生きる世界が違うふたり
そして、朝九時に始まったオペは六時間で終わってしまった。
彩はただ一人の助手として、裕也の前に立ち、彼の指示によって一度だけメスを入れた。
彼女がそのメスを置いた時、
「小さな胸だな……」裕也がぽつんと呟いた。
「えっ」小さな声ではあったが、二人の医師の隣で器械出しをしていた二人の看護師は目を見開いて裕也を見つめた。
「今夜、私のと比べてみますか?」彩が目を上げて裕也を見つめると、彼はウィンクしてメスを動かし始めた。
一瞬、訳のわからない空気が流れたが、その後は何もなかったかのように静かにオペが進んでいった。
彩は、終始、彼のメス先を見つめながら
( 私のメスは平面の世界でささやくだけ、でも先輩のメスは立体的に躍動している…… 七年前には漠然としかわからなかった彼のメスの偉大さが、今ははっきりと理解できる。 私は【神の指先】なんて言われていても、未だ彼の足元にも及ばない…… )
そう思って彼女は感嘆していた。
ただ、彼女は悔しいとは思わなかったし、むしろ裕也の偉大さを再確認できて、そのことがとてもうれしかった。
「終了!」患部を閉じた裕也がオペ室を出ると彼の器械出しをしていた看護師が
「彩先生、聞こえましたよ、なんかエロイですね」
「ごめんなさい、あの人は何かに動揺したのよ」
「えっ」
「何に驚いたのかはわからないけど、動揺したり、驚いたりすると、あんなにして、自分を冷静に戻すんです」
「ええっー、そうだったんですか……」
「ごめんなさいね」彩が微笑むと
「目が点になりましたよ、この人、いやらしいって思って、尊敬していたのに愕然としましたけど、安心しました」
「でも私にしか言わないから……」
「そうですか、でも彩先生はそんなところまでわかっているんですね」
「そりゃ、あの長島裕也が即座にたった一人の助手として指名するんだから……」
彩の隣にいた看護師が感嘆していた。
夕方、裕也と彩は二人で食事に出かけた。
「先輩、本当に私でいいんですか?」彩が心配そうに尋ねると
「ああっ、お前がいい……! 一緒になっても暖かい家庭っていうイメージじゃないかもしれないけど、お前が傍にいてくれると安心できる、何故かそれがいい……」
「そうですね、二人ともオペに追われて…… 二人で暖かい家庭をつくりましょうねっていう感じじゃないかもしれないですね」
「だけど、お前が傍にいてくれたら、それでいい。七年も一人で戦っていると、何が大事なのか、嫌でも見えてくる……」
裕也の思いが真っすぐに伝わってきた。
「うれしいです。こんな幸せ、思ったこともなかったから…… 」駆け引きをしない彩の本当の思いだった。
「それは言いすぎだろっ」
「そんなことはないです。だけど、帰国した後に予定していることがあるんですか?」
「いや、何もない、しばらくはお前の助手でもするよ」 彼が微笑むと
「それだけは許して下さい。また週刊誌が飛びついてきます」
「ははははっ、でも、来年からお前が傍にいてくれるのかって思ったら、なんか、気が抜けてしまいそうだよ」
「先輩…… でも、うれしいです」
彩の瞼に光る涙を目にして、裕也は故郷に帰って来たんだな、そんな実感をもっていた。
「ところで、今日のオペはどうだった? 何か思うところがあったか?」
「はい、先輩のメスを見ていて、七年前にはわからなかったことがはっきりとわかりました」
「ほおー、彩も言うようになったねー」
「私のメスは平面でささやくだけ、でも先輩のメスは立体的に躍動していた。未だ足元にも及ばないです」
「ふーん、でも、悔しくないのか?」
「何で悔しいんですか、七年ぶりに先輩のメスを見て、とんでもない飛躍を感じました。私はそれがうれしかったです」
「そうか、でも、お前のメスにも驚いたよ」
「えっ、本当ですか? みんな上手を言うだけで、誰も真実を言ってくれないから、参っていたんです」
「【神の指先】なんて言われているから、多少は腕を上げただろうけど、いくら経験を積んでも、指導してくれる者もいないし、限界はあるだろうって思っていたんだ。でも、今日、お前のメスを見て、はるかに想像を超えていた……」
「本当ですか?」彩は嬉しそうだった。
「指導してくれる者がいないって言うか、だいたい七年前のお前でさえ、指導することができる人なんて、この日本にはいなかったんだよ。だけどお前は七年で想像を超える成長をしてしまった。相当に努力したんだろうな……」
「時間があれば、一ミリ幅の紙を三枚に分けたり、釣り糸を縦に割いてみたり、昔、先輩に言われたことを、やっていましたよ……」
「そうだろうな、今日のメスを見て、突き刺すまではとても優しかったんだ。でも入った瞬間にメスに殺意が現れた。と思った瞬間、もう神業だった……」
裕也はその光景を瞼によみがえらせて遠くを見つめた。
「先輩に神業だなんて言われても、からかわれているようにしか聞こえませんよ」
「彩、お前は何か大きな勘違いをしているよ」
「えっ、どういうことですか」
「お前はさっき、自分のメスは平面でささやくだけって言ったけど、それは見方が違うんだよ。それは、平面を走ればお前のメスは誰にも負けないっていうことなんだよ。立体的な空間の中で動き回る俺のメスと比べちゃいけない。俺は平面の世界では、お前に勝てない……」
現実から目を背けない男の強い思いがそこにあった。
「先輩、馬鹿なこと言わないでくださいよっ!」
驚いた彩の語気が少し強くなった。
「彩、冷静になれ……! 」
「先輩……」
「上手なんて言わないよ、お前のために言っているんだ。お前のメスは平面の中で囁き続ければいいんだ。アメリカにもメス先の繊細な奴がたくさんいる。でも、ほとんどの医師は、メスを手にした時から、メスに殺意が宿っている。お前のように突き刺すまで優しいやつなんていないんだよ」
何かを思い浮かべるように話す彼はまっすぐに彩を見つめていた。
「でも、それがどう違うんですか?」
「何を言っているんだ、柔らかさだよ! 触れただけで切れてしまうような鋭い刃先を持ったメスの先端を、お前の柔らかさは傷をつけないで患部に押しつけることができる」
「先輩……」
「俺とは生きている世界が違うんだよ。そのことを理解しろ!」
「はい……」彩はよくはわからなかったが、それでも敬愛する長島裕也の言葉であったから、思わず答えてしまった。
( あっ、そうか、私のメスを見て驚いたのか…… それで小さな胸の話が出たのか……)
「髙井病院長のオペを思いだしてみろよ。 視神経は目視できなかったけど、弾力の差を探りながらガン細胞を剥離したんだろ、メールに書いていたじゃないか……」
「ええ……」
「あれを読んだ時、そんなことができるのかって思ったよ。実際には時間をかけて薄く薄く剥離しただけじゃないのかって思ったよ」
「でも、今日のメスを見て、思いだしたよ。亡くなった高島教授が、彼女はいつか神の領域を犯すよって、嬉しそうに言っていたのを思いだしたよ」
「先輩……」
( 嘘じゃないんだ、だから小さな胸だったんだ……)
「でも、人間なんだ。 あそこまでたどり着いてしまうと、今後は維持していくのが難しいぞ」
「はい、いつも自分に言い聞かせています」彩は姿勢を正して真剣に答えた。
「その謙虚さだな、お前の一番すごいところはそこかもしれない。決して驕らない、常に自分自身に厳しくて、冷静に自分自身を見つめている……」
彼は少し呆れた様に、そして自らを納得させるように話した。
「先輩がそうあれって、言ったんじゃないですか……!」彩は、今頃、何を言っているんですか…… そんな勢いだった。
「だけどな、人間、もてはやされるとなかなかそうはいかないよ…… アメリカではそうなって潰れていく奴を何人も見てきたよ……」
「でも、先輩に認めてもらってうれしいです。 やってきたことは間違っていなかったんだって、思って、とてもうれしいです」
その時、部屋の外で、
「失礼します」と静かに囁く声がした。
「はい、どうぞ」裕也が答えると
「長島さん、お久しぶりです」と顔を覗かせる者がいた。
「あらっー、嫌な奴に見つかったねー」そう言ったものの、彼はうれしそうだった。
「そっ、そんなこと言わないでくださいよ」
医療問題を追い続けるフリーライター、星野であった。
彩が微笑んで頭を下げると、
「彩、頭なんて下げる必要ないよっ、お前も昔一度だけ会ったことがあるだろ。 あることないこと書くんだから……」
「先生、それはないでしょ。でも、今回は一時的な帰国ですよね」
「ああ、そうだよ」
「空港で見かけてからずっとつけていたんですよ」
「なんて奴なんだ。声ぐらいかけろよっ」
「いやー、久しぶりに妹さんに会われて楽しそうにしているのに、水を差すわけにはいかないですよ」
「お前さー、俺たちは結婚の約束をしたところなんだよ。これから将来のこと、色々話したいんだよ。わかるだろ、もう帰ってくれよ」
「えっ、やっと決心したんですか…… 」
「ああ、ありがとうな、お前には感謝しているよ」
「そうですか、良かった。ほんとに良かった」
彩はそのやり取りを不思議そうに見つめていた。
「わかりました。帰ります。でも、今回の一時帰国のこと、書いてもいいですよね」
「いいけど、患者の名前と明子の名前はだめだよ」
「はい、【神の指先】をもつ女のことは?」
「いいですよ、結婚のことも書いて下さい」
「ええっ、本当にいいんですか」
「ええっ、書いて下されば、『やっぱり止めた』なんて言えないじゃないですか」
「そっ、そうですね」
「彩、信じていないのか」
「先輩がいつも言っていたじゃないですか、百%の上でもさらに策を練れって!」
「参ったなー」
「だけど、ちゃんと頼むよ。明子の婚約者の妹さんのオペで一時帰国したってことはもう調べているんだろう……」
「はいっ」
「じやあ、隠しても仕方ないから」
「でも、ドイツの表彰式をすっぽかすなんて、長島裕也らしいですね」
「はははっは」
「ところで、海堂先生はご両親のこと、いくらかはご存知なんですよね」
「その話は止めろっ!」目つきの変わった裕也に驚いた星野は
「すいません。じゃあ、お気をつけて」彼はそう言うと慌ててドアを閉めた。
「明後日にはアメリカに帰るよっ」
「はいっ」扉の向こうで返事が返ってきた。
「あの人、両親ことを知っているんでしょうね」彩が俯いて呟くと
「気にするな、聞きたくないだろっ」彼の思いが伝わってくる。
「ええ、でも、いつか両親の眠る地を訪れてみようかって思っているんです」
彼女は心の変化をこの男には伝えておきたかった。
「そうか、ようやく心を開いたか…… 何か知りたいことがあれば、さっきの星野を呼ぶよ。いつでも言ってくれ、相当な情報を持っているはずだ」
「はい、ありがとうございます」
翌朝、ICUを出て個室に戻った奈々の部屋を訪れた裕也は
「どう? オペはもう済んだよ」笑顔で囁いた。
「ありがとうございました。朝、聞いてびっくりしました! 胸の痛みが嘘みたいで…… 呼吸って、こんなに気持ちいいんだって思って…… 」
彼女は目に一杯の涙を浮かべながら感謝の思いをに伝えた。
傍らにいた彼女の両親も涙ぐんで、何度も繰り返し頭を下げてくれたが、明子が嬉しそうに微笑んでいるのを見ると、彼は、早くに亡くなった兄を思いだしていた。
「傷口さえ癒えれば、もう普通の生活をして大丈夫ですよ。 だけど長い間寝ていたんですから、少しずつ体力の回復を図って下さい。 後は高坂先生の指示に従っていれば間違いはないですから……」
「先生、ありがとうございます。本当にありがとうございます。もう死を覚悟していたのに……」
「とんでもない。こんな仕事をしていても私は人の運、不運を信じています。あなたの運はここの高坂信也先生に診てもらっていたことですね。 確かに明子に頼まれたからって言うのもありますが、高坂先生の所以外では、私のオペはできなかった。彼が万全の対応をしてくれたからこそ、実現したオペです」
「はい、ベッドの上で長いこと苦しんでいると、そういう見えないことがよくわかります」
「でも良かった。あなたのような美人がベッドで寝ているなんてもったいないですからね」
何のためらいもなく話す裕也に
「せっ、先生!」患者は恥ずかしそうに、でも微笑んで彼を見つめた。
「いや、これは本心ですよ」
「先生、結婚もできますか?」彼女が目を見開いて尋ねると
「結婚ですか……」少し彼の顔が曇った。
「それは無理ですか…… 静かに生きていかないといけませんか?」
周囲にもかすかなため息が漏れた。
「いやー、それはいいんですけど…… 胸がねー……」
「お兄ちゃん、何か不安があるの?」明子が心配そうに尋ねると
「いやー、胸が…… 胸がちょっと小さいからなー」腕を組んで残念そうに呟く裕也だったが
「先生っ!」奈々はそう叫んで顔を真っ赤にすると両手で胸を抑えた。
と同時に
「お兄ちゃん!」明子も驚いて裕也を睨み付けた。
「ごめん、ごめん、でもさ、たまに小さい胸の方が好きな男もいるからさっ、そういう男を探してね。 実はそう言う私も大きな胸はあまり好きじゃないんだ」
皆は、裕也の暖かさに包まれてやっと訪れた幸せをかみ締めていた。
部屋を出た彼は、久しぶりに心から笑った自分を思い、七年前に伐々大学病院を追われた日のことを思い出していた。




