いて、フラッシュバックしたんだよ」
「それでその子はどうなったんですか……」
「一年持たなかった」遠くを見つめた裕也は、ぎゅっと目を閉じると俯いてしまった。
「ええっー、そんなむごい……」
星野の目にも涙が光っていた。
「救える命があったのだ、なのにあの滝宮がそれを邪魔したんだ」裕也の握りこぶしがふるえる。
「邪魔したというよりは、殺人に近いですよね……」
「彩だって、救いたいんだよ。そんな滝宮の娘でも、救える命は救いたいんだよ」
「だったら……」星野は祈るように彩を見つめた。
「お前、何年俺たちと付き合っているんだよ……」
「えっ」
「そんな精神状態で【神の指先】がささくわけがないだろう」
「すっ、すいません」
「このオペは失敗する。彩がどんなに救いたくてもこのオペは失敗する」
「彩先生にはそれがわかっているんですね……」星野は悲しそうに彩に目を向けた。
「俺だってそうなんだよ。まだ一歳にならない子どもに『ママ、ぜったいに元気になるからね、後、少しだけ待ってね』って言っていたあの若い母親の笑顔が忘れられない。中学生の娘に励まされて微笑んでいたあの男性の笑顔が忘れられない…… 救える命だったんだ! なのに何故救えなかったんだ」
当時のやり場のない怒りと悲しみに、長島裕也も零れ落ちる涙を懸命にぬぐった。
「……」
「彩から、三人とも亡くなってしまったことを聞いた時、涙が出たよ。悔しいのか、腹が立ったのかわからなかったけど、とにかく涙が出て、翌日のオペを二時間遅らせてしまったのを覚えているよ」
「先生……」星野はこんな悔しそうな裕也を見たのは初めてであった。
「……」
「でも、反論しましょう、私が書きますよ、真実を公表しましょう」
「お前は相変わらず馬鹿だな」
「先生……」
「なぜ、彩が耐えているのかわからないのか?」
「えっ」
「この事実を公表するって言うことは、滝宮の娘に父親の罪をぶつけることになるんだぞ。 助けてもらえるかもわかんないって希望を持っていたのに、その希望を無くした上に、父親の罪をぶつけられてみろ、どうなると思う」
「先生、でも……」
「でもじゃないよ、それが海堂彩なんだよ」
しばらく沈黙の後、
「彩先生のことだから、お墓参りにも行かれたんでしょうね」
星野が話題を変えようと微笑んだが、彩が再び俯いてしまった。
瞬時に彩の異変に気づいた裕也が
「彩、墓参りに行って何かあったのか?」と尋ねると
彼女は涙にぬれた瞳で一瞬、裕也を見つめた後、再び俯いてしまった。
「そうか…… 俺に話していないってことは、俺に聞かせたくないことがあったのか?」裕也が呟くように言うと、彩は、再び両手で顔を覆って泣きじゃくった。
「彩、もう隠し事は止めようよ、ここまで来たんだ。全て話してくれないか? 俺は大丈夫だから…… お前の小さな胸にしまい込んで置くことの方が心配だよ」優しく囁く裕也に
「真央ちゃん…… 真央ちゃんのお父さんに、お墓で会ったの……」
彼女は嗚咽を交えながら、消え入るような声で話し始めた。
「そうか……」
「お父さんは、裕也さんを許さないって……!」
「ええっ、どういうことなんですか……」驚いた星野が口を挟んだ。
「そうか、そういうことか…… 俺のせいにされていたんだな……」
「説明に来た人から、長島裕也はオペが怖くなってアメリカへ逃げたって……」
「ええっー!」星野は信じられなかった。
「それで真実は話したんですか?」
「……」彩は静かに頷いた。
「もう人間のすることじゃないですね……」
「お父さんの悔しさを蘇らせてしまうのはわかっていたけど、裕也さんを悪者にすることはできない……」
「後の二人には話したんですか」
「とても怖くて家に行く勇気はなかったです」
「彩、ずっと胸にしまっていたのか? 辛かったな……」
「先生、私は書きますよ、こんな理不尽なことが許されるわけがない!」
「止めて下さい…… 私の弱さです。あの人は憎い! 殺してやりたいほど憎い、でも娘さんに罪はないです。私が耐えればいいんです。オペができないのは私の弱さです。救える命があるのに救えないのは私の弱さです。あの滝宮の娘さんだと知ってから、指先の震えが止まらない……」
「彩……」
「わかりました、仕方ないですね」
星野が弱々しく答えたが、裕也は(こいつは書くつもりだな……) と直感した。
しかし彼はそれでもいいと思っていた。そうでないと彩は救われない…… 彼はむしろ星野が書いてくれることを期待していた。




