震える神の指先
一方、年が変わって帰国した長島裕也は、入籍を前に、彩のたった一人の親族である叔父の長崎一樹を訪ねた。
彩の将来をとても心配していた彼は、電話口で結婚相手を紹介したいという彼女に渡さなければならないものがあると告げた。
訪れた二人を前に、一樹は涙を流しながらもとても喜んで一冊の通帳と印鑑を出してきた。
「お前の両親が亡くなった時にいただいた見舞金というか、賠償金なのか、よくわからないが、お祖父ちゃんから預かっていた。彩が結婚する時に渡してやってくれって……」
「叔父さん……」
「利子がいい時もあったんだが、最近はほとんどその利子もついていない。親父が苦しい時に、使わせてもらったらって言ったんだけど、決して手を付けなかった」
中を見ると、約三千二百万円程度が記載されていた。
彩は
「どうしよう?」というように裕也を見つめた。
「彩、おまえはお祖父さん、お祖母さんに育てていただいたんだろ」
「……」彼女が静かに頷いた。
「お祖父さんたちがお前のために使ったお金は、その額では足りないと思うよ」
「うん……」
「もしお祖父さんたちがそのお金を使わなくても良かったとしたら、そのお金は長崎の家に残り、叔父さんたちの所に行くべきものだったんだと思う」裕也が静かに語る。
「長島さん、それは親父たちの意志でやったことだから……」
「そうだね、私が長崎の家のお金、つかってしまったものね。だから受け取るなってことよね」彩が裕也をのぞき込む。
「うん、俺はそう思うよ」
「叔父さん、叔母さん、今までありがとう。とても足りないと思うけど、叔父さんたちが使って……」
「彩、それはできないよ…… 結婚して子供ができる、お金はいくらでも必要になるよ、だから……」
「叔父さん、大丈夫、私、ほとんどお金は使っていないのよ、だから相当に貯まっているの……」
「ええっ、そりゃ、そうなんだろうけど……」
「それにね、この人なんてプロ野球の選手ぐらい持っているんだから……」
「そっ、そうなのか…… 」
「叔父さん、半分は冗談です。でも彼女に苦労させないだけは持っているつもりです」
「なーんか、かっこいいなー、俺も一度でいいから、長島さんみたいに言ってみたいよ」
「お父さん!」
「おおっ、ごめん、ごめん」
「彩ちゃん、ありがとう。とても助かる。遠慮なくいただきますよ、長島さん、すいません」
叔母が微笑んでお礼を言うと
「とんでもないです。彩が皆さんに守られてここまで来たことはよくわかっています」
裕也も微笑んで答えた
「でも、ここはあなたの実家なんだから、いつでも来てね」
「はい、ありがとうございます」
「これで親父も成仏するよ」
しばらく沈黙があったが
「叔父さん、お祖父ちゃんが亡くなる前、オペしようとした私を止めてくれたこと、感謝しているよ」
「そうか……」
「亡くなる前に、お祖父ちゃんが一粒涙を流したの……」
「ああ、覚えているよ」
「あの時、お祖父ちゃんは口にはしないけど、何か未練があるんだ、って思っていたの」
「えっ、そうなのか……」叔父は驚いた。
「だけど、両親の墓前に参って、裕也さんと一緒になれて、こんなに幸せになってみるとあの一粒の涙の意味がわかったの…… お祖父ちゃんは私に感謝してくれていたんだって思うの、ちゃんと成長してくれてありがとうって……」
「彩……」裕也が涙ぐんでいる彩を気遣う。
「えっ、俺は違うと思うけどな」叔父がぽつりと囁いた。
「お父さん!」妻が大きな声で止めようとした。
「えっ!」裕也と彩も驚いた。
シリアスに流れていた空気が、一瞬で白けてしまった。
「もう、叔父さん、何なのよ」
「彩ちゃんごめんね」叔母が懸命に謝る。
「だっ、だって、お前、親父は昔から目が疲れたら涙が出ていたんだよ。あの時も彩を見ようとしてかすかに目を開けたんだよ。だけど眩しくて涙が出たんだよ」
「はははっははは、楽しい。叔父さん、楽しいですね」
「そっ、そうだろっ、なーんか彩の話は暗くなるから、嫌なんだよ」
「信じられない、叔父さん、あの時、何て言って私を止めたか覚えているのっ?」
「そっ、そんなことは覚えていないよ」
「もう、何なのよ! 『彩にとっては誰よりも大事な祖父ちゃんだから、一日でも長く生きて欲しいって思う気持ちは痛いほどわかる。 もし祖父ちゃんが聞いていたら、『彩がそう言うんだったら頑張るよ』って言うと思うんだ、だけど、もう八十八歳だよ、ここまで頑張って来たんだよ、もう楽にしてやってくれないか……』って、そんなかっこいいこと言ったのよ」
「確かに、なかなかのもんだなー、俺にしてはまあまあだな」叔父は腕を組んで感心していた。
「叔父さん、もういい加減にしてよ」
「はははっはは……」裕也は本当に楽しそうに笑った。
「彩、俺はさ、結構思い付きでいいかげんなことを言ってしまうんだけど、真面目な話、この長島さんは素晴らしい、お前はいい人を見つけたよ…… 長島さん、よろしくお願いします」
「はい、もちろんです。でも叔父さんがこんなに楽しい方とは思いませんでした。また、時々よらせてください」
「ああ、いつでも来てよ」
そして彼は彩と結ばれ、海堂裕也と名を改めた。
長島裕也を追い回す医療ジャーナリスト達から解放されたいという思いに加えて、信仰深い彼の脳裏には、海堂家の後を取るものが彩しかいない以上、こうするべきで、長島の家は義理の姉が、そしてその息子が守ってくれる、そう思い、しばらくの間は、静かに暮らした。
周囲の者達は、そのことを知っていた訳であるから、決して隠しきれるものではないのだが、それでもいくらかの効果はあるだろう…… 彼はそう思っていた。
結婚したといっても、式を挙げたわけでもなく、新婚旅行に行ったわけでもない。ただ、市役所を訪れ、入籍を済ませ、一緒に住み始めただけである。
裕也は、彼がアメリカへ渡る時に推薦状を用意してくれた丸々大学病院の学部長の依頼で、時々、困難なオペの指導に出向いたり、あるいは彩に代わって中山総合病院でメスを持つこともあった。
ただ、帰国して人間らしい生活を始めた彼ではあったが、心にぽっかりと空いてしまった穴をどうすることもできなかった。
ひたすらメスを動かし続けた七年半はあっと言う間ではあったが、世界の裕也と言われるまでに成長した自分を一番信じてくれていた高島教授はもうこの世にはいない。
彩が傍にいてくれることで彼の心は救われたが、日々押し寄せてくる何とも言えない虚しさはどうすることもできなかった。
( 俺は、何がしたかったのだろう、高島教授は何を求めていたのだろう、今までと同じように毎日オペを繰り返せばいいのだろうか…… 思いだせない…… 高島教授は何か言っていたはずなのに思いだせない……)
そんな裕也の苦悩を知った彩は、
「七年以上も走り続けたんだもの、疲れますよ、したいことをしてみたら…… 」そう言って微笑んでくれるのだが、そのしたいことが見つからない……
そんなある日、彩は内科から回ってきたカルテを見て驚いた。
十七歳、滝宮環奈、東京から来ている少女だった。
(まさかッ……)
少女はMRIを撮影しているらしく、診察室へ一人で入って来た母親が笑顔で語り始めた。
「初めまして、私、東京の伐々大学病院で学部長をいたしております滝宮の家内です。主人は迷惑をかけてはいけないって言ったんですが、娘のことですので諦めきれずに東京から出てきましたの。でも内科の先生が、これだったら海堂先生がオペできると思いますって言って下さって、ほんとにうれしかったです。 わざわざ静岡まで出向いた甲斐があったというものです。先生も以前は伐々大学病院にいらっしゃったのですよね。 主人とも一緒に働かれたのでしょっ。そんな方にオペしてもらえるなんてうれしいですわ」
彩の顔から血の気が引いた。
七年半前、伐々大学病院で長島医師のオペが決まって、とても喜んでいた少女がいた。
しかし、高島教授が突然亡くなってしまい、代理の滝宮准教授はそのオペを許可しなかった。二人は大学を追われ、その後少女は亡くなってしまった。
彼女は、「元気になったら、カラオケに行きたい、彩先生もいっしょに行こうね!」そう言ってオペの日を心待ちにしていた。
彩は、未だにその少女、田中真央の笑顔が頭から離れないでいた。
【滝宮】という文字を見た瞬間、その少女の笑顔が彩の脳裏をよぎり、彼女は締め付けられるような胸の痛みに呼吸が苦しくなってきた。
検査資料に目を通してみる、MRIの結果を見ないことには何とも言えないが、それでもほとんど問題はない…… 彩はそう直感した。
しかし、オペをイメージした瞬間、真央の笑顔が蘇り、【神の指先】がかすかに震え始めた。
傍で見ている者には決してわからないし、彩自身も目視できないが、それでも【神の指先】が震えている、彼女はその右手を見つめながら
(このオペはできない…… )
そんな不安が彼女の脳裏を埋め尽くしてしまった。
「MRIの結果が、そろそろ来ると思いますので、少々お待ちいただけますか」
彩は懸命に言葉にすると席を外した。
隣の処置室で腰を下ろした彼女は、大きく深呼吸をすると静かに右手を広げ意識を集中したが、滝宮教授の薄ら笑いが瞼に浮かぶと、次の瞬間に麻央の笑顔が脳裏をよぎるが、 右手の震えは止まらない。
( この子は関係ない、滝宮の娘でも関係ない、この子に罪はない )
賢明に言い聞かすが、右手の震えはますます激しさを増す。
彼女は右手を見つめながら、悔しさから涙がこぼれた。
(駄目だ…… このオペは失敗する、できない、悔しいけどできない)
その様子を見ていた看護師は、すぐに彩の異変に気が付いたが、初めて苦悩する彩を目にして驚いた彼女は声をかけることができなかった。
その時、
「彩先生、滝宮環奈さんのMRIの結果が届いきました」別の看護師の声にはっと我に戻った彩がパソコンの画面に見入る。
(この指さえ動いてくれれば、問題はない…… )手のひらを見つめるが、違和感がますます強くなっていく。
「駄目だ…… 」
「彩先生、滝宮さんには1時間ほどお時間をいただきますね」看護師が気を使ってくれたのだが……
時が過ぎるほどにふるえが激しくなり、鼓動の音までが聞こえる。静寂の中で深呼吸を繰り返し、
「真央ちゃん、助けてあげたいの、私は医師だから……」目を閉じて静かにささやいてみると真央の笑顔が瞼に浮かぶ。しかし、右手は震え続け、とても自分の身体の一部だとは思えなかった。
( 駄目だ、どうにもならない、変な期待を持たせるわけにはいかない……)
決心した彩は、再び診察室に入ってきた滝宮環奈の母親に
「申し訳ないのですが、私には無理です」思いを告げたが
「えっ、どっ、どういうことですか?」
思いもしなかった返事に、母親は一瞬何が起きたのかわからなかった。
「私にこのオペはできません。申し訳ないです」彩は俯いたまま顔を上げなかった。
「でも、内科の先生が……」少女の母は呆然としていた。
「申し訳ありません。軽率な発言だったと思います。お許し下さい」
彩は俯いたまま、唇をかみしめていた。
「何故なんですか? 娘より大変なオペを何度もしているから大丈夫ですって…… 内科の先生が言ったんですよ! わざわざ東京から来たんですよ。あなた、主人の下で働いていたんでしょっ、何故、できないのっ!」
滝宮の妻は、突然、目を見開き鬼のような形相でまくしたてた。
「申し訳ないです」しかし、彩は無表情に頭を下げるだけだった。
滝宮の妻には、かえってそのことが誠意のなさを思わせ、彼女は怒りに唇を震わせ、立ち上がるとドアを『バタンッ』と閉め部屋を出て行った。
その夜、東京に帰った彼女は、その日の出来事を夫である滝宮に話した。
「私を恨んでいるんだよ」
俯いたまま静かに聞き入っていた彼が、ぽつりと投げ捨てるように言うと
「どっ、どういうことなの?」
驚いた妻は彼の次の言葉を待っていた。
「七年以上前になるかな…… あの海堂彩の指導医は長島裕也だった。知っていると思うけど、彼は無謀なオペを繰り返し、失敗しないことを鼻にかけてやりたい放題をやっていた。何度も高島教授に進言したが、教授も耳を貸さなかった。私は、いつか大変なことになると思ってとても心配していたんだ。そんな時、高島さんが亡くなって私が教授になった。私は長島に無謀なオペは止めるように忠告したが、彼は耳を貸さなかった。止む無く、彼を解雇したが、あの海堂も長島に陶酔していて、どうにもならなかったので同時に解雇したんだが、彼女は貧しい育ちで、お金と出世を欲していた人間だったから、私を恨んでいるんだ」
彼は、自らの罪の一部を都合よく語った。
「なっ、何て人なの、逆恨みじゃないのっ、あの女、しおらしい顔して、俯いたまま辛そうに言っていたけど、ただ恨んでいるだけじゃないのっ!」
妻は腹立たしさのあまりヒステリックに叫んでしまった。
「でも、長島はアメリカで成功し、海堂も【神の指先】なんて言われるようになって、当時の私は、彼らを見誤っていたのかもしれない。彼女が私を恨んでいるのは知っていたから、環奈のオペはしてくれないだろうって思って…… だから、君には行かせたくなかったんだ。すまない……」滝宮は苦悩を装った。
「でも、本当の医師だったら、そんなことより人の命を救うことを考えるでしょっ!」
彼女の怒りはクライマックスに達してしまった。
「仕方ないよ、私が悪いんだ」
彼は俯いて良い人を演じるが
「許さないっ、あの女、絶対に許さないから……」
思いつめたように一点を見つめて妻は
( 世間に訴えてやる、あの女の本当の顔を世間にばらしてやるっ……! )
そう決意して、滝宮が以前から飼いならしていたフリーライター小橋にこの出来事を記事にするように依頼した。
その小橋は自らのサイトでこれを記事として取り上げた。
『神の指先を持つ偽善者、海堂彩の真の顔』タイトルから彼女を罵倒したこの記事は、中山総合病院での一日と、滝宮教授が妻に語った都合のいい部分のみが記載されていた。
彼が最後に「こんなことが許されるのか!」と呟くと、それはあっという間に炎上してしまった。
妻から小橋に記事を書かせたことを聞いた滝宮は、後ろめたさも手伝って、一瞬は慌てたが、世論が大きく動き出したこともあって
( 大丈夫だ、この記事は一部しか語っていないけど事実だ。私が彼らの評価を見誤ったことを認めさえすれば問題になることはない )
半ば強引に自らに言い聞かせ消化してしまった。
『海堂、サイテー!』
『親と娘は関係ないだろ、助けてやれよ』
『チョー偽善者!』
『指先は神でも、心は悪魔!』などなど……
彩を罵倒する呟きが後を絶たなかった。
医師の中にも彩に対する妬みに近いような思いを持っている者が少なくなく、また若い女性の中にも、恵まれた容姿に加えて有名な女医であるという理由だけで彼女を忌み嫌う人種もいて、こうした者達は、ここぞとばかりに彼女の一片だけを引き合いに出して、罵倒を繰り返し、自らの不遇の憂さを晴らそうとしていた。
彩はやがてマスコミに追いかけられ、病院にも非難の電話が殺到し、病院入り口では何名もの記者たちが張り込むようになり、彼女は居場所を失ってしまった。
裕也と病院長一家は懸命に彩を守ろうと努めたが、炎上した罵倒は広がるばかりで、その内にはワイドショーまでがこのことを取り上げるようになってしまった。
状況を知らないコメンテーター達が、無責任な発言を繰り返し、彩を非難し、世論を後押しした。
ある番組では次のような場面もあった。
「この海堂医師なんですが、どうしてオペができないって言っているのでしょうかね」司会者が話を切り出した。
「それは、難しくてできないんじゃないですか、国内の医師ではどうにもならないんでしょ。いくら彼女がすごい医師でもできないこともあるでしょ。それを大学を追われたからだって言われていますけど、強引じゃないですか…… 私はなぜ、彼女がここまで責められるのかわからないですよ」
あるコメンテーターがそう言うと
「でも、事前に診察した内科医は、海堂医師ならオペできますよって言っているんですよ。そこから考えれば、大学を追われた恨みだと考えるのが自然じゃないですか」
このコメンテーター瀬川という男は、以前に息子の入学で滝宮に世話になった恩義があるため懸命に彩を非難しようとしていた。
「実は、三十年前、アフリカでエボラ熱が大流行して、日本から出向いたボランティアのうち、アフリカの地で命を落としてしまった夫婦が海堂さんと言われるんですが、海堂彩さんはその娘さんではないのかという噂もありまして、その辺りのことはわからないのですかね」別のコメンテーターが尋ねると
「昔はね、いたんですよ。力もないのに正義感だけ振りかざして目立ちたい人がたくさんいたんですよ。多くが参加したボランティアで、命を失ったのは二人だけですからね、その人達の娘だったら、こんな身勝手も許されると思っているのかもしれないですね」
瀬川がここぞとばかりに押し込んだ。
さすがにこの瀬川の発言に対しては、テレビ局に抗議の電話が殺到したが、瀬川は当時の海堂夫妻の思いなど、誰もわからないし、わかるはずもないと思い、自らの発言を悔いることは決してなかった。
彩を知る者、彩に命を救ってもらった者は懸命に反撃したが、大勢が大きく傾いた中にあっては焼け石に水であった。
ただ、当の彩は口を閉ざしたまま、何も語らず耐えていたが、唯一、彼女の救いは、対峙する患者たちが
「先生、気にしないで、私は先生を信じているから……」と励ましてくれることであった。
それ以降もマスコミはあることないことを面白おかしく報道し続けた。
その内には、滝宮が動いて日本医師会から圧力をかけられた県医師会の要望によって、中山総合病院は記者会見を開かざるを得なくなってしまった。
出席者欄には、中山病院長、海堂医師(夫)と記されていたため、この時、海堂彩が結婚していたことを初めて知ったマスコミ関係者も少なくなかった。
冒頭、中山病院長の挨拶が済むとすぐに手を上げて立ち上がった者がいた。
「説明に入る前に出席者の海堂医師に伺いたい」
「何でしょうか?」
「あなたは、海堂彩さんの夫として出席しているのですか?」
「いいえ、この病院の医師として、この度の海堂彩がお断りした患者の病状や、執刀が可能かどうかの判断、専門的な問題もありますので、場合によってはその説明をさせていただきたいと考えています。加えて彼女がここまで追い詰められた状況はわかっていますので、可能な限り、その辺りもお話しさせていただければ、と思っています」
「ちょっと待って下さいよ。あなたが夫で妻のことを心配するのはわかりますよ。でもあなたの奥さんは日本でもトップレベルの医師なんですよ、その人を妻にしたからと言ってあなたまでトップレベルの医師になったわけじゃないでしょ。そのあなたが、日本でトップレベルの医師が執刀しようとするオペについて、専門的な話をしてくださるんですかっ! 私達、マスコミを馬鹿にしているんじゃないですかっ……!」
「……」裕也は苦笑いしたが
「何がおかしいんですか、馬鹿にしているんですか? 我々が医療については素人だから、適当なことでごまかせると思っているんじゃないですかっ!」
「あなたが思われるように書けばいいですよ」裕也が冷たくあしらった。
「書きますよ。私は、形だけ整えようとしているこの記者会見の愚かさを書きますよ」
その記者は相当な剣幕でまくしたてた。
「今、質問された方にお伺いいたしますが、アメリカで七年半、多くの患者を救い、アメリカではトップの医師と称された長島裕也医師をご存知ですか?」
中山病院長が尋ねた。
「馬鹿にしているんですか、世界の裕也と言われる名医ですよ、知らないはずがないでしょっ、だいたい何の関係があるんですかっ!」
「彼、海堂裕也が、旧制、長島裕也です」
「えっ」記者の驚きようは尋常ではなかった。
会場ではどよめきが起きた。マスコミ関係者の中でも、地元を拠点とする一部の者はこの事実を知っていたが、地元にいるが故に海堂裕也と彩の人柄を知る彼らは、そのことを決して積極的には報じなかったので、この婚姻がベールに包まれていたのも事実であった。
そんな人達の中から
「恥を知れっ!」
「出ていけ、恥さらしっ!」
こんな罵倒がその記者に浴びせられ、彼は逃げるように会場を後にした。
その場で裕也は
「皆さん初めまして、海堂彩の夫、裕也です。このたびの件について、私なりの見解を説明させていただきます。ただ、海堂彩が心を閉ざしている部分もありますので、今一つわかりにくいところがあるかもしれませんがご容赦いただきたい。まず、この度の患者のオペについてですが、もしこのオペを成功させることができる医師がいるとすれば、それは海堂彩、ただ一人だと思います。加えて、もし彼女がいつもの彼女であれば、このオペは恐らく何の問題もないと思います」
「じゃあ、何故できないんですかっ」
まだヤジを飛ばす者がいた。
「彼女は今、心を病んでいます。そのため、外見ではわからないのですが、彼女にはその右手の震えがわかっています。だから彼女はオペができないという判断をしたのです」
「本当に震えているのですかっ、滝宮を恨んでいるから、そういうことにしたんじゃないのですかっ」再びヤジが飛ぶ。
(こいつ、滝宮の回し者か……)裕也は一瞬そんなことを思ったが
「大学を追われたことは恨んでいないと思いますよ。私もそうですから……」
淡々と答えた。
「じゃあ、なぜ、心が病んだのか、そこを説明してくださいよっ」
「そうですよね、そこの説明が許されるのであれば全て解決するのですが、そこに立ち入ると、また傷つく人が出て来る。海堂彩はそれがわかっているから耐えているんだと思います」
「あなたにはわかるっているのですかっ」
「私には想像ができます。でも、彼女が口を閉ざしている以上、私の口からはお話しはできません」
「じやあ、海堂彩を呼んで来て下さいよっ」
「無茶を言わないでください。彼女を連れてきたらどうするんですか?」
「そりゃー、問い詰めますよっ」
「あなた、ここまでの話を全然理解していないですね」
「何ですって!」
「申し訳ないが、ここからは口を挟まないでいただきたい」
「……」
「お見受けしたところ、半数近くは地元の方だと推察いたします。地元の方であれば、これまで何らかの形で海堂彩の噂をお聞きになったことがあると思います。これから調べていただいてもかまわない。そうすれば海堂彩が見えてくると思います。その上で、逆恨みが原因なんだと思われれば書けばいい、でも、海堂彩にも言うに言われない事情があるはずだと信じて下さる方が一人でもいれば私はうれしいです」
この会見から、一部雑誌の中には、海堂彩を擁護するような記事も掲載されるようになったが、それでも大勢は変わらなかった。




