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神の指先がささやく  作者: 此道一歩
第1章 祖父の死、そして新たなページ
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居るべき場所を求めて

 葬儀の翌日、彩は東京へ帰る前に、病院長夫妻を訪ねた。


「こっちへ帰って来ようかと思っています。もし、帰ってきたら雇ってくださいますか?」

「彩ちゃん、そんなうれしいことはないけど、何か、義理とか、お礼とか、そんなことを考えているんじゃないよね」病院長が心配そうに尋ねる。

「そんなことはありません。純粋にこの街に帰りたいだけです」

「だけど、トップクラスの外科医がこんな病院でいいのかい?」

「そんな、トップクラスだなんて、とんでもないです。周囲の人達に祭り上げられただけです。普通の外科医よりも、ほんの少し、メス先が繊細なだけです。私みたいなのはいくらでもいますよ」


 彩は謙遜したが病院長はその鋭さを知っていた。

 彼は半年ほど前、苦心の末に彩が執刀した手術のDVDを手に入れ、見たことがあった。

 信じられないような隙間にメスを入れて行くその動画を見て、彼は緊張のあまりに汗だくだくになってしまった。

 私だったらとてもできない……

「おい、そんなところまで……」一人ごとを(つぶや)きながら、画面にくぎ付けになったことを思いだしていた。

 三時間の手術を終えた後、しばらく目を閉じた彩が、パッと目を開くとカメラに向って微笑んだのを見て、彼は度肝を抜かれた。

 見ているだけで緊張して、手のひらは汗でびっしょりになってしまったのに、彩は汗もかかず、自信をもって臨んでいたのであろう…… 最後の微笑みが全てを物語っていた。

 あんなところにメスを入れることができる医者なんて見たことがない……

 まさに神業と言わざるを得ない。

 彼はそれ以降、【零の隙間にメスを入れる医者】と称して彩を絶賛していた。


「幸一のことを気にしているんじゃないの?」玲子が気遣う。

「実はそれもあります。あの人と向き合ってみようと思っています」

「だけど、二人がうまくいかなかったとしても病院へは残ってくれるんだよね」病院長も不安を口にする。

「幸一と一緒にならないことが、病院を去ることにはならないよね」玲子も続ける。

「そこをご理解いただけるのはとてもありがたいです。その方向で検討してみていいですか?」


 東京に帰った彩は、まず奈津子に思いを打ち明けた。

以前から中山一家の話を聞いていた彼女は

「彩、絶対、その人と一緒になりなさい。どんなことがあっても、その人と一緒になりなさい!」と懸命に話してくれた。

 結婚で苦渋をなめたこの女性の言葉ほど重みのあるものはなかった。


 ついに彩が故郷へ帰ることを決心し良太に話すと、「好きにすれば……」彼は一言だけ投げ捨てるように言って立ち去った。


 病院長に「お二人に話したいことがあります」と伝えると、三十分後を指定され、病院長室には、良太の母親である理事長も待っていた。

 ソファに座った彩は、まず良太との別れを切り出した。


「あの子と別れるっていうことは、この病院にいられなくなるってことよ、それでもいいの?」

 突然の話に母親である理事長は、彩を睨み付けて厳しい口調で言い放ったが

「やめなさい、彼女の仕事と良太は何の関係もない」人格者である病院長は厳しく妻を制した。

「地元へ帰ろうと思っています」彩が続けると

「ちょっと待ってよ、急すぎるでしょっ、良太とは話し合ったの?」

「はい、『好きにすれば…』と一言だけでした。やはり、ここは私のいる場所ではないような気がしています」

 心の決まっている彼女は冷静に対応した。

「あなたが優しくしてあげないからでしょっ、いつもこぼしているわよっ」

 母親の責めるような言葉に

「やめなさいっ! 」病院長の声が厳しさを増す。

「あなた……」

「これ以上、彩さんに何を求めるんだ。だいたい、お祖父さんが亡くなられたあの日、あいつは何をしていたんだっ! 彩さんが一番つらい日に、あいつが何をしていたのか知らないのかっ!」

「病院長……」彩はこの人には魅かれていたし恩も感じていた。

「ほんとに申し訳ない、あんな馬鹿な息子をあなたに押し付けようと思っていた私が愚かだった」

「あなた、どういうことなのっ!」

「君だって、息子の嫁にと考えていた人の、一番大事な人が亡くなったんだよ。顔を出したって罰は当たらないよ。それなのにおそらく電話一本も入れていないだろ。私が海外にいたのも不運だったかもしれない」

「だってお香典は送りましたよ」妻が不服そうに言い訳をする。

「人を大事に思って受け入れるというのは、そういうことじゃないよ。人の心とか、思いとか、大事なものをお祖父さんから教えられて育った彩さんは、あの日に私たちの家族にはなれないって思ったんだよ。全ては、私の責任だ。ほんとに申し訳ないと思っている」

 病院長が彩に向かって深々と頭を下げた。

 

 しかし、その翌日、彩の親友、奈津子を呼びつけた理事長は

「あなた、彩さんが辞めるって言っているのよ、知っている?」

「いえ、初耳です。でもそれって大変ですね」

「そうなのよ、あなた、彼女を説得してくれないかしら?」

「えっー、私がですか?」

「彼女がいなくなったら、あなただって居場所はないわよっ」

「えー、子どもだっているのにそれは困ります」

「そうでしょ、だったら説得しなさいよ」

「はい、わかりました」


 彼女は理事長の話に付き合った後、既に用意していた辞表をもって病院長室へ出向いた。


「どうしたんだ、何故、君が辞めるんだ」

「もう嫌ですよ。病院長には感謝しています。でも、理事長にはそれ以上に嫌な思いをさせられています」

「何があったんだ」

「彩さんを説得しないと、私の居場所はないって言われたので…… 説得するつもりはないのでもう辞めます」

「そうか、引き留めてもだめなんだろうな」


 そして、彩の手術日程を調整し、来月、十月末をもって彼女はこの西塔会病院を去ることが決まった。


 その最後の日、玲子が上京してきた。


 病院長に挨拶を済ませた彼女は、

「彩ちゃん、おばさんのわがまま一つだけ聞いてくれる?」

「はい、何でもどうぞ」

「ここの白衣はね、ここで処分してもいい? 色んな思いが詰まっていると思うけど、ここでの思いはここに置いていきましょう。うちでは全て用意しているから……」

「はい、おばさんの言うとおりでお願いします」


 玲子は、持って来ていた葉っぱのようなものでそれを払うと、丁寧にたたみ、袋に入れ、ナースステーションへ処分を依頼した。


その日、故意か偶然かはわからないが、理事長と良太は不在であった。

 看護師や医師達とともに見送りに出てきた病院長は、深々と頭を下げる玲子を見て、妻にせめて彼女の半分でも人の思いがわかる心があれば、彩さんはここにとどまったのかもしれない。

 大事な人を迎えるというのはこういうことなんだろうな…… 

 そんなことを思ったが、車が出た後、その未練を振り払うかように、かすかに頭を左右に振ると、振り向いて院内へ消えていった。


 そして、十一月四日、中山総合病院へ初出勤した彩は、玲子から心のこもった白衣を渡された。

 玲子の思いが、彼女の心が、そして祖父の再手術を断念したあの日、泣き崩れた自分を抱きしめてくれた彼女の母親のような暖かさが、じわっーと浸み込んでくるようであった。


( やっぱり、ここだ! 私のいる場所はここだ! )


 彩は心の隙間にメスを入れられたような心地よさを感じ、玲子の思いの籠った白衣を身に着けると診察室へと向かった。


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