お引っ越し
わたしの荷物は、びっくりするくらいに少なかった。
庶民のわたしは、服もほとんど持ってなかったし、イリアスおじさま……エルスタン国宰相リシュレー伯爵が、生活に必要な品はほとんど用意してあるから、身ひとつで来ても大丈夫だと言ってくれたので、母の形見の鏡台以外は布の袋ひとつしか荷物がない。
ちなみに袋の中身は、包丁と包丁と包丁と……あ、あれ、わたしはピチピチの17歳、弾けるお年頃のうら若き乙女なのに、大切なものがこれって……なんか、目から汁が出てきたよ。
いや、包丁のことは大事に思ってるけどね!
料理人の命だしね!
荷造りの必要がないし、わたしがリシュレー伯爵家に移るまでの間は、安全のために食堂にも護衛をつけなければならないっていうので、わたしはそのまま紋章入りの馬車に乗って、住み慣れた我が家を後にすることになった。
噂が広まるのは早いのだ。わたしの存在が知られてしまったまま、このままうかうかと『緑の風亭』にいると、わたしを利用しようとよからぬ計画を立てるものが現れて、大切な家族が事件に巻き込まれかねないのだ。
可愛いメリーの身に何かあったら大変だ!
「レオン父さん、エマ母さん、長い間お世話になりました」
布袋を抱えたわたしが両親に頭を下げると、レオン父さんは「こんなに突然、アナベルが行ってしまうなんて……」と悲しそうな顔をした。
「いつか嫁に出すとは思っていたが……」
「アナベル、幸せになるのよ」
エマ母さんも、涙を拭いて……って、待ってよ、わたしはまだお嫁には行かないからね! 伯爵家に保護されて、勉強するだけだよ!
「なんかばたばたしちゃったけれど、落ち着いたら顔を出すし、手紙も書くから。別に縁を切るっていうわけじゃないんだからね」
わたしは、メリーの頭をくりくりと撫でながら言った。
「どこに行っても、わたしはわたしだよ」
「そうですよ。会いたい時には会えるようにしますし、もちろん、ご一家で我が家に遊びに来てくれてもいいですしね。アナベル姫のご家族なら、リシュレー家が総出で大歓迎いたしますよ! そうだ、アナベル姫をお迎えすることを記念して、パーティを開いてもいいですね! 皆さんでぜひ、いらしてください」
「パーティ、ですか⁉︎」
「いや、そんな華やかなことは……身の丈に合わない場所はちょっと……」
夜会でも開きそうな勢いで大変ご機嫌な伯爵に、庶民の両親はドン引きだ!
「ありがたいお話なのですが、我々には畏れ多いことです」
「そうです。アナベルのところにこっそりと訪問させていただければ、それで充分なのですが」
父さんと母さんが丁寧に断ったのだが。
「いやいや、やはりここは『王家の至宝アナベル姫歓迎パーティ』を開くべきだと思いますよ! どうぞ遠慮しないでご参加ください、もちろんパーティ用のドレスや服はこちらで用意しますし、アナベル姫のご家族席を、ホールの一番いい場所に用意をして……」
「父上。少し落ち着きましょうか」
目をキラキラさせて、歓迎パーティの計画を練るリシュレー伯爵の肩を、セディールさまがなだめるようにとんとんと叩いた。
「その件は、後で打ち合わせましょう。こちらの食堂の邪魔になってもいけないので、まずはアナベルを連れて戻ったほうがいいと思いますよ。そろそろ開店するのではないかな?」
セディールさまの言葉で、わたしははっとして言った。
「そうだよ、そろそろ食堂を開く時間になっちゃう」
仕事上がりの冒険者のお客さんが魔物の森から戻ってきて、夕飯を食べにやって来る時間だ。わたしが抜けてしまうから、稼ぎ時の食堂はいつも以上に忙しくなるはずだ。
「お仕事の邪魔になっては申し訳ない。さあ、父上」
「むうう、そうか。わたしとしては、アナベル姫のご家族ともっと交流を深めて、姫が幼い頃の可愛らしい思い出話など聞きたかったのだが……」
宰相、わたしはアイドルではありませんよ?
そして、セディールさまが手際よく宰相閣下を馬車に押し込み、わたしに手を差し伸べた。
「え?」
「馬車にどうぞ」
……生まれて初めて、男性にエスコートされるよ!
アナベル感激!
嬉しいけど恥ずかしい。なんだか照れちゃう。顔が火照っているのがわかる。
「あの、ありがとうございます」
わたしは蚊の鳴くような声でお礼を言いながら、セディールさまの大きな手に自分の手を乗せた。やんごとなきお姫さまの手ではない。爪を短く切って、包丁タコのある、料理人の手だ。
毎日食堂で働いているから、わたしは本物のお姫さまと違って腕力だってある。エスコートなんてなくても、ひらりと馬車に乗り込めちゃうのだ。
……やだ、こんな手を貴族の男性に見られるなんて、違った意味で恥ずかしい……。
しかし、セディールさまはそんなわたしの手を握って言った。
「働き者なんだね、アナベル」
はっとして、セディールさまの顔を見ると、彼は今日初めて見る優しい表情をしていた。
口元には、薄っすらと笑みさえ見られる。
立派な馬車に乗り込み、セディールさまの隣でリシュレー伯爵の質問に答えながら、わたしはなぜか胸がドキドキしてしまって、伯爵家に到着するまで落ち着かない思いをしていたのだった。
リシュレー伯爵家に着き、布袋を持って質素なワンピースを着たわたしは、世話役のセディールさまにエスコートされながら玄関に向かった。ちなみに、リシュレー伯爵は報告する仕事があるとのことで、わたしたちを降ろした馬車をそのまま王宮へと走らせた。護衛の騎士のフレデリックさんも、名残惜しそうな顔をしてわたしに挨拶をしてから、伯爵について行った。
「父はおそらく、しばらくは戻らないと思うよ。山積みの仕事を放置してアナベルを迎えに行ったからね」
「あら、わたしのために? それは申し訳なかったです」
宰相の仕事って、重要な内容なんじゃないの?
それを放り出して来ちゃったらまずいよね。
「いや、父の自己責任だよ。わたしに任せてくれればいいのに、どうしても自分で行くって駄々をこねたからね、いい歳した大人なのに……だから、アナベルの責任ではないよ」
……ですよね!
そして、リシュレー伯爵がいなくなって、落ち着いた声で話してくれるようになったセディールさまは、かなりいい感じの人だった。
そう、いい感じの人!
それだけ。他意はないからね。
ドキドキしちゃうのは、荒っぽくて熊みたいな冒険者と違ったタイプの男性に戸惑ってるから、本当にそれだけなんだから。
両親が生きていた頃は裕福な暮らしをしていたので、わたしはそこそこ大きな家に住んでいたのだが、さすがに代々続いた伯爵家は規模が違う。両開きの玄関のドアが開かれると、花がふんだんに飾られた吹き抜けの玄関ホールに、使用人たちがずらりと並んでいた。
「ようこそおいでになられました、アナベル姫。使用人一同、姫さまのおいでを心待ちにしておりました」
家令らしい、『エドワード』と名乗る黒髪を撫でつけた中年の男性が代表で挨拶をし、頭を下げた。
うわー、やっぱり姫呼びなんだね!
こんな、ごわっとした地味なワンピースに布袋を持ったわたしよりも、使用人の皆さんたちの方が綺麗な格好をしていて、ちょっといたたまれないね。
エドワードさんが言った。
「姫さま付きの侍女が、お部屋にご案内いたします」
「カティにございます。どうぞよろしくお願いいたします」
上品なドレスを着た若い女性が進み出て、お姫さまっぽくお辞儀をした。貴族の礼儀作法には疎いわたしは、へこへこと頭を下げたい気持ちをぐっと抑えて、にこやかに言った。
「アナベルです。本日よりこちらにお世話になりますので、皆さん、どうぞよろしく」
わたしは『緑の風亭』の肉乙女、アナベルよ! 肉を切らせたら右に出るものはいないわ! という気持ちを込めて、胸を張る。
……すいません、無駄に自信満々なんです。
しかし、わたしは料理の腕を披露する必要はなかった。
「おお、なんという美しい姫なのだろう!」
「あのような服を着ているのに、輝くばかりの美しさだわ。ああ、あの姫を着飾らせたら、どうなってしまうのかしら?」
「お着替えをなさったお姿をぜひ拝見したいわね」
「ええ、早く拝見したいわ!」
あれあれ、主に女子たちが何やら盛り上がってるよ。
今まで知らなかったけれど、この『王家の至宝』という外見には、かなりのインパクトがあるらしい。まあ、町で料理人をしていた時も、別嬪さんの包丁使いということで『肉乙女』と噂されていたけれどね。でも、顔よりも料理の腕前と美味しさが話題だったんだよね。うん、包丁を振るっていたせいか、こんなに別嬪さんなのに恋人ができなかったんだよね……ええい、うるさいわ!
「……では、やってみましょう」
侍女のカティさんが、メイドらしい女性たちに目配せをした。
あれ、今、皆さんの目が一斉に、獲物をロックオンした猛獣のように光らなかった?
わたしの気のせい……なの?
「さあ、アナベル姫、どうぞこちらに」
ああっ、包囲されてしまった!
「さあ」
「さあ」
ああっ、布袋を取られちゃった!
「待ってください、ちょ、セ、セディールさま、あの」
わたしは助けを求めて、世話役の青年に手を伸ばした。
「行ってらっしゃい」
「いえ、あの」
「後で夕食をご一緒しよう」
「じゃなくて」
「それまでは、ごゆっくりお過ごしなさい」
「セ」
「さあ」
「さあ」
「さあ」
ああああー、助けてって言ってるのにー!
そして、わたしはやる気満々の女子ーズに拉致されて、お風呂に放り込まれたのであった。




