星野の思い
電話を切った後、星野はこの七年を思いだしていた。
かつて、長島裕也と海堂彩が伐々大学病院を追われることになった日、彼は長島裕也から日本に残していく海堂彩の近況を知らせて欲しいと頼まれた。
それを快く受けたのは、滝宮教授の口車に載せられ、長島を罵倒して記事を書こうとした彼の償いの意味もあったが、それにも増して、海堂彩が三十年前アフリカの地で命を落としてしまった海堂夫妻の娘であるという事実が彼の思いをかきたてていたからである。
それ以降、彼は西塔会病院で働き始めた彩から目を離さなかった。
研修医を終えてまだ二年にもならない彼女だったが、その評判は日を追って高まっていった。 彼女の名声を高めたのは理事長である髙井亜美の手腕に他ならなかったが、そんな中で、その一人息子である良太との結婚話がまとまり、星野は困惑していた。
そんな時、仕事でアメリカに出かけた彼は、三年ぶりに長島裕也に再会した。
この地で思う存分手腕を発揮していた彼は、既に国内にその名をとどろかせ、彼を求める患者が後を絶たなかった。
「長島さん、あの馬鹿息子はだめですよ。彩さんとの結婚話がまとまったその日に、合コンですよっ、考えられないっしょ」
「そうか……」重苦しい雰囲気が流れた。
「何とか、彼女を留めて下さいよ」
「でもなー、彩の人生だからな……」
「彼女と一緒になる気はないんですか?」
「お前、ずばりとくるねー」彼は微笑んだがどことなく寂しそうで、星野にはその胸の内の苦しさがわかるようだった。
「だって、時間がないですよ。長島さんが、一緒になろうって言えば、直ぐに飛んできますよ」
彼は思いを語ろうとしない長島に苛々していた。
「お前さー、簡単に言うけど、あの娘を幸せにするのは大変だよ」
「どうしてですか、あなたといれば彼女は絶対に幸せですよ」
「……」
「長島さん!」
「俺にもよくわからないんだよ。医師という立場で考えれば、二人のつながりは相当なものだと思っている」
「ええ、おっしゃる通りです。彼女は長島裕也に陶酔していますからね」
「だけど、医師としてだろ? 人としてはどうなんだ…… 男と女としてはどうなんだよ。俺にはそこがわからない……」遠くを見つめて呟くように語る長島だったが
「長島さん、なに子供みたいなことを言っているんですか! 愛しているんでしょっ」
星野には長島がどれほど彩のことを思っているのか、十分すぎるほどわかっていた。
「わからない……」
「ええっー、何でですか、絶対に愛していますよ」
「何でそう思うんだ?」
「もう、訳わかんないですねー。そんな小理屈を言っている場合じゃないんですよ」
「だけど、彩を見ていて、俺はあいつを抱いてみたいなんて思ったことはないんだよ」
彼は、彩に対する思いが、妹である明子のそれに似ているような気がして、どこかすっきりしないと所があった。
「そんなー、長島さん、あなたは恋愛したことないんですか……」
「ない!」
「ええっー、でも、もてたでしょ、告られたことだってあるでしょ」
「何度も告られた」
「ええっ、もう訳わかんない人ですねー」
「はははっは、俺はさ、両親が中学生の時に亡くなって、兄夫婦に育ててもらったんだよ」
「えっ……」突然の話に星野は困惑したが
「兄も俺が大学一年の時に亡くなって、俺は大学を止めようかと思ったんだ。だけど、義姉さんが、涙流して亡くなった両親や兄に顔向けができないって…… 家売ってでも何とかするからって……」そう言う長島に、星野は知らないうちに引き込まれてしまった。
「すごい人ですね」
「ああ、わかるか?」
「そりゃ、わかりますよ」
「それで、兄の二人の子も、家なんてアパートでもいいって、だから、絶対に医者になってくれって……」
「それで、家は?」
「売ってしまったよ」
「ええっー」
「まっ、親父の家だったから、いくらかは俺にっていう思いもあったんだろうけど、普通、そこまでしないだろ……!」
「そうですね……」星野はかすかに涙ぐんでいた。
「お前、人の人生で泣くなよっ……!」
「すっ、すいません」
「十五歳の時から、そんなすごい人に育てられたんだよ」
「お義姉さんとはいくつ違うんですか」
「十二歳だよ」
「そんなお義姉さんを見ていたら、同じ年頃の女性なんて馬鹿に見えたんでしょうね」
「はははっはは」
「えっ、まさか、そのお姉さんのこと、愛しているんですか?」
「お前の発想は、いつも馬鹿みたいだけど、少しは的を得ているんだよね」
「えっ」
「研修医が済んで、おれが二十六、義姉さんが三十八の時だったかな、結婚しようって言ったら、殴られたよ」彼は当時を思いだしているようだった。
「ええっー」
「恩返ししたい思いがあるんだったら、一人でも多くの人を救えるような医者になりなさいって、あなたがそんな医者になったら、義姉さんも頑張って来て良かったって思えるって」
「その人、美人なんですか……」
「何が美人なのかよくわかんないけど、俺好みの顔だな……」
「そうじゃないでしょ、お義姉さんの顔だから、そんな顔が好みなんでしょっ」
「確かにそうかもしれない。お前、時々、鋭いこと言うよな」
「なんか、海堂彩さんの話しをしていたのに、長島さんの人生聞いたら、疲れちゃいましたよ」
「だけど、お前も熱心だなー、惚れたのか?」
「なっ、長島さん、なんてことを言うんですか! あなたに頼まれたからですよっ」
「だけど、それだけなのか、なんか必要以上に動くし、心配するし、おかしいぞ」
「そっ、それは親父のこともあるんで……」
「なんだよ、それ」
「実は、私の父親も海堂夫妻と一緒に出掛けたボランティアの一人だったんです」
「へえー、そうなのか」
「その父親が、亡くなる前に海堂夫妻には娘がいたんだ、何もしてあげられなかったって涙流して悔やんでいたんです」
「そうか」
「だからあの人には幸せになって欲しいんです。いや、あの人は絶対に幸せにならなければいけないんです」
「ふーん、それがお前の思いか……」
「だってそうでないと、世の中、不公平でしょ!」
星野はそう話したものの、自分でもよくわからなかった。
父親の無念があったからなのか、ただ彼女に同情しているからなのか、あるいは彼女に惚れてしまったのか…… ここまで彩のことを思う自分の気持ちが全くわからなかった。
「だけど世の中なんて不公平ばかりだよ、どんなに頑張っても報われない奴がいるのに、何もしなくてもいい場所に座っている奴もいる」
「もう何を言っているんですか…… そんなことはどうでもいいですよ。彼女を幸せにできるのは長島裕也だけですよ。とにかく彼女を留めて下さいよ」
「でも、やっぱり、彩の人生だから仕方ないよ。だめだったら別れればいいよ。彩がさまよっていたら、その時は俺が責任取るよ……」
「そんなー……」彼はもうこれ以上押すことができなかった。
「ところで、彼女の両親のことは何かわかったのか?」
「かなり時間を費やしてはいますが、とにかく入国できない国なので限界があります」
「そうか、でも、いつかあいつが心を開いた時は、力を貸してやってくれ」
「もちろんです」
彼はすっきりしない思いを抱えて帰国したが、その後も海堂彩の近況を報告し続けた。
ただ、その中で、彼女が婚約を解消して、静岡に帰ったという情報に、長島裕也からは
『そうか』というメールが一言返ってきただけだったが、彼の笑顔が見えるようだった。
そしてしばらくして、
『中山の息子と一緒になりそうか?』というメールが入って来たが
『まだはっきりしませんが、中山病院長夫妻に対する信頼は絶対的なものがあるようです。 中山病院長夫妻は、彩さんが幼い頃から彼女を大事にしていたようで、彼女が息子の嫁になってくれるのを望んでいるのは間違いないです。ただ、お二人とも人格者ですから、そのことが彩さんの負担にならないように注意を払っているようです』
そう返すと
『そうか』と一言返ってきたが、この一言は悲しそうであった。
それでも、しばらくして、
『中山の息子は看護師と一緒になるみたいです』
と報告すると、
『そうか、お前には悪いけど俺は決めたよ』
長島にしては珍しく、決意表明にも思える言葉だった。
彼の決意を知って、星野は
(それがいい、それが一番だ……)と思ったが、それでも言い知れぬ寂しさが襲ってくるのは何ともしがたかった。
そして先日、
「彩が両親のことを知りたがっている。話してやってくれ!」というメールを受け取った彼は、知りえている情報の全てを彼女に話し、中野麗奈の思いも聞き、ここに至った。
( 俺にできるのはここまでか…… 後は彼女が無事に帰ってくるのを祈るだけだ )
できることはやったという達成感はあったが、それでも不安は否めなかった。
( 彼女がスゴイ王国に出向いてしまったら、後は帰国するまで安堵することはできないんだろうな…… ) そう思って彼は家路に着いた。




