苦悩の28年
中山総合病院長の妻、玲子はかつて彩が西塔会病院の髙井病院長のオペを行った日
「いつの日か、両親が眠る地に行ってみようって思います」
そう言って初めて両親に向き合ってみようとしている彼女を知って、救われたような思いの中で静かに時を遡っていた。
彩が幼かった頃から、アフリカの地で命尽きた両親の話を始めると、彼女はいつも耳をふさいで頭を激しく振り「いやっ、聞きたくないっ!」そう言って拒絶してきた。
祖父母が話そうとしても同じであった。
誰もが彩の心の奥深くに眠る両親に対する恨みにも近いような思いを取り除いてあげようと懸命になったが、決してそれはかなわなかった。
しかし、昨夜、その彩から「両親の話を聞かせて欲しい」と連絡があった。
玲子は瞼に涙を浮かべ、両親の死を知った時、まだ小学生にもならない彩の顔から表情が消えたことを思いだしていた。
翌日、午後のオペが済むと、彼女は奈津子を伴って病院長室へ出向いた。
「もし、今後、このことで自分を見失うようなことになったら恐いので、奈津子にも聞いて欲しいんです」
「そうね、その方がいいわね」
「すいません」
「彩ちゃんのお父さんは、この病院の医師だったのよ」玲子が微笑んだ。
「はい、昔、噂で聞いたような気がします」
「そうなの、何となく知っていたのね……」
「はい……」
「そしてお母さんは看護師で私の親友だった」
「そうだったのですか、それは知りませんでした。それで親切にしていただいたのですか?」
「そうじゃないの、私は自分の罪を彩ちゃんに話せないまま、この歳になってしまったの」
玲子が悲しそうに俯く。
「何かあったのですか」
「当時、アフリカでエボラ熱が大流行して、多くの人達が亡くなっていた。 WHOからの依頼でボランティアを募ることになって、あなたのご両親が一番に手を上げたの…… 」
「それでアフリカに……」
「私は、大反対したの、まだ五歳だった彩ちゃんを残して何を考えているのって、大きな声を上げたのを覚えている」
「だけど、あなたの両親は『たったの半年です。私達がいなくても、彩にはお祖父ちゃん、お祖母ちゃんがいてくれる。だけど、アフリカでは家族を亡くして、それでもたった一人で病気と戦っている子ども達がたくさんいる。死んでいく両親の枕もとで祈っている子ども達がたくさんいる。これを見ないふりをすることはできない』そう言って旅立って行ったの」
遠く一点を見つめて話す玲子の脳裏には当時の思い出がよみがえっていた。
「…… 」
「亡くなった知らせを受けた時、私は留め切れなかったことをとても後悔した。せめてお母さんだけでも残すべきだった。二人の熱い思いに負けて、心にあった不安を捨て去ってしまった。悔いても悔いてもどうにもならない、どうしてもっと強く言えなかったのか、喧嘩してでも止めるべきだったのに…… 二人と話したあの時の光景が今でも蘇ってくるの……」
「でも、それはおばさんのせいじゃないですよ」
「そんなことはないの、私は二人を絶対に引き留めるつもりだったのに、最後にあなたのお父さんが言った言葉で……」
「えっ、お父さんが何を……」
「あなたのお父さんが最後に、『ほんの少しだけ、自分たちの幸せを犠牲にすれば、救える命があるかもしれない、娘が大きくなった時に、話してあげたい。あの時、幼かったお前につらい思いをさせてしまったけど、お前ががんばってくれたから、たくさんの命を救うことができたんだよって、話してあげたい』 そう言って微笑んだの……」
玲子はそこまで話すと、涙をぬぐいながら泣き崩れてしまった。
「おばさん……!」
「あなたの両親は、幼いあなたに命を救うということがどういうことなのか伝えたかったのだと思う。それがわかったから、私は諦めたの…… でもそんなのはきれいごとだった。命を落としてしまったら何もできない、知らせを受けた時、私は目の前が真っ暗になって泣きながらあなたを抱きしめることしかできなかった。あなたの両親は二人とも正義感の強い人で、振り向かない人だった」
「……」
「当時、病院長だった父から、『何かあれば彼らを制止するのはお前の役目だよ』って言われていたのに、私は大きな過ちを犯してしまった。あなたの両親が命を落とすかもしれないなんて、考えても見なかったから、最後は折れてしまった……」
「でも、おばさん、それは両親の思いだったんでしょ。子供じゃないんだから、仕方ないですよ。いくら親友だってそこまではできないですよ」
「ありがとう。でもね、あなたの両親は人の命を救うということに関しては、周りが見えなくなる人だった。父もそれをわかっていたから、私に言っていたのだと思う」
「……」
「彼らの生死を分けたのはわたしの判断だったのよ。私が納得したことを知ったあなたのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんも、了解せざるを得なくなってしまって……」
「でも……」
彩は、( この人が責任を感じるようなことは何もないのに……)そんなことを思いながら不思議であった。
しかし、玲子からすれば、両親を亡くしてしまった幼い彩を目の当たりにして、その少女の両親を留めることができたかもしれないのは自分だけであったのに、自分にはそれができなかったという後悔の念が、その幼い少女に対する不憫さと相まって、彼女の心を蝕んでしまった。
それでも、少女が自分を受け入れてくれて、少女の心を少しでも癒してあげることができれば、玲子はいくらかでも救われたのかもしれない。
だがその少女から笑顔が消えて、表情が消えてしまった時、玲子の罪の意識はどうにもならないところまで膨らんでしまい、彼女は彩を見るたびに涙する日々をおくっていた。
そんな妻に、夫は
「君のせいじゃない、でも君が責任を感じているのもよくわかる。こうなってしまった以上、君は二人の子供の母親を演じることでしか前に進めないんじゃないのか……! 酷なようかもしれないけど、君が頑張らなければ、彩ちゃんだけじゃなくて、幸一まで暗闇に入ってしまうかもしれない。日々、それを繰り返すことで彩ちゃんの心を開いていくしかないように思うんだ。それが償いなのかもしれない」静かにこう諭した。
その日から彼女の償いの長い人生が始まった。
いつか、この全ての思いを彩に話したい、そしていつか彼女に両親と向き合って欲しい…… 彼女はそう思いながら日々を生きてきた人だった。
「確かに彩ちゃんが成長するにつれて、私の前で微笑んでくれるようになって、私の思いは薄らいでいった。でも、未だにこの胸の奥にあるしこりが取れない、ほんとにごめんなさい」
「おばさん、そんなの迷惑ですよ……」
「彩、なんてこと言うのっ!」奈津子が初めて口を挟んだ。
驚いた玲子も顔を上げて目を見開いたが
「私は、おばさんに大事にされて、本当に感謝しています。でも、それが罪滅ぼしだなんて言われても、今頃、そんなこと言われても困りますよ」
彼女は静かに淡々と話した。
「彩ちゃん……」
「だって、他人の人生の流れを変えようなんて、人間の傲慢ですよ」
「彩……」奈津子も知らない彩の一面を見たような思いだった。
「病院長がいつも言っているじゃないですか。人の人生には流れがある。その自然の流れを何とかしよう、何とかできるなんて、人間の傲慢だって!」
「……」
「私の両親の人生だったんですよ、その流れを変えるなんてできるはずないですよ。私だってどうにもならないものを前にして何度も後悔したことがありますよ」
「彩……」
「神の指先だとか、零の隙間にメスを入れることができるとか、そんなことを言われて失敗もしないからいい気になって、前だけしか見ていなかった時、ある患者の胸を開いて、唖然としました。どうにもならないって思ってすぐに閉じてしまいました。とても悔しかった。 確かに検査データでは危ないと思いました。でも、私なら大丈夫、そう思って開いたのに、現実を突き付けられてしまって…… その夜は涙が止まらなくて、もう少し早くにオペできていたら、助けられたかもしれないのにって、悔しくて悔しくて、バスで頭までお湯に浸かって、泣きました」
「……」
「でも、顔を上げて大きく息をした時、 明日もオペがあるんだ、泣いている場合じゃない、そう思って翌日のオペの準備にかかりました。初めて味わった屈辱だったけど、でも、もうどうしようもない、悔しいけど私にできることはもうない。それよりまだ救える命がある。いつまでグズグズ言ってるのっ、って、もう一人の自分が顔を出して来て、そしたら、そうよ、私のせいじゃない、あの患者の人生だったのよ、私が救える人生じゃなかったのよ、そう思って振り払ってしまいました。医師として七年の経験は短いかもしれない。でも、この間には何人もの人の死に出会ってしまいました。ほんの少し、何かが変わっていれば救えた命があったのかもしれない。でも、それはその人の人生、救えない命を救おうなんて、それは私の傲慢。でも救える命だけはどんなことをしても救う、そう思って今日までやってきました。だから、病院長がよく言う自然の流れを変えようなんて人間の傲慢だって言うのがよくわかります」
二人ともこんなに語る彩を見たことはなかった。
「彩ちゃん、あなたはその年で、私の何倍もの人生を生きてきたのね。そんなすごい人に成長していたのね…… 小さな身体で戦い続けているのに、おばさんはいつまでもウジウジしていて恥ずかしい。だけど、なんか、迷惑だって言われて、おばさんも、すっきりした。彩ちゃんに全て話して、彩ちゃんの思いを聞いて、なんかとてもすっきりした…… だから明日からは頑張れそう……! 」
「おばさん……」彩が優しく微笑むと
「だけど彩ちゃん、一つだけ信じて欲しいの、確かに最初は罪滅ぼしみたいな思いがあったのは事実、だけどあなたに接していくうちに、いつの日からか、本当の娘みたいに思って、だからその思いを懸命に守ってきたの、それだけはわかって欲しいの」
「おばさん、わかっています。いつもおばさんの大きな思いを感じていました。だからここに帰って来たんです。ここが私のいる場所だって思っています。本当にありがとうございます。もう私は大丈夫だから、おばさんも忘れて欲しい……」
「ありがとう、本当にありがとう」
玲子は三十年近く心の片隅に残っていた罪の意識が、静かに消え去っていくのを感じて、救われたような思いであった。
「よかったー、一時はどうなるのかと思ったわよ」
二人の様子を心配そうに見ていた奈津子が安堵のため息を漏らした。
「大丈夫よ、二人の仲はそんな容易いものじゃないのよ」
彩も微笑んだ。
「あのね、おいしいって評判のモカを買ってきたのよ。コーヒーを入れて来るわね」玲子が楽しそうに微笑んだ。
「うわー、楽しみです。ありがとうございます」




