異国の地でささやく【神の指先】
しかし、その夜、夕食に顔を出さなかった王子の体調がすぐれないことを知った彩は、奈津子とともに彼の部屋を訪れて症状を尋ねた。
「頭蓋咽頭腫か……」奈津子が呟いた。
「でも、病院長ほど進行はしていないような気がする……」
「どうするの?」奈津子が尋ねると
「わからない…… どうしよう」
彩は目を閉じてしばらく考えたが何も見えてこなかった。
部屋へ戻った二人の様子がおかしいことに気づいた中野麗奈がやって来て
「何かあったの?」と心配そうに尋ねた。
「うーん、王子をどうするかで悩んでいるの?」奈津子があっさりと言ったのだが
「ええっ、どういうこと! 」
「そんなに大きな声、出さなくても……」奈津子は驚いた。
「だって、まさかここで手術しようなんて考えているわけじゃないでしょうね」
中野麗奈の眼つきが変わった。
「……」
「ちょっと待ってよ、絶対にだめよ! 何かあったらどうするの! この国の法律で裁かれるのよっ。絶対にだめよっ!」中野は懸命であった。
「中野さん、聞いて下さい」彩が拝むように言葉にした。
「聞くけど、絶対にだめよ! 私は星野さんと約束したの、絶対にあなたを無事に連れて帰るって!」
「えっ、星野さんを知っているんですか?」
「一度会っただけだけど、とても心配していた……」
彼女は星野とのやり取りを詳細に説明し、何も語るつもりのなかった自分が、彩に対する星野の思いに触れて真実を話したことを訴えた。
「星野さんにはとても感謝しています。でも、ここは医師として何をするべきか…… だと思うのです」
「そんなことを言ったって……」
「中野さん、私は、この国の人達にこんなによくしていただいて、遺骨の返却は断ろうと思っているんです。それがこの国の方々に対する私のお礼というか、誠意だと思うのです。寺院で、両親に手を合わせた時にそう思いました。 その時は、それでいいって思ったんです、でも……」彩は言葉を詰まらせてしまった。
「彩がもし、医師でなかったらそれで十分なんだろね、でも彩は医師で、彩にとってはさほど困難なオペでないとすれば、知らない顔するのは辛いよね」
「……」彩は静かに頷いた。
「だめ、絶対にだめ、じゃあー、王子に日本に来るように私が説得する。だから日本で手術すればいいじゃないの……」
「……」二人は顔を見合わせてため息をついた。
「えっ、どうしたの?」
「なんか、信仰か、国の問題かわかんないけど、王子はあと半年の間、国を出ることができないらしい……」
「でも、でも命にかかわることなのに……」
「私達もそう言ったのよ、だけどそれが運命なら仕方ないって……」
「なっ、なんなのよっ……」
「とりあえず、関係器具だけ送ってもらおうか?」
「もう手配はしている」
「えっ」
「昨日、王子の様子がおかしかったから、もしかしたらって思って…… 明日にはスイスに着くはず」
「さすが奈津子……!」
「何がさすがよ、あなた達は国外の恐ろしさを知らないから……」もう中野は必死であった。
「失敗せずに助ければいいんでしょっ、彩が失敗するはずがない」
「そんなこと言ったって、色んな機械がいるんでしょ、日本みたいなわけにはいかないわよっ」中野が懸命に止めに入る。
「それがねー、星野情報によると大学病院並の設備が整っているらしいよ」
「えっー」
「まっ、見てみないと何とも言えないけどね」
「もう星野っー、余計なことを言って!」
どうにもならないと思った中野は、部屋へ帰ると星野にメールを入れたが、返ってきたのは
『仕方ない、それが海堂彩なんだ。七年間、彼女を追ってきた俺にはよくわかる。彼女の無事な帰国を待っている俺としては、やりきれない思いがある。でも、海堂彩は、助けることができる命があれば、絶対に引かない。君も諦めろ、そして祈れ!』
どうにもならない旨を綴ってあった。
諦めきれない中野麗奈は、国王に直談判を始めた。
「国王様、海堂彩は王子の手術をしようとしています。私は認める訳にはいきません。彼を日本に連れて行くことはできませんか」
「あと、半年の間、王子は国外へ出ることはできません。 何十年も守り続けている先祖との約束ごとです」
「でも、そのために命を落とすことになってもいいんですか!」中野は語気を強めた。
「それが運命であれば仕方ないです」
「でも……」
「彼は、もうそんなに永くはもたないでしょう。 神を冒涜した我々の罪です。 海堂夫妻に守られて我々はここまで幸せに暮らしてくることができました。その代償はあまりに大きいけれども仕方ないです」
「でも、救える命です」
「神の前では、我々は無力です」
( かっー、この人、訳わかんないし、もうどうしよう…… )
中野麗奈は焦っていた。
「国王、海堂彩が【神の指先】を持つ女医だということを知らないのですか?」
「えっ、そんなことは知りません」
「この国の医師に聞いて下さい。ネットで海堂彩を調べて下さい」
傍にいた者が直ぐに医師に連絡を取ると、五分後に医師らしい中年の男性がやって来て、ネット情報を国王に伝えた。
驚いた国王は、
「海堂夫妻の娘さんはそんなにすごい医師なのですか?」と目を見開いて尋ねた。
「医療大国、日本でナンバーワンの医師です」
中野は医療大国などという言葉を聞いたことはなかったが、それでも懸命であった。
「誰もできないオペを簡単にやってしまうらしいです。でも私達は、海堂夫妻の娘さんと神の指先を持つ女医が同一人物だとは知りませんでした」その医師が説明した。
「彼女だったら、王子を救えるのか?」
「おそらく」
「そうか……」
「国王、どうか日本へ連れて行かせて下さい」
「……」
「神の指先は、あなたが言う罰をあてた神様には負けません」
中野は自分でも訳のわからないことを言っているのがよくわかっていたが、それでも渾身の思いを国王にぶつけた。
「この国で手術はできないのですか? 最新の設備を整えているはずなのですが……」
不思議そうに国王が尋ねると
「それはできません。この国の法律がわからないし、何が起きるかわかりません」
悲壮感を漂わせて懸命に話す中野麗奈に
「あなたは何を恐れているのですか?」国王が耐えきれず尋ねた。
「私は…… もし何かあった時に、海堂彩がこの国で裁かれるようなことになったら……」
「どんなことがあるのですか?」
「もし、もし万が一、手術が失敗して、もし、もし王子が亡くなるようなことになったら……」
「でも、それは神の意志でしょ。海堂彩さんのせいではない」
この人は何を言っているのだ…… 国王はそんな表情をしていた。
「そのことを保証していただけるんですか? 」
「どうすればいいのですか?」
「紙に書いて、国王がサインして下さい」
「はははっはは、そんなことは簡単ですが、それが何になるのですか? そんなものは知らないって言われればそこまででしょっ。 それよりも私は海堂夫妻の墓前に誓いますよ。 仮に王子が天に召されることになっても、それは海堂彩さんの責任ではない。 私も国民もそれを神の意志として受け止めるということを……」
毅然と語る国王の言葉は中野麗奈を信じさせるに十分であった。
それでも、不安をぬぐいきれない彼女は、星野の心配そうに呟いた顔が脳裏に浮かび、
「何があっても、海堂彩を無事に出国させてくれますか」切羽詰まった表情で続けると
「あなたは何を言っているのですか? あなた達が帰国したい時には、いつでも帰国すればいいです。誰もそれを止める者はいないですよ」
そして、翌日、オペ室を見学に行った彩たちは、確かに大学病院並の、しかも最新の設備が整えられていることに驚いた。
その時、そこの責任者らしき医師が、一番奥に神棚のように飾られている場所に、横たわっているメスを指さして、
「あなたのお父さんが、最期に使っていたメスです」と説明してくれた。
驚いた彩が、近寄ってみると古い形のもので、今は見ることもないが、それでも錆びることなく輝いていた。
「海堂医師が私達を守ってくれます。当時若かった私は、あなたのお父さんの指示でエボラに感染して、回復した人を探しました。B 型は国王に、そしてO型はあなたのお父さんに輸血しようとしました」彼は俯いてしまった。
「父は拒否したのですね」
「はい、『私はもうだめだ、どうにもならない。救える命を救え、これは命令だ』そう言って拒否しました。いつも静かに優しく指導してくれた海堂医師から聞いた初めての【命令】という言葉でした」
目を上げた彼は、瞼に涙を浮かべながら当時を思いだしているようだった。
「そうですか……」彩は静かに応えたが、穏やかな表情をしていた。
「後から思ったのです。輸血すれば助かっていたのではないだろうか…… 何か変わっていたのではないだろうかって……」
彼は未だにさまよい続ける思いを口にした。
「父ははっきりと自覚していたのだと思いますよ」彩の確信に近い思いだった。
「ありがとうございます。でも、私はその責任の重さに耐え切れず、全てが終結した後に、一人ここに残って自ら命を絶とうと思っていました」
「そ、そんなことではないでしょう!」
「はい、でも辛くて辛くて、とても生きて行くことはできないと思っていました」
「そんな……」
「でも、そこに国王が来られて、私は全てを国王にお話ししました。国王は『その真実は海堂医師にしかわからない。その海堂医師の命令だったのだ。悔やむのはよそう、悔やむのは止めて、今後は彼に、そして彼の奥さんに感謝して生きていこう。そして、彼が教えてくれたことをちゃんと守って行こう』とおっしゃって下さって、私はここまで生きながらえてきました」彼は瞼に涙を浮かべながら懸命に思いを語った。
「あなたが気にされることではないと思います。 むしろあなたは父の最期の思いを汲んでくださったのだと思います。 命が尽きようとするときに、あなたに反論されていたら、父は苦しく辛かっただろうと思います。私にはそれがよくわかります」
「ありがとうございます」彼は彩の微笑に救われるような思いだった。
「国交のない国で、これだけの設備を整えたのはあなたですね」
彩には何となくそれがわかった。
「はい、まだお元気だったころ、海堂医師が言っていました。 『設備があれば、腕のいい医師が一人で命を救うことができる。 でも腕のいい医師が何人いても、設備がなければ命を救えない』彼の言葉です」
「あなたの信念が、明日、王子の命を救いますよ。 この設備がなければ、半年も国を出ることのできない王子は命を落としてしまいます。 でも、見えないいつかのために、こうして設備を整えて、おそらくあなた達も腕を上げようと努力したのでしょう、そのことが明日報われます。 私は絶対に王子を救って見せます」
彼はもちろん、周りで聞いていた医師たちも涙を流し彩に手を合わせた。
しかし
「私の国は、神の国を冒涜して、私はその罪を償わなければならない。そうしなければ、国民や子孫がその報いを受けることになる」
王子はそう言って頑なにオペを拒否した。
その王子に
「私は、五歳の時に両親を失い、私を置いて旅立った両親を恨んでいました。 でも、この歳になって初めて両親の真実を知ってとてもうれしいです。私が両親に向き合えなかった長い歳月、皆さんが両親を守って下さいました。こんなによくしていただいて両親はとても喜んでいます。ですから遺骨は、今後も皆さんのところで祀ってやって下さい」
彩が応えた。
「えっ、ほっ、本当ですか、許してくれるのですか、返さなくてもいいのですか……!」
王子の驚きは尋常ではなかった。
「もちろんです。両親もそれを望んでいます」
「ありがとうございます。 ありがとうございます。 私達は何をすればいいですか、あなたのために何ができますか? 」
彼は懸命に思いのたどり着く場所を求めていた。
「今まで通りで十分です。そしていつの日か、もうこの遺骨は必要ないと思う時があったら、その時には返して下さい」
「わかりました。本当にそんなことでいいのですか……」
「私は、ここに来て、初めて両親の魂に触れることができました。その両親が、寺院で初めて手を合わせた時に、王子を助けてあげて、あなたの務めよって言ったんです」
「えっ、本当ですか?」
「これだけのことをしていただいて、何のお礼もしないで帰ることはできません。 まして、それが両親の思いであるのなら……」
「彩さん……」
「この時期に私があなたの病に出会ったのは神の導きによるものです。 救えない命はどのようにしても救えない。でも救える命は必ず救います」
「……」
「あなたは、神が示されたこの流れを変えるべきではない」
彩の説得はなにものにも代えがたかった。
検査データは毎日のように嫌になるほど積み上げられていた。それを見た彩には何の迷いもなかった。
そして翌日、王子のオペが始まった。
奈津子はいるものの、麻酔科医に指示を出しながらのオペは大変であった。
しかし、髙井病院長の時のそれに比べれば他には何の困難もなかった。
オペの当日、海堂夫妻の眠る寺院の前では無数の人達が手を合わせ祈っていた。
モニター室での見学を勧められた中野麗奈は、とても耐えられそうにないと思い、一人寺院に向った。
国王からの確約はもらったものの、もし何かあった時に、本当に大丈夫なのだろうか…… そんなことを考え始めると、不安が彼女を覆い尽くしてしまった。
「絶対に彼女の身に何かあってはいけない。 彼女は日本医学会の宝なんです。それに何より、彼女は絶対に幸せにならなければいけない。三ヶ月後には敬愛する医師との結婚が待っている。その彼女が帰って来ないようなことがあっては絶対にならない!」
そう言って思いを込めた星野の表情が脳裏を駆け巡った。
彼女は若いこともあって、決して信仰心のある女性ではなかったが、不安を打ち消すことができないまま、彩の両親にただひたすら祈り続けた。
予定では、最低でも三時間、場合によっては五時間の可能性もあると言っていた彩であったが、オペはあっという間に二時間で済んでしまった。
立ち合いを許された三人の医師はもちろん、モニター室で画面にくぎ付けになっていた他の医師も、彩のメスに驚いた。
これが【神の指先】なのか、誰もが生まれて初めて目にする神業に言葉を失った。
神の国から来た【神の指先】を持つ女医は、やはり人間を超越している…… やはり海堂夫妻の娘なんだ、誰もがそう思って感謝した。
と、同時に、日本に行きたい、そして日本で勉強したい、若い医師たちは海堂彩のいる国にあこがれを抱き始めていた。
王子の術後に万全を期したいと思った彩は、当初の帰国予定を二日伸ばした。
中野から星野の元に逐次メールが入ってはいたが、それでも彼は彩が帰ってくるまで気が気ではなかった。
三日後には、車いすで移動できるまでに回復した王子は、涙を流しながら
「私の国は海堂夫妻に救っていただいた。それなのに私達は勝手な思いで遺骨をわからないとお伝えした。なのに、あなたはそれを許して下さった上に、夫妻がここに留まることをお許し下さった。さらに死を覚悟していた私の命まで救って下さった。私はあなたのいる日本の国とあなたに、最大の敬意を払います。今後、スゴイ王国は、あなたのためであれば何でもさせていただきます」
次期国王を約束された男の熱い思いであった。
そして出国の日、国王の横に美しい女性と五~六歳の男の子が立っていた。
「王子の妻と、子供です」と国王から紹介され、皆が驚いた。
子供が風邪をこじらせていたらしく、看病していた母親も皆にうつしてはいけないということで大事を取っていたらしい。
「そうだったのですか…… 王子が国民と子孫ってよく言われていたのを聞いて、不思議に思っていました」彩が微笑むと、
「王子に代わってお見送りに来ました」とその妻が微笑んだのだが、奈津子は中野麗奈の様子が明らかにおかしいことに気づいていた。
「中野さん、良いお返事をお待ちしています」
と王子の妻から微笑まれた彼女は明らかに困惑していた。
彩はそのやり取りに何かを感じた様子はなかったが、感のいい奈津子は
( 何かあったな…… )そう思って、明らかに落胆している中野麗奈の横顔を見ていた。
ジェット機が離陸するとすぐに奈津子が
「ねえ、中野さん、何かあったの?」薄笑いを浮かべて尋ねた。
「なっ、何もないわよ。どうしたの?」明らかに彼女は狼狽していた。
「へえー、何もないの…… そんなはずないでしょ……!」
「奈津子、どうしたの? 何かあったの?」驚いた彩が二人を見つめる。
「わたしじゃないよ、この人、王子に惚れたのよ」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよっ」
「だけど、王子が結婚していることを知らなかったんでしょ」
「どっ、どうでもいいわよ。あんなの、結婚していてもしていなくても、どうでもいいわよっ」
「あんた、わかりやすいわねー」
「なっ、何よ……」
「もう、正直に言いなさいよ、すっきりするわよ……」
「もっ、もうあんな奴、助けなければよかったのよ!」
「ちょっ、ちょっと中野さん」
彩は慌てて外務担当官の顔を見たが、彼は静かに微笑んでいた。
「だいたいね、私は昨日プロポーズされたのよ」中野は投げ捨てるように言葉にした。
「ええっー」
「結婚しているのにプロポーズする?」彼女は懸命に訴える。
「申し訳ありません、王子は第二夫人にと考えておられたのですが、その説明はなかったですか?」外務担当官が慌てて補足した。
「はあー、それって愛人じゃないの、あなたの国はどうなっているのよっ!」
中野は外務担当官にかみついたが
「申し訳ないです。日本の女性は恐いですね」と小さな声で彼は呟いた。
「はあー、だいたい、奥さんが『いい返事を待っています』ってどういうことなのよ、もう訳わかんないし……」
「そっ、それは我が国の女性は、あまり男性を責めることはしません。それに、それに女性は結婚して子供ができると、夫の世話をしなくなります。子供ができると、子供が一番になってしまって、そのため、第二夫人が来られることをむしろ望んでいます。これは人口の約七割が女性であることにも関係があるかもしれません」
「はあー、私、そんな国には行きません。二度とこの国には来ませんから……!」彼女の怒りはマックスにに達してしまった。
「あんた、おもしろいねー、公務員なんて堅物で、感情なんて持っていないやつばかりかと思っていたけど、あんたは楽しい、私は好きだよ」
「おっ、女のあなたに好かれたってうれしくないわよ」
「中野さん……」彩が心配そうに見つめた。
「だいたい、あんな奴、助けなければよかったのよ」
「よく言うよ、寺院で目いっぱい拝んでいたくせに…… 聞いたわよっ」
「そっ、それは…… もういいわよっ」
「もうあんた、ハチャメチャね」
「だってね、イケメンだし、優しいし、一瞬は思ったのよ、次期国王の奥さんになったら、皆に頭下げられて、仕事しなくていいし、お金の心配もしなくていいし、ぺこぺこしなくていいし、一瞬だけ、いいかなって思ったのよ……! だけど、結婚していたなんて、何よっ、結婚詐欺じゃないのっ、私訴えてやるから!」
「あはははっは、麗奈ちゃん、楽しい。これから仲良くしようね」
「しないわよっ、フン」
そんな中
「外務担当官、一つお尋ねしてもいいですか?」突然、彩が神妙な表情を彼に向けた。
「はい、何でしょう?」
「私の父は亡くなる前に、国王から私に『すまなかったと伝えて欲しい』とお願いしたんですよね」
「はい、私もその場所に居ました」
「でも、どうして今まで何も言ってくれなかったのでしょう…… 責めるつもりはないのですよ、でもあんなに感謝していただいて、国民の皆さんが私を見てあんなに喜んでくださって…… せめて、何かお知らせでもいただければ、私の中でもっと早く何かが動き出したように思うのですが……」
彩は、決して不満をぶつけたわけではない。
ただ、あれだけの思いを持っていてくれていたのに、何故、それがベールに包まれたままだったのか、そのことが不思議でならなかった。
「おそらく、国王は国外に出ることができないんですよね」
中野が静かに外務担当官に尋ねた。
「おっしゃる通りです」
「でも、それだったらせめてお手紙でも……」
「そこについては、私も含め、相当に議論を重ねました。しかし、結果として文字では思いが伝わらない、と考えたのです。国王がお礼の手紙を書いて、その中でお父さんが、あなたにすまなかったと伝えて欲しい、と謝っていましたと記述しても、それは単なるきれいごとのようになってしまい、真実味は薄れてしまいます。国王はこの事実を決して、軽々しく終わらせたくはなかったのです。それに、あなたのお父さんが、『国王の口から』と言われたことが、最後には手紙という選択肢を失くしてしまいました。 それならと、せめてお参りに来ていただけないでしょうかというお手紙の文案まで作ったこともあるのですが、やはり、最後には遺骨のことが問題になってしまいまして…… 」
「そうですか……」
彩は確かにその通りだと思った。
両親が亡くなったあの部屋で、涙を浮かべながら懸命に国王が話してくれた父の言葉が、『娘にすまなかったと伝えて欲しい』という自分に対する最期の思いが、もし文字でぶつけられていたら、父のその思いが、そしてその無念がここまで伝わってくることはなかったのだろう、そんなことを思いながら、彼女は静かに目を伏せた。
「最後は、神の導かれるままにと結論してしまいました。国王が亡くなれば、王子が…… いつか必ずお会いできるチャンスがあるはず……そう信じていたのです。ただ、この事実は永延に語り継がれなければならないと考えた国王の指示で、小学校で勉強する【スゴイ王国の歴史】に詳細な事実が記載され、夫妻が眠る寺院のことも書かれてあります。その最後には
『私達は未だ海堂夫妻の遺族にお詫びできていない。いつの日か誰かがこの思いを伝えなければならない』と記されています」
「教科書に……」
「いつの日にか……と思いながら感謝の心だけは世代を超えてもつないでいこうとしていたのです。寺院に向って手を合わせるようになったのも、国民のそんな思いからです。決して国が義務付けたわけではないのです。誰かが寺院に向って手を合わせるようになって、その内に皆が手を合わせるようになったのです」
「本当にありがたいです……」彩は瞼に涙を浮かべ一言だけ返した。
そして、無事に帰国した三人は、星野に迎えられ、中野は自宅へと向かったが、彩と奈津子はとりあえず都内のホテルに宿泊し、スゴイ王国の概要を話した後、三日後の日曜日に中山総合病院で報告をすることにした。
その日曜日、彩の話を聞いた星野は、彼女の希望に沿って、実名と国の名を出さないことを条件に記事を書いた。
『 三十年目の真実、エボラ出血熱に苦しむ人々を救済するために出かけ、かの地で命尽きた夫妻の真実は……』
書き終えた彼は、記事を読み返して見たが、それは記事というよりも物語だった。
彼は静かにその記事を閉じて公表することはしなかった。




