祖父の死
長年の思いを文章に、そして至るところに思いを込めています。
なお、病気、医療行為、症状などは、全て筆者の独断と偏見によるもので、実在のものではありません。
祖父、欣也が倒れたという連絡を受けた海堂彩は慌てて故郷の静岡に向った。
地元の中山総合病院では、緊急手術を終えた欣也がICUで眠っていた。
「おばさん、お世話になります」
彼女は心配そうに見守る病院長の妻、玲子に頭を下げた。
「彩ちゃん…… 」
玲子は、彼女にとってこの祖父がどれほど大事な人なのかということを十分に知っていた。
幼くして両親を亡くした彩は、母方の祖父母に育てられた。
祖母は、彼女が大学へ入学した年に亡くなってしまったが、それは突然のことであった。
前夜まで元気だった祖母は、寝ている間に旅立ってしまい、それ以降、祖父は、退職金を食いつぶし、年金をやりくりしながら孫が医者になる日を心の糧に懸命に頑張ってきた。
祖父母はともに公務員であったため、二人が元気な間は、二人分の年金に支えられ、決して贅沢はできなかったが、それでも人並みの生活は維持できていた。
しかし、祖母が亡くなった後は、それも半減し、生活はかなり大変であった。
近くに住む息子夫婦は同居を勧めてくれたが、それでも祖父は、彩が帰ってくる家は確保しておいてやりたい、彩のことで息子夫婦に迷惑をかけることはできない、そんな思いで懸命に節約し、預金を切り崩し、彩の学費を拈出していた。
近隣の個人医院からは、医師資格取得後、当院で働いてくれるのであれば…… と支援を申し出て来るところが何件かあったし、特に中山総合病院からは、無条件での支援さえ申し出があったが、将来的に足枷を背負わせることを嫌った祖父は、決してそれらを受け入れなかった。
叔父夫婦とともに病院長がICU にやって来た。
「彩ちゃん、取りあえずの処置しかできていない。血管が細くなってどうしようもないところが何か所かある。 枝分かれしているところも、どうにもならない所が三か所ある。バイパスをやっても…… 」
病院長が残念そうに話す。
「私がやります。私にやらせて下さい、絶対に助けて見せるからっ……!」
彩の目は常軌を逸しているように見えた。
その時
「彩、気持ちはわかるよ……」叔父の長崎一樹が彼女の肩に手をかけた。
「叔父さん、絶対に助けて見せるから…… 」
目にいっぱいの涙を浮かべながら彩は叔父を見上げた。
「彩、祖父ちゃんはね、私とお前の母さんを育ててきて、二人が結婚して、やっと老後が楽しめるって祖母ちゃんと二人で話していたよ…… だけど、彩の両親が亡くなってしまって、二人で頑張って彩を育ててくれただろ、私たちも孫の守をお願いして迷惑をかけていたんだよ」
彼は父親である欣也の人生の重みを知っていた。
「叔父さん、私は……」
彩は思いを言葉に載せようとするが、真っすぐに祖父を見ながら語り続ける叔父に一歩引いてしまった。
「祖母ちゃんが亡くなってからも、誰の助けも借りないで、彩が医者になるまでは……って、懸命に生きてきたんだよ。 その彩が医者になって、難しい手術もできる医者になって、祖父ちゃんはほっとしたんだよ」
「だから、だから私が……」彩は目ににいっぱいの涙を浮かべながら訴えようとするが言葉が続かない。
「彩が有名になって、雑誌で取り上げられたりして…… その頃から、だんだんと弱っていったんだ。わかるだろ? 安心したんだよ、これで役目が果たせたって安心したんだよ」
「……」
「彩にとっては誰よりも大事な祖父ちゃんだから、一日でも長く生きていて欲しいって思う気持ちはわかるよ、痛いほどわかる。 もし祖父ちゃんがこの話を聞いていたら『彩がそう言うんだったら頑張るよ』って言うと思うんだ」
「だったら……」彩は祈るような思いで叔父を見つめる。
「だけどね、彩、もうボロボロなんだよ、もう八十八歳だよ、ここまで頑張って来たんだよ、もう楽にしてやってくれないか……」
叔父の目には涙が光っていた。
「叔父さん…… 」うなだれた彩は、頭を小さく振りながら、俯いたまま両手で顔を覆ってしまった。
今まで誰も彩の涙を見たことはなかった。
決して人前では涙を見せない子どもだった。
涙を見せると祖父母が心配するから、だから彼女は涙を見せないで生きてきた。
叔父夫婦も、中山病院長夫妻も、初めて見る彩の涙であった。
もし、自分が第三者だったら
「ここまで頑張って来たのだから、もう静かに逝かせてあげませんか…… 」
言葉にするかどうかは別にしても、おそらくそう考えるであろう。
彩にはそのことがよくわかっていた。
しかし、この祖父に対する思いだけは言葉では言い表せないものがあった。
確かに楽にしてあげたいという思いはある。しかし一日でも長く生きていて欲しいという思いとの狭間で、答えは既に出ているのに、それを口にしてしまうと、自分はもうこの祖父に何もしてあげることができない。
それを口にすることは優しさではなくて諦めのような思いがして、彼女は気持ちのたどり着く場所が全く見当たらなかった。
「彩ちゃん…… 」
心配そうに二人の様子に見入っていた病院長の妻、玲子がたまらず彼女を抱きしめると、幼い頃より母親のように慕い、心を寄せてきたその胸にすがった彼女は子供のように泣きじゃくった。
こんなに取り乱した彩を誰も知らない。
いつも冷静で、懸命な彩しか知らないこの人達の思いもまた複雑であった。
その翌日、祖父は一度だけ、彩の呼びかけにかすかに目で頷くと、一粒だけ目じりから涙を流し、息子夫婦と彩に看取られ静かに息を引き取った。
享年八十九歳、妻と二人で夢見た老後を過ごすことはできなかったが、それでも最後の務めを果たした彼の表情はとても穏やかであった。
叔父夫婦が仕切った通夜と葬儀は、中山病院長夫妻の助けもあって、順調に執り行われ、彩のその傍らには、中山病院長夫妻の息子、幼馴染の幸一が付き添っていた。
斎場で祖父を見送った後
「彩、お祖父さんは残念だったけど、でも、もう責任は果たした、自分の人生に納得しているって、いつも言っていたよ」
幸一が慰めようと話しかける。
「ありがとう、何度も見舞ってくれたのね、ほんとに感謝している」
「俺はさー、中学校の時、医者になったら結婚してくれるって言うから、頑張って医者になったよ。 彩みたいに切ったり張ったりはできないけど、これでも麻酔科医として、今は自信も持っている」
幸一は何か言いたそうであった。
「幸一…… 」
子どもの頃の約束とは言え、彩には申し訳ないという思いがあった。
「俺はいいよ、諦めるよ。彩が幸せになるんだったら諦めるよ。まして子供の頃の約束なんて…… 」
「幸一、ごめん、私は…… 」
「知っているよ、西塔会病院の息子との結婚話が出ているんだろ、付き合っていることも知っているよ。だから諦めようと思ったんだよ、彩が幸せになれるんだったら…… 」
一点を見つめながら彼は思いつめたように言葉にした。
「幸一…… 」
「だけど、だけど彩の一番大事な人が亡くなったのに、彩の一番辛い日なのに、顔も見せないってどういうことなんだよ……! 香典だけ送りつけて来て、顔も見せないって、なんだよ! なんですぐに飛んできて、彩のそばにいてやらないんだよ。彩はそんな奴でいいのか? そんな家族の所で幸せになれるのかっ……!」
彩に対する彼の渾身の思いが伝わってくる。
決心していたはずなのに、寂しそうな彩を見ると、この二日間でたまり続けたその男に対する不信感が爆発してしまった。
彼にとっては、一番大事な彩のことだから、痛いほどその思いがわかった。
「幸一、ありがとう」
彩にもまた、幸一の思いが痛いほど伝わってきた。
「ごめん。『彩をよろしく』って頼むつもりだったんだ。だけど、だけど、だめだよ。 どうしてもその男が彩を大事にしているとは思えない…… 」
確かに幸一の言うとおりであった。
親友の看護師、奈津子からのメールによると、通夜が執り行われた昨夜、婚約者の良太は合コンに出かけ、夜遅くなったのか、今日は仮眠室から出てこないらしい。 彼の両親も、お悔やみの電話一本も入れてこない。
( あの人達に取って私は何なの……? 病院にとって必要なだけなの……
それだったら、結婚する相手は私じゃなくてもいいじゃない。 幸一の両親は、娘のように私を気遣ってくれる…… )
「彩、あの良太は駄目だって! 絶対にやめなさい。あんたの腕だったら、ここより好待遇で迎えてくれるところがいくつでもあるよ。 あんな女遊びしか頭にないような男は絶対にだめ。それにあの母親がだめ、病院長が人格者なのはわかるけど、あの姑は絶対にだめ、息子を溺愛している。 あんな家族の中に入ったらだめ、【神の指先】が鈍ってしまう」
奈津子の言葉が脳裏をよぎる。
彼女はマザコン男と別れたシングルマザーで、自分の失敗と全く同じ匂いがするといつも言っていた。
「求める人より、求めてくれる人と一緒になる方が幸せだよ……」
祖父の言葉を思い出すと
( 別に求めているわけじゃないけど…… )
そう思った時、アメリカにいる先輩医師、長島裕也の笑顔が彼女の脳裏に浮かんだ。
( 何故だろう、ここに帰ってくるとホッとする。幸一のお母さんの顔を見ると気持ちが緩んで泣いてしまいそうになる。 幸一のお父さんと話しているとすごく安心する…… )