妹の願い
五月の半ば、彩が敬愛する医師、長島裕也の妹、明子は婚約者である健一の妹をお見舞いに来たものの、体調がすぐれないようで、病室の入口で不安そうな表情を浮かべながら静かに待っていた。
「今日はちょっと無理だろう。また出直してもらえよ」
婚約者、健一の父親がぶっきらぼうに言い放つと
「仕方ないな。また出直すよ」彼は不本意ではあったが諦めざるを得なかった。
「先生、本当にもうどうにもならないのか。アメリカにいる医者はやっぱりだめなのか? 」父親がそばにいた医師と話し始めた。
「いや…… とても日本には帰ってもらえそうにありません。 先日も、電話をしたのですが、何ヶ月も先まで手術を待っている人がいてどうにもならないです」
「その人は日本人なのですか?」
「そうです。私の先輩なのですが……」
「何とかしてもらえないのですか! お金ならいくらでも払います」
「とにかく、日本に帰る時間がないのです。アメリカまで来てくれるのであれば、どうにかするって、言ってくれたのですが…… でも、奈々さんはとてもアメリカまでは無理です」
「何であの子がこんなことに……」父親は無念そうに言葉を濁した。
廊下でその話を聞いていた明子は、どことなく聞き覚えのあるその医師の懐かしい声に
( 信也さん? )と首を傾げた。
先に廊下に出てきた健一が明子に向って残念そうに顔を振ると、彼女も悲しそうに頷いて小さくため息をついた。
その後ろから健一の父親と一人の医師が話をしながら廊下に出てきた。
明子は後ろに下がると頭を下げたが
( やはり…… )見覚えのあるその顔に彼女が慌てて目を上げると、医師も驚いて
「えっ、アキちゃんか?」と自信なさそうに彼女を覗き込んだ。
「信也さん、お久しぶりです」彼女も偶然の再会にうれしそうに彼を見つめた。
「こんなところで何をしているの?」突然、微笑んだ彼が尋ねると
「私の婚約者なんです」その傍らにいた健一が答えた。
彼の父親も明子に会うのは初めてであったが、娘の病に暗い表情をしている父親は、明子を一瞥しただけで
「先生、何とかお願いしてもらえないんですか、もうその医者に頼るしか道はないんでしょっ」半ば責めるような言い方をした。
「青井さん……」
「その人も医者なんでしょ、死にそうな人間がいるのに助けてくれないんですかっ!」
「お気持ちはわかりますが、同じように、後のない方々が、彼の手術を待っているんです。元来であれば、ア…… 出向いたとしても横入りはできないのですが、だけど、そこは自分の時間をつぶしてでも何とかするって言ってくれたんです。それが精一杯だと思います」
彼は、この話を早く切り上げたいと思っていた。明子が気づけば、何か無理を言いだすかもしれない、そんな不安が彼の声を小さくし、【アメリカ】という言葉を飲み込ませてしまった。
だが
「信也さん、アメリカの医師っていうのは兄のことですか?」
そう尋ねる明子に彼は慌てたが、否定するわけにはいかなかった。
「アキちゃん……」
「兄のことなんですね」
意を決したように見つめる明子に
「アキちゃん、先輩の状況を知っているだろう。君が無理を言ってもどうにもならないんだよ。先輩を苦しめるだけなんだ。だからわかってくれないか……」
健一と父親は、目を見開いたまま、交互に二人を見つめながら呆然としていた。
「ちょっ、ちょっと待って下さい。 先生、そのアメリカにいる医師って言うのは彼女の兄上なんですか?」
驚いた父親が、突然食いつくように信也に詰め寄った。
「参ったなー」
彼は頭をかきながら
「厳密には彼女の叔父です。 彼女とは兄妹みたいにして育ったので、彼女は兄と言っていますが、長島裕也、彼女の叔父です」
「だったら、彼女がお願いすれば何とかしてくれるんじゃないのかっ!」
父親は明子を見つめた後、懸命に医師に訴えた。
「そっ、それは許していただきたい。 彼女を巻き込むのはご容赦下さい」
「どうしてなんだ、結婚すれば身内になるんだ、少しぐらい……」父親は必至だった。
「青井さん、先ほどもお話ししましたが、彼は身動きが取れないのです。 そんな彼に、明子さんが電話を入れても彼を苦しめるだけです。彼に取ってこの明子さんは自分の命よりも大事な存在なんです。 そんな彼女の願いなら、何とかしたいって考えると思いますよ。でも、多くの患者さんを見捨てて帰ってくるなんてできないでしょっ。 結果として、明子さんの電話は、彼を苦しめるだけになってしまいます。 だから……」
「信也さん、だめなら諦めます。でも連絡もしないで諦めるのは嫌です」
明子は辛そうであった。
「アキちゃん、だけど、先輩がどんな生活をしているのか、知っているだろ……」
彼が懸命に訴える。
「先生、だめだったら諦めるよ、彼女が連絡してだめだったら諦めるから……」
思いもよらず、かすかではあるが手繰り寄せることができるかもしれない一本の糸にたどり着いた父親は渾身の思いをぶつけてきた。
「信也さん、お願いです。結婚すれば奈々ちゃんは私の妹になるんだから、このまま何もしないなんてできない、お願い、電話させて下さい」
明子に懇願され、困り果てた信也はしばらく考えた後、父親に向って
「わかりました。 だけど、私は突発的なことでもない限り彼の帰国はあり得ないと思っています。どうにもならない中で明子さんが電話を入れるんです。たとえ、駄目だったとしも彼女を責めないでくれますか、そのことだけは約束して下さい!」と強い口調で語った。
信也は明子を守るために必死であった。もしも、このことが明子の結婚に暗雲を立ち込めるようなことになってしまったら…… そう考えると言葉にしないわけにはいかなかった。
「先生、絶対に私が守ります」健一の強い言葉に続いて
「先生、正直いって諦めに近い思いがあります。 でも、話を聞いて…… だめなのかもしれない、そう思ってもいます。 だけど、もしそうだとしたら、それはあの娘の運命なんだと受け止めざるを得ない。 それ以外の何物でもない。 明子さんを責めるようなことは絶対にしません」
父親も冷静になって覚悟に近い思いを語った。
「わかりました。 でも、アキちゃん、絶対に無理は言わないでよ、それだけはお願いするよ」彼も必死であった。
「はい、兄の毎日がどんなに大変かは知っています。だから……」
彼女の声がフェードアウトしていく。
「よし、じゃあ電話を入れてくれるか? アメリカはちょうど朝頃かな?」
「はい、出かける前だと思います」
「じゃあ、病院の電話を使って!」
「いえ、私の携帯だったらすぐに出てくれると思いますので……」
信也は、別室で電話をするように勧めたが、健一親子に状況を隠したくない明子は、それを断ってその場から電話をかけた。
テゥルルーン、
『明子、何かあったのか?』久しぶりの電話に裕也は驚いた。
『お兄ちゃん、今、時間は大丈夫?』
『ああ、大丈夫だ、何があったんだ?』
『お兄ちゃん、私、結婚するの』
『えっ、そういうことか…… そうか、ついに結婚するのか……? 明子、ごめん、だけど帰れないかもしれない……』
『それはいいの、よくわかっているから、だけど、その人の妹さんが、肺動脈が癒着しているらしくて…… 高坂信也先生の所に入院していて……』
『青井奈々さんか?』
『そう、今日お見舞いに来て、信也さんが話しているのを偶然に聞いてしまって…… 信也さんは電話してもお兄ちゃんを苦しめるだけだからって反対したんだけど、だけど…… 結婚すれば私にとっても妹になる人で…… 』
『そうかー…… 解った』
『えっ、どうにかなりそう?』
『お前がその家に嫁ぐのに、何もしないわけにはいかないだろう』
『お兄ちゃん……』
『今、病院にいるのか?』
『うん、信也さんも傍にいる』彼女はチラッと彼を見上げた。
『そうか、じゃあ信也に代わってくれるか』
『先輩、すいません』彼は携帯を取ると、まず裕也に詫びた。
『何言ってんだ、申し訳ないのは俺の方だよ。お前の依頼は断ったのに、明子に言われると…… 』
『そんなことは気にしないでください。先輩に取ってアキちゃんがどんなに大事な存在かっていうことはよくわかっていますから、だけど大丈夫なんですか?』
『うん、どうにかする。だけど、あくまでオペできるかどうかが問題だよ。 大至急、検査データを送ってくれるか? これから病院に行くから、一時間以内にはもう一度、明子の携帯に電話するよ』
患者は、とても珍しい症状で、上行大動脈と肺動脈が癒着し、肺動脈への圧迫が日々強くなっていて、一日も早い癒着の解消が必要なのだが、薬は全く効果がなく、外科的手術によってこの癒着を解消する以外に道はないのだが、ここにメスを入れることができる医師などいようはずもなかった。
もしそれをできる医師がいるとすれば、世界にただ一人、長島裕也しかいない。
それが、高坂信也の見解であった。
そして、重苦しい一時間が過ぎた。
テゥルルーン
『お兄ちゃん』
『大丈夫だ、オペできる。 癒着はそんなに進行していない。来週の月曜日の夕方、羽田に着くから、オペは火曜日の朝からかかる。 ただし患者には何も言わないでくれ。それから、俺が日本に帰ることは口外しないでくれ』
『わっ、解った。信也さんに代わるから』
信也が代わると
『明子にも言ったけど、月曜の夕方、帰国して火曜日の朝からオペする。病院の方は大丈夫か?』
『大丈夫です。』
『それから、俺が帰国することは部外者には内緒で……」
『もちろんです。長島裕也が帰国するなんてことが公になったら大騒ぎになりますよ』
『申し訳ないな』
『とんでもないです。でも良く時間が創れましたね』
『実は、この土曜日から、ドイツに行くことになっていたらしいんだ』
『ええっ、表彰されるんですか』
『らしい……』
『それをすっぽかすんですか……』
『ああ、あんなものは誰の命も救えない』
『先輩……』
『それから患者にはオペの話はしないでくれ……』
『わかりました。助手はどうしますか?』
『ああ、彩を呼ぶよ、今、静岡なんだろ?』
『はい、週に一度、内に来てもらっています』
『彩には俺から連絡するから……』
『わかりました』
そして、月曜日の午後四時、羽田空港に裕也を迎えに行った明子は、七年ぶりに再会する彼の風貌に驚いたが、内密に帰国したことを考えるとやむを得ないかと思い微笑んだ。
静岡へ向かう新幹線の中で、
「お母さんはどうしている?」彼が尋ねると
「相変わらずよ、今日は仕事が遅くなるから明日の朝、顔を見に行くって言っていた」
「そうか、ゆっくりと人生を楽しんで欲しいんだけどなー」
「あの人は、なかなか…… お兄ちゃんが送ってくるお金だって、全然手をつけていないわよ」
「ええっー、どうして……」
「お兄ちゃんが帰国して開業する時にはお金が必要だからって……」
「俺の所得の半分を送っているからって言ったんだけど信じていないのか」
「そりゃ、そうよ、あの子のことだから、最低限だけ残して、全部、送って来ているって言っていた」
「そう考えるって思ったから、半分にしたのに……」
「ええっ、お兄ちゃん、本当に家に送ってくれているお金の倍の収入があるの?」
「本当だよ! 俺も金を使う余裕がないし、ほとんどのことは病院がしてくれるから、そのまま残っているよ」
「それって、あれだね…… なんかプロ野球選手並ね、びっくりだわ」
「それに、帰国したって開業なんてしないよ。営業に関わると医療ができなくなるからね」
「じゃあ、お母さん、何のために頑張っているのよね、馬鹿みたい」
「お金を手にしたからと言って、自分を変えることができるような人じゃないんだな、わかってはいるんだけど、俺にはそうして恩返しすることしかできない…… 」
「お兄ちゃん……」
七時過ぎに静岡に着いた二人は、明子が予約していた和食の店に向かった。
和室に入ると、そこには彩が待っていた。
「彩、どうしたんだ!」
「七年ぶりなのに、『どうしたんだ』はないでしょう」そう言って微笑む彩の笑顔が裕也にとっては何よりのご馳走であった。
「いやー、驚いたよ。 明日は会えると思っていたけど、まさか今日会えるとは…… うれしいよ」
「私もうれしいです……」彩の瞼には涙が浮かんでいた。
「彩…… すまなかったな、心細かっただろう。 相談できる者もいなくて、その中でお前も七年間、戦って来たんだもんな……」
初めて見る彩の涙に裕也は、彼女の七年を思い胸が苦しくなった。
「……」
俯いたまま静かに頭を振って、それを否定する彼女だったが、それはそんなことは気にしないでくださいという、彼女の思いであった。
思い出話に花が咲く中、笑顔で二人を見つめていた明子は、
( この二人はお似合いなのに…… こんなに息があっているのに…… どうしてなの? こんな楽しそうなお兄ちゃんなんて見たことがない…… お兄ちゃんに勇気がないのかっ! 彩さんは、絶対にお兄ちゃんに魅かれている、自分では尊敬しているだけって思っているかもしれないけど、絶対に魅かれている……)
そう思って、さらに自分がここに居てはいけないような不思議な感覚に襲われてしまって
「二人はどうして結婚しないの?」つい、思いを言葉にしてしまった。
「来年するよっ!」即座に返って来た返事に
「えっ!」尋ねた明子はもちろん、彩も驚いて裕也を見つめた。
「先輩……」祈るように見つめる彩の瞳は、彼女の思いを映し出していた。
「来年は日本に帰ってくるよ」彼が彩を見つめて話すと
「そうなの?」横から明子が嬉しそうに微笑んだが
「でも、病院は大丈夫なんですか?」彩は不安そうに彼に見入った。
「ああ、今年末で契約が済むし、病院長の了解も取っているんだ」
「そうなんですか?」やっと現実の世界に戻ってきた彩が微笑むと
「彩さん、否定しないけど、了解ってことですか?」
明子は念を押しておきたかった。
「えっ、そりゃ、うれしいです。そんな夢みたいなこと考えたこともなかったから、誰かと結婚すればいいんだろうって、その程度しか考えたことがなくて……」
「お前が、西塔会の馬鹿息子と結婚するって言ったから、あいつは止めときなって言いたかったけど、まあ、病院長は人格者だから、大丈夫かって、勝手に諦めたんだよ。 そしたら今度は中山総合病院だって言うから、幼馴染と一緒になるのかって思ったら、それも違うって言うし……」
「すいません……」
「何を謝ってんだよ。 だけど考えたらさ、今や日本のトップクラスの名医だろ、【神の指先】を持つ女なんて、恐れ多くて誰も妻にできないよ。 【悪魔の手先】って言われている俺にしかできないよ」
「同情でも何でもいいです。いつまでも待ちます」
「彩さん、同情なんてとんでもない、これはお兄ちゃんの照れ隠しですよ……」
「うれしいです……」
微笑んだ彩のこんな幸せそうな顔を裕也はかつて見たことがなかった。
彩は裕也の笑顔を思いながら帰宅したが、二人はそのまま丸々大学病院へ向かった。
後輩の高坂信也に迎えられ、控室に通された裕也が白衣に着替えると、明子の婚約者、健一とその父親が挨拶にやってきた。
「初めまして、青井健一です。この度は本当にありがとうございます」
「お礼の申し上げようもありません。本当にありがとうございます」父親も続いた。
「とんでもないです。大事な明子の家族になる人です。できることはさせていただきます」
「ありがとうございます」
「ただ、結婚しても何かあれば明子はすぐに帰らせますよ! 彼女が一生遊んで暮らせるだけのものは残していますから…… 」
突然、目つきをかえて、突き刺すように念を押した彼の背後には、七年間、海外でたった一人で戦って来た男の力強さを思わすオーラが漂っていた。
「絶対に幸せにします」健一が懸命に答えると
「我が家の女神です。絶対に大事にします」
父親も思いを語った。
患者の病室に出向いた彼は
「明日は、朝一番で麻酔のテストをしますからね、その結果をみて、調子の良い日にオペしましょう」そう言って彼のために用意された部屋へ帰って行った。
「今夜、ゆっくりと休んでもらうために、本人には、麻酔のテストと言いましたが、明日、そのままオペに入ります」
彼は家族にそう説明して、深い眠りに堕ちて行った。
翌朝、彼が洗面を済ませ、コーヒーを飲んでいるところに義姉、好子がやって来た。
「義姉さん、お元気そうで何よりです」
「裕ちゃんも元気そうね」彼女が微笑むと
「かってばかりしてすいません」彼の脳裏には両親と兄が眠るお墓の光景が頭に浮かんでいた。
「何を言っているの……! 今回も大変なのに、明子のためにありがとう 」
「とんでもないです。あの子の喜ぶ顔が何よりのご馳走です」
「忙しいのに本当にありがとう。オペが終わるとトンボ返りなんでしょ」
「ええ、明日、一日だけ様子を見て、明後日の朝にはここを出ます」
「そう、お医者さんにこんなこと言うのもおかしいけど、身体にだけは気を付けてよ。 結婚だって決めたんだから……」
「えっ、明子から聞いたんですか?」
「これで私もようやく責任が果たせたような気がする。 やっとあの人や、ご両親に報告できる」
「義姉さん……」
「さっ、食べて、朝食を持って来たわよ」
彼女はそう言うと、甘い卵焼きと白菜の漬物を取り出し、お茶漬けの準備を始めた。
「すいません、期待して待っていたんです」
「アメリカじゃ、なかなか食べること、できないものね」
裕也はこのほんのひと時の間に、故郷を感じ、義姉の思いやりを悟り、心が、そして気持ちが充填され、万全の長島裕也ができあがったことを確信していた。




